我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

人間の絶対的自由 その1

2009年11月13日 | 日記

 

 

 

  

                    藤島武二 『 日の出) 』

 

 日本人は無宗教ですネ、とさらっと言ってしまえば、殆どの日本人は否定しないでしょう。この事は日本人が、宗教を知らない、「未開の民」などでは決して無く、宗教に囚われない自由な心を持っていると解すべきでしょう。

 キリスト教やイスラム教の人達は、宗教の規律によって社会生活を律していると言われています。ですから、この宗教的規範をもたない人は、人としての必要不可欠な要素を欠いている、と見なされるのだそうです。大航海や、アメリカ大陸開発の時代は、スペインやポルトガル人による、現地の人に対する大虐殺がありました。これは「原住民は教化されていないので、人間ではない。」こんな言い訳がキリスト教によって教唆されていたからこそ、出来た蛮行だったのです。


 日本人は海外からもたらされる、全てのものを受け入れて、租借し薬籠中に納めています。様々な状況に於いては、其の基準により物事を正確に判断してきました。大東亜の戦いに於いては、もっと透徹した目をもつべきでした。「ヨシュア記」に観られるような、ホロコーストも由とする、欧米精神の根底の闇に、無頓着すぎました。彼等の眼目は、日本の大きな軍事力を撃滅することにあったのです。ハルノートは言いがかりで、理由など何でも良かったのでしょう。それが証拠に、日本を軍事占領した後に、それほど熱心には、支那のことは構っていません。ヒロシマ、ナガサキの惨禍を見れば、この悪魔的な兵器を開発した科学者が「ヨシュアの末」であることに、思いが至ります。


東京農工大学大学院技術経営研究科教授の松下博宣氏は、

  第8講:一神教における愛と平和と皆殺し
   http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090622/332354/?ST=biz_kaikaku

上記サイトの中で、次のように書かれています。一部抄出します。色の部分がその記述です。

 

教義(ドグマ)は絶対的なものだが,教義を確立するまでには,機微なインテリジェンスが駆使されたのである。皆殺しのインテリジェンスもあれば,「皆殺し」と「愛と平和」を表裏一体化させるインテリジェンスもある。ユダヤ・キリスト教を奉じる個人や国と接するとき,一神教の世界に出かけてゆくとき,あるいはこれらの圏域の企業とビジネスをするときは,気持ちのどこかに以上の議論が示唆するものをとどめておくとよいだろう。 


 キリスト教の旧約聖書としても知られている 『 ヨシュア記 』 には、いかにも惨たらしい皆殺しの様子が、リアルに描かれています。現在の日本人は、キリスト教に対しては一定の知識があります。神の慈愛に関しては殆どの人が知っています。しかし、その愛と裏腹の殺戮に関しては殆ど、知識が無いのだろうと思われます。

 日本に於いては、アイやイェリコ(ジェリコ)の街の人々全員を虐殺する、聖絶の壮絶さを知りません。これは牧師達も日本人を前にしては、説教するのが憚れるからなのでしょう。想像してみますと、信長の戦国の世には彼の牧師達も、この聖絶を語ったのかも知れません。信長はよかったのかも知れませんが、秀吉や家康にはいけませんでした。却って彼等は遠ざけられ、或いは殺されました。

 戦後昭和の時代に教育を受けた人々は、キリスト教や旧約聖書の世界の一面しか、教えられませんでした。最初にこの知識を得たのは小室直樹氏の著作からでした。信じざるべき事が書かれていました。

 最近ではネットを調べれば、此の件に関する情報も、大量に手に入れられるようになりました。時間的な余裕があれば、電子情報だけではなく、書籍などでも確認できればと考えています。

 エリコ(イェリコ)の民は、その家畜に至まで、老若男女全てが殺されました。ただしヨシュアの偵察兵をかくまった、ラハブという娼婦の一族だけは命を救われたのだそうです。このような『ヨシュア記』の著述を見てゆきますと、「危機の弧」辺りで多く観られる、被侵略国の女性を、「ラハブ」のような間諜役に、上手に仕込むものだなあ と嘆息させられます。

 此処にその惨たらしい 『 ヨシュア記 』 の一部を紹介します。

 

 

    殺せ!と神が命じるとき
     http://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html

薄青色の部分が、サイト管理者 佐倉 哲 氏の記述です
紺色の部分は、『 ヨシュア記 』 の引用部分です。

   

聖書における神の殺人命令


一般に彼らは「過激主義」とか「偽宗教」あるいは「邪教」の名を与えられているが、問題の重大さは、実はこのように殺人が神の命令となる教えが、「ある奇妙な新興宗教」だけのものではないところにあります。ユダヤ教とキリスト教の聖典である聖書をひもとくと、聖典の教えもまた例外ではないことが明らかにされるからです。

例えば、神がイスラエルの民に与えたとされるカナン人の土地への侵略に関するモーセの教えと彼の後継者ヨシュアの実践を示す部分は、聖書において神が殺人と略奪を命令するもっとも典型的な例と言えます。  

  

あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。
(申命記7章1~2節)

ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。

(申命記20章10~17節)

七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした。

(ヨシュア記6章16~21節)

主はヨシュアに言われた。「おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。

(ヨシュア記8章1~26節)

ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。」彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。」ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。

(ヨシュア記10章22~26節)

ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。(中略)主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。(中略)ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。(中略)ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。かれはその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(中略)ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(中略)ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。(中略)これらの町々のぶんどり品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。

(ヨシュア記10章29節~11章15節)

あまりに長くなってしまいましたので、この続きは次回に廻したいと思います。

   神はモーセとヨシュアに殺人と略奪を命令し、モーセとヨシュアがその命令に従順にしたがって、殺人と略奪をおこなったことが、ここには誇らしげに記録されています。これらの例は、キリスト教とユダヤ教の聖典であり、また「神の言葉」として現在も多くの信者に崇められている、「永遠のベストセラー」聖書の神の殺人命令のほんの一部にすぎません。

 

 

 

☆m(._.)m☆ 以下は参照記事です。

            

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