法然 2 生い立ちと出家・授戒
今日は法然の生い立ちを知るため、隙間時間でアサヒグラフを写していたが、ほとんど進まなかったのが口惜しい。
そろそろ好みに合わせて講義の整理を試みなければならないかもしれないとおもいはじめる。
大学生並みの講義の多さで、私の場合は身体が悲鳴を上げている。
時間が欲しい。
やりたいことが多いが、消化不良が続く。
自分なりのやり方で、趣味を進めていこう、、、
法然 1 京博のために、法然上人を下調べしてみる。
法然 2 生い立ちと出家・授戒
生い立ちと出家・授戒 (ウィキペディア)
長承2年(1133年)4月7日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国と、母秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれる。
生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141年)9歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。
その才に気づいた観覚は、出家のための学問を授け、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。
その後、天養2年(1145年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。
源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。
久安6年(1150年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。
「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。
したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。
法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(1156年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)に七日間参篭し、そこに集まる民衆を見て衆生救済について真剣に深く考えた。
そして醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)、次いで奈良に遊学し、法相宗、三論宗、華厳宗の学僧らと談義した。
これに対して『法然上人伝記』(醍醐寺本)「別伝記」では、観覚に預けられていた法然は15歳になった久安3年(1147年)に、父と師に対して比叡山に登って修行をしたい旨を伝え、その際父から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げられて送り出された。
その後、比叡山の叡空の下で修行中に父が殺害されたことを知ったとされる。
また、法然の弟子の弁長が著した『徹選択本願念仏集』(巻上)の中に師法然の法言として「自分は世人(身内)の死別とはさしたる因縁もなく、法爾法然と道心を発したので師(叡空)から法然の号を授けられた」と聞いたことを記しており、父の死と法然の出家は無関係であるとしている
法然 1 京博のために、法然上人を下調べしてみる。
『法然上人絵伝 上』(日本絵巻物大系)と『別冊 太陽』(178)を楽しみ始めた。
ただいま東京国立博物館では『法然展』を展開されている。その後秋には、京都国立博物館に『法然展』がやってくる。
美術などを詳しく展開されていらっしゃるブロガーさんに、『法然上人絵伝』は一期で四軸も公開されるとのことを教えていただいた。ありがとうございます。
そういえば、三月、芝居を見た日に知恩院に行ったときに、【法然800年(要約)】と書かれていたのを思い出す。
知恩院といえば幼いころ、お正月には毎年のように父に連れてもいらったことを思い出す。
いわば思い出の寺の一つである。
京都国立博物館の『法然展』をしっかりと見たいので、今から予習しておくことにした。
まずは安直に、ウィキペディで記録したい。
法然について ウィキペディア(Wikipedについて
法然房源空 長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦)(1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉)
幼名 勢至丸 号
(房号)法然
(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師
諱 源空 諡号 慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・ 天下上人無極道心者・光照大士
尊称 元祖法然上人
生地 美作国(現・岡山県)
没地 洛東大谷(現在の知恩院付近)
宗旨 浄土宗 寺院 法然自身は寺院を建立せず。
師 源光・叡空
弟子 弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、 幸西、信空、隆寛、長西、湛空 など。
著作 『選択本願念仏集』、 「一枚起請文」、他。
廟 知恩院、金戒光明寺、法然寺、 粟生光明寺など。
法然上人絵伝
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。
はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。
法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加諡され、平成23年(2011年)現在、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然聖人/法然上人、源空聖人/源空上人と称し、元祖と位置付ける。
親鸞は『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然のことを「本師源空」や「源空聖人」「よきひと」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
房号(坊号、房号)
①院中の坊につける名前。〔日葡辞書(1603‐04)〕
② 得度後、実名と別につけた僧名。何々坊と称するもの。鎌倉期以後盛んに行なわれるようになった。
※円照上人行状(1302)上「東大寺戒壇院住持上人、諱円照、房号実相」