おひとり様てるこの日記

てることいいます。50歳過ぎましたが気ままに生きてます。人生の危機感ゼロ。

リコンの時の子供の気持ち2

2020-02-21 23:17:00 | 日記
母は関西生まれ関西育ち。三人姉妹の末っ子に生まれた。と、思っていたら、どうやら四人姉妹だったということがだいぶ後でわかった。子供の頃に両親を相次いで亡くし、姉たちが親代わりだったようだ。中学を卒業して、看護師の学校に入り、やがて勤め先の病院で父と出会った。

まず、母が生まれ育った県は知っているが、詳しい地名を全く知らない。いつ母の両親が亡くなったかも知らない。その私の祖父母にあたる人たちがどんな仕事をしてどんな人たちだったかも知らない。戦争中にどんな生活をしていたかも知らない。そして、ずっと三人姉妹だと思っていた。それも、ただ二人の伯母に会ったからそう思っていただけ。そういえば、母方の祖父母の墓参りにも行ったことがない。どこにお墓があるかも知らない。

父がどこで生まれて、戦争中の疎開先、戦後に住んだ場所を知っている。父方の祖父は戦前に亡くなっていて、名前も知っている。毎年墓参りにもいく。曽祖父、曽祖母の名前も人柄も、どうして亡くなったかも知っている。父の姉、つまり伯母にもしょっちゅう連絡をしている。

母については結構知らないことが多いのだ。小学生の私には難しいと思って言わなかったのか。

母の一番上の姉、つまり伯母には一年に何回も会っていたが、そういう昔の話は一度も聞いたことがない…たぶん。二番めの姉は関西に住んでいたので滅多に会わなかった。

伯母は夫と、そして私たちよりもだいぶ年上のいとこたちと都内に住んでいた。母には実家のようなものだったから、母はその家ではのびのびと振る舞っていた。私たちを放っておいて、伯母と楽しそうにおしゃべりをしていた。私は何故か雨戸を閉め切った暗い洋間に入り込み、昔いとこたちが読んでいた漫画を読みふけっていた。小さな弟はいとこたちにマスコットのように可愛がられていた。

伯母は私たちを孫のように可愛がってくれて、母には作れない豪華な料理を作ってくれたり、欲しいおもちゃを買ってくれたりした。夜は母がいとこたちとおしゃべりをしているので、伯母が私たちを寝かしつけた。すごく居心地のいい家だった。初めてコカコーラを飲んだのもその家だった。

両親が離婚した時、あの家に行けなくなり、伯母にも会えなくなることだけが、すごく残念だった。

今から10年ほど前に、久しぶりにその家から連絡があった。伯母がもう長いことはなく、私たちに会いたがっているから、会いに来て欲しいということだった。父と二人悩んだが、後悔するよりは、と行くことにした。但し、母とは会いたくないとはっきりと言った。

伯父は私たちがその家に行かなくなった直後に亡くなっていた。伯母は全身に癌が広がり、病院に行った時は手遅れだったそうだ。居心地のよかった伯母の家は、いとこ三姉妹の三女夫婦が伯母を看るために一緒に住んでいた。

久しぶりに降りた最寄駅は高架になり、家の前の雨が降ると水たまりがたくさんできた道は舗装されていた。空き地だった場所に建て売りらしい家が建ち、鬱蒼としていた雑木林は潰されて住宅街になっていた。でも、伯母の家は少しも変わっていなかった。

いや正確に言えばたぶん、夜中に行くのが嫌だった汲み取り式のトイレは水洗になっていただろうし、母と親子三人で入った小さな石がタイルの様に敷き詰められた風呂も、もっと便利になっていたかもしれない。トイレは借りなかったし、風呂に入る必要は無かったから見なかったけれど。

私が漫画を読みふけっていた閉め切られていた洋間は、いとこの娘さんの部屋になっているようで、父と私が居間に落ち着いた時にその部屋から、若い娘さんが出てきた。アルバイトに行くというので、私たちにペコリと頭を下げて玄関に歩いて行った。

あの子は私の両親が離婚しなければ、今頃は知らない仲ではなく、ちゃんと赤ちゃんから見守って親戚付き合いをしていただろうなあと見送りながら思った。

伯母は朝から調子が悪く、薬を飲んでいるためにボーッとしていて、話があまり出来なかった。でも、私の顔を見てニコニコとしていた。ここで初めていとこの長女が、実は母にもう一人姉がいたことを言った。彼女も最近知ったらしかった。やはり母の過去は秘密が多いなと感じた。

帰りにもう二度と敷居を跨ぐことはない家を振り返って見た。私もこの家に普通に毎年来ていたかったなと、ふと思った。母のことはもう嫌いでも好きでもないけれど、居心地の良かったこの家を母の実家として、毎年思い出を作って行きたかったなと思った。いとこの娘さんと仲良くしたかったな。離婚が無ければ、こんな寂しく切ない経験はしないで済んだのに、と子供時代以来久しぶりに思った。  

伯母は私たちに会った一ヶ月ほど後に亡くなった。伯母の美味しいお稲荷さんをもう一度食べたかったな。




リコンの時のこどもの気持ち1

2020-02-20 21:16:00 | 日記
時々ふと「母は今元気なんだろうか?」と
思うことがある。私が小学生の時に両親が離婚して約40年。会わなくなって何十年になるだろう?最後に母の声だけを聞いたのが、20代前半くらいだったかな?

離婚の原因はたぶん嫁姑問題だと思う。母はだいぶ気を遣っていたけれど、気難しい祖母とは合わなかったのは、小学生の目から見てもよくわかった。

今の家を買いローンを払うために、両親は共働きをすることにした。母は結婚する前は看護師をしていた。結婚してからはずっと専業主婦だったけれど、また看護師に戻ることになった。私たちが子供の頃はまだまだ今より平和だったのだから、私と弟なんて学童保育に放り込んでくれればよかったのに、父は一人暮らしをしていた祖母をわざわざ呼び寄せた。母と気が合わないのはわかっていたのに。

たぶん、母は祖母と一緒に暮らすのはものすごく嫌だったんだと思う。新しい家に引っ越す直前は夫婦喧嘩が多かった。

で、結局引っ越してから半年後に離婚することになった。原因は祖母だけではない。母にも原因はあった。母は再び看護師として働き始めた時に、何故かアマチュア劇団に入ってしまった。久しぶりに働き始めて何かが弾けてしまったのか、子供心にも意味がわからなかった。そして、なんとある夜、引っ越したばかりの新居に劇団の人たちを10人ほど連れて来て、台詞の練習を始めてしまったのだ。祖母はこれに激怒し、それが離婚の一因になった。

それと、もう一つ。母は勤めていた病院の患者さんに祖母の悪口を言ってしまった。軽い気持ちだったのだろう。うちの義母も大変なんですよーくらいの。しかしそのせいで、ある事件が起こった。詳しくは言えないけれど、それでまたもや祖母が激怒してしまった。

ある日小学校から帰って来たら、まだ日が高いというのに母に風呂に入ろうと言われた。その頃はもう私は一人で入っていたのに。母と二人、久しぶりにいろいろと話しながら入った記憶がある。その時に母が急に「お父さんとお母さんはしばらく離れて暮らすことにした」という話をし始めた。

小学生の私にはピンとこなかった。ただ離れて暮らすだけなのだ。いつかまた母は帰って来るに違いないと私は思った。ほとぼりが冷めたらきっと母は帰ってくる。しかし、次の日に母は小さな段ボール箱を数個、大事にしていた文机一つを運び出すと、それっきり家の敷居を跨ぐことはなかった。

それから何度か母に会った。友達なのか彼氏なのか男性と一緒のこともあった。母と会うと今までは絶対に買ってもらえなかったおもちゃや漫画を買ってくれたので、私と弟は母と会うのが楽しみだったのだが、ある日突然祖母にもう母と会ってはいけない、と言われた。

それは、弟が「おじさんと一緒だった」と言ってしまってからだった。そのせいかどうかははっきりとは分からないが、「お母さんは浮気していたのよ!」と強い口調で祖母に言われた。子供にそんなこと言うかなあ(笑)

母と会えなくなるのはショックだったが、正直ホッとしていた部分もあった。なぜならば、母と会って帰ってくると、祖母の機嫌がものすごく悪くて、なんとなく後ろめたい気がしていたのだ。そこから家では母の話はタブーになった。

そこからしばらく母と会うことはなかった。後で聞いたところによると、父は母をどこかの喫茶店に呼び出し、子供たちに会わないで欲しいと告げたところ、母に水をかけられたそうだ。

中学生になってからのこと。吹奏楽部に入り、土曜日の放課後も部活で忙しくなったていたある土曜日、授業を終えてから部活の前に近所のスーパーにあるパン屋に部員達と昼食を買いに出かけた。買い物をして帰ってきて校門に入ろうとすると、後ろから声をかけられた。

振り向くと、そこには引っ越す前に住んでいた団地で隣の家に住んでいたおばさんが立っていた。「今、ちょっといい?」おばさんが言った途端に私は母だ!と直感した。私の不穏な感じを察してくれたのか、友人が「今、急いでるんです!」と私の手を引いて校舎まで一緒に走ってくれた。

走りながらチラッと振り返って見ると、植え込みの陰にいる母がこちらを見ていた。しばらく経って、もう帰っただろうとトイレに行くふりをして廊下の窓から外を見ると、二人は校門から道路を隔てた向こう側の植え込みに体を隠すようにして、私を待っていた。

夕方になってもう一度覗いて見ると、もう姿は見えなかったが、念のため帰りは校門とは反対側のグラウンドを横切った場所にある門から出た。このことはもちろん、祖母と父には言わなかった。言ったら最後、心配症の祖母が騒ぎ出して学校まで付いてくると言い出すかもしれない。その前にせっかく一応平和になりつつある我が家の空気を壊すかもしれない。

私は母を鬱陶しく思い始めていた。祖母は漸く私と弟にガミガミと言わなくなりつつあり、私たちも祖母のやり方に慣れていっていた頃だった。

子供は住む場所を自分で選べない。引き取られたその場所に合わせて生きていくしかない。祖母に従わなければ私たちは嫌われて、そしてもし祖母が出ていけば父が仕事に行っている間、誰も面倒を見てくれない。空気を悪くしたら私と弟の居場所が無くなる。

そして母はいろいろな人を巻き込んで私たちに会おうとした。   

つづく

癒されたなあ

2020-02-15 18:56:00 | 日記
ぬいぐるみを趣味で作ってる友人の個展に行ってきた。

場所は原宿の小さなギャラリーがアパートみたいにたくさん入ってるところ。

何年ぶりかの原宿で、道に迷う私たち。

グーグルマップを見ながらなんとか進む。

あ!あった!

可愛い友人が可愛いものたちに囲まれてニコニコしていた。











なんて可愛いの!!

一緒に行った友人とほんわかしながらぬいぐるみを眺める。

実はかなりのぬいぐるみ好きの私は、どの子をお迎えしようか慎重に選ぶ。

んー!全部欲しい!!

泣く泣く一個に絞った。




足を食べられて3本足になったかわいそうで可愛いタコちゃん。名前はタコ兄ぃと名付けた。

そして、もう一つは4月にお迎えすることにしたタマシイちゃん。

4枚目の写真のもふもふちゃんはなんとぬいぐるみのタマシイらしい(笑)友人らしい発想。

で、センターにいる茶色のもふもふちゃんに「長老」という名前を付けて、お取り置きしてもらうことに。4月のデザフェスでお迎えする。

デザフェスに行ったら、また新しい子もお迎えしたくなっちゃうだろうな。

この友人はアクセサリーも作っていて、うっかりと撮影し忘れたが、ピアスやイヤリング、ブローチなども販売しているのだ。なんて器用なんだろ!

不器用のカタマリの私には羨まし過ぎる。

本人も可愛い。こういう可愛いものが作れる人は心が綺麗なんだろうなあ。

そして一番私が気に入ったのはこの子。




この子は家族であちこち移動しながら暮らしているんだそうだ。

そしてある場所でこの可愛い小さな子に出会い、抱っこ!っていうみたいに両手を広げていたから、DACCOっていう名前を小さな子につけたんだって。

なんて可愛いんだろう、とほのぼのとしてしまった。

あー癒された!

たくさんたくさん暖かいものに包まれた一日だった。