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モロッコ

2008年12月03日 | 各国情報

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モロッコ王国 (モロッコおうこく)

通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。
東にアルジェリアと、南にサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と、
北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト。

 

 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認しておらず、1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構加盟に反対して同機構を脱退して以来、現在もモロッコはアフリカ大陸唯一のアフリカ連合非加盟国となっている。


正式名称はアラビア語で、 المملكة المغربية‎ (ラテン文字転写は、Al-Mamlaka al-Maghribiya:アル=マムラカ・アル=マグリビーヤ)。通称、 المغرِب ‎ (al-Maghrib:アル・マグリブ)。 「日の没する地の王国」の意。

公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。通称、Maroc

公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オブ・モラコウ)。通称、Morocco

日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子。

 

 

 アラウィー朝時代(1660年-)

 [編集]詳細は「アラウィー朝」を参照

サアド朝の末期のモロッコはスーフィー教団や諸侯が争う無政府状態であったが、1660年にシジルマサにて現在まで続くアラウィー朝が成立した。アラウィー朝もサアド朝と同じくスーフィー王朝であり、カリフを名乗った。ムーラーイ・ラシードは1670年にモロッコを再統一し、続くイスマーイールはモロッコに平和を確立し、増税や黒人傭兵隊の採用など、政権基盤の強化を行い、メクネスに遷都した。イスマーイールの後に後継者問題によってモロッコは分裂したが、1757年に即位したムハンマド3世によって再統一された。ムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、1757年にオルデンブルク朝デンマークと通商協定を結んだことをきっかけにヨーロッパ各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。

 


アルジェの女たち (1834)
ドラクロア
油彩, (180 x 229 cm) ; ルーブル美術館蔵

 

 1792年に即位したスライマーンは欧米諸国に対し、タンジールのみを開港する鎖国政策を採った。鎖国政策はスライマーンの死後も続けられたが、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍による アルジェリア侵略 の中で、フランス軍に対して抵抗運動を続けていたアブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦いで敗れた。

   モロッコのスルタンと近衛兵
   モロッコのスルタンと近衛兵
   1845年 制作 ドラクロア

 

 その後、世界が帝国主義の時代に入るとヨーロッパ列強のモロッコへの干渉は激しさを増し、1856年にはイギリスと不平等条約を結ばされ、それまでの鎖国政策が崩れた。19世紀の前半にスペインはシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴの反乱によってイスパノアメリカ植民地の大陸部を全て失っていたため、国威発揚のために新たな植民地としてモロッコを狙っており、1859年にはスペイン軍との間にスペイン・モロッコ戦争が勃発した。この戦争でアラウィー朝は敗北し、スペインにテトゥアンを割譲し、1861年に不平等条約を結んだ。イギリス、スペインに続いてフランスも1863年にアラウィー朝と不平等条約を結んだ。

 こうした危機に際し、モロッコのスルターンは当時のフサイン朝チュニジアと同様に近代化=西欧化改革を進め、財政や軍事、行政の近代化を実施したが、チュニジアと同様に成果は上がらず、対外債務の増大と財政危機を招いた。さらに、各地の民衆がスルターンの列強への弱腰を批判し、スルターンの権威をも否定し、ジハードを宣言して外国勢力の排斥を行った[2]。

 アラウィー朝は外憂と内患で統治能力を失っていたため、19世紀末から20世紀初頭にかけてのモロッコはアフリカ分割の文脈の中でヨーロッパ列強の標的となった。1904年の英仏協商でモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌1905年に英仏協商に反対するドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のモロッコ訪問を引き起こし、タンジール事件が勃発した。タンジール事件でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はモロッコの領土保全を確約し、スルターンアブドゥル・アジズはドイツの支持を背景にフランスとの対決を図ったが、最終的にこの事件は1906年にアルヘシラス会議が召集され、現状維持を確認することで終結した。1909年には北部のリーフ地方ベルベル人とスペインの間で第二次リーフ戦争が勃発した。1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したが、この事件でも最終的にはドイツが妥協した。2度のモロッコ事件は英仏の協調とドイツとの敵対を決定づけたが、モロッコの運命を変えることはなく、1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リーフ地域とスペイン領サハラはスペイン保護領モロッコとなった。


 保護領時代(1912年-1956年)
1912年にモロッコはフランス保護領モロッコ、スペイン保護領モロッコ、タンジールの3区域に分割され、スルターンの形式的な主権の下で、各国による植民地支配が行われた。フランス保護領モロッコの初代総督にはウベール・リヨテ将軍が就任した。リヨテは首都をフェスから沿岸部のラバトに移転し、1915年にアラブ人をシャリーア、ベルベル人を慣習法で裁判を行う分割統治を打ち出した。

第一次世界大戦が勃発した後も、マシュリクのアラブ反乱の影響はモロッコには及ばなかったが、戦後1920年にリーフ人のアブド・アルカリームがスペイン領モロッコのリーフ地方で反乱をおこし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームは1923年にリーフ共和国を建国し、自ら大統領となってソ連の支援を得ながらスペイン軍と戦った。アルカリームは一時スペイン軍を追いやったものの、介入したフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。アルカリームの抵抗は失敗に終わったが、第二次世界大戦後の民族解放運動の先駆けとなった運動であった[3]。

1921年にモロッコの人口は3,553,700人に達し、総人口の内、約2.1%がヨーロッパ人だった[4]。また、1923年にタンジールは国際管理都市となった。

1930年にはベルベル勅令が発せられ、アラブ人とベルベル人の分割統治がさらに進んだが、同時にこの頃から反仏運動が盛んになり始めた。1933年にはアラール・ファーシー、ハサン・ワザーニーらによって国民行動連合が結成され、立憲君主制の導入や議会の設置などを訴えた。1937年にこの組織はファーシーの国民党とワッザーニーの国民運動に分裂したが、人民戦線のレオン・ブルム首相は国民党を弾圧した。


一方、スペイン保護領では1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が勃発した。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。

 

 source

1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌1940年にフランスがナチス・ドイツに降伏して第三共和政が崩壊すると、当初モロッコはヴィシー・フランスの支配下に置かれたが、1942年に連合軍がモロッコに上陸し、自由フランスがモロッコを奪回した。大戦中には1943年1月に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれ、同年6月にはルーズヴェルトとスルターンムハンマド・ベンユースフが会談し、スルターンはアメリカ合衆国大統領に独立運動への理解を求めた。このことがモロッコの独立運動を活性化させ、同年末にはイスティクラール党(独立党)が結成された。

 

第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で、1930年代から盛んになっていた独立運動が過熱した。第四共和政はナショナリズムを鎮めるため、1947年に共同主権案を打ち出したが、これはモロッコのナショナリストとヨーロッパ人の双方にとって受け入れ難いものであった。スルターンやイスティクラール党、モロッコ共産党などが独立運動を掲げたため、フランスはスルターンムハンマドを廃位し、傀儡のスルターンを据えたが、このことはモロッコ人の広範な反発を招き、1953年にはゲリラ闘争が始まるまでに至った。1954年にディエンビエンフーの戦いで敗北し、フランス領インドシナを失っていたフランスはモロッコでも譲歩し、1955年にムハンマドが復位した。ムハンマドの帰国後、195632日にモロッコは、フランスから独立した
wikipedia 

 

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