乱鳥の書きなぐり

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法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

2024-05-15 | ことのは

 法然 3  長浄土宗の開宗 

 

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 そういわれれば、苦しい生活を強いられている民衆ならば、人によっては飛びつかれるのは、世の常、、、

 

 今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。

 そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。

 大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。

 時間が欲しい。

 やりたいことが多いが、消化不良が続く。

 自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、

 

法然 1  京博のために、法然上人を下調べしてみる。

法然 2  生い立ちと出家・授戒

法然 3  長浄土宗の開宗 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 

長浄土宗の開宗  (ウィキペディア)

 長浄土宗の開宗

 承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験。

 専修念仏を奉ずる立場に進んで新たな宗派「浄土宗」を開こうと考え、比叡山を下りて岡崎の小山の地に降り立った。

 そこで法然は念仏を唱えるとひと眠りした。

 すると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。

 これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

 法然はこの地に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を設けたが、まもなくして弟弟子である信空の叔父円照がいる西山広谷に足を延ばした。

 法然は善導の信奉者であった円照と談義をし、この地にも草庵を設けた(現・光明寺の南西の地)

 しかし、間もなくして東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺を建てるとそこに移り住んで、念仏の教えを広めることとした。

 この年が浄土宗の立教開宗の年とされる所以である。

 

 法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

   養和元年(1181年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

 

  文治2年(1186年)、以前に法然と宗論を行ったことがある天台僧の顕真が法然を大原勝林院に招請した。

 そこで法然は浄土宗義について顕真、明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたって聖浄二門の問答を行った。

 これを「大原問答」と呼んでいる。

 

 念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。

 なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事した。  

 

 建久元年(1190年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。

 建久9年(1198年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。

 叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

 建仁2年(1202年)には雲居寺の「勝応弥陀院」で、法然は百日参籠したという。  

 

 元久元年(1204年)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。

 

 絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

 法然上人絵伝などでは、法然は夢の中で善導と出会い浄土宗開宗を確信したとされる。

 これを「二祖対面」と称し、浄土宗では重要な出来事であるとされている。  

 

 延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難 詳細は「承元の法難」を参照 元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。

 しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

 念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。

 この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

 

  法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国に流される予定だったが配流途中、九条兼実の庇護により讃岐国への流罪に変更された。

 なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

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