おひとり様てるこの日記

てることいいます。50歳過ぎましたが気ままに生きてます。人生の危機感ゼロ。

ちょっと介護5 いよいよ退院

2019-11-18 12:06:00 | 日記
団地の情報網すげーなーと思ったのは、会う人ごとに「お父さん入院したんだって?」と言われること。元々、自治会の仕事をしてたり、今でも老人会の仕事をしているから顔がちょっと広いのだけれど、まさかこんなに言われるとは思ってなかった。同じ階段の人はまあわかる。なんせ、2日間で3回救急車を呼んだからねー。しかも朝方。

しかし、こちらが覚えてないだけなんだけど、顔見ても知らないおばさま方からゴミ捨てや買い物中や、電車の中でまで声をかけられると、元々すごい人見知りなので面倒で面倒で、平日の昼間におばさま方の集団を見ると遠回りしたりして逃げていた。根掘り葉掘り聞く人もいて、それも嫌だったから。

あと、父がよく行くスーパーのパートのおばさまにも「最近お父さん見ないわねえ」とか言われたりして、どんだけ外っツラええやつやねん!と思うと同時に、ありがたいような感じにもなった。赤の他人が父の心配をしてくれているのだから。確かに父とスーパーに行くと、レジのおばさまと立ち話や挨拶をしたり、そのお店で買わないのに専門店の人と挨拶をしたり。この人がこんなだから、私はかえって人見知りになったのではないだろうか?

さて、そんなふうに世間に揉まれた日々も終わりに近づいてきた。父は病院でリハビリに精を出していた。最初は疲れるのか面倒なのか、リハビリを勝手に終わらせようとして、リハビリの先生に叱られたりしていたのだが、「階段を登れるようにならないと家に帰れないよ。車椅子のままだったらエレベーター付きのマンションに引っ越すよ。お金かかるよ」「布団から起き上がれなかったらベッドを借りるよ。お金かかるよ」「私が仕事に行ってる間に一人で何かできるようにならないと、デイサービスに行かせるよ。お金かかるよ」と脅したら、黙ってリハビリをやるようになった。

そしてこの頃、ソーシャルワーカーのもう中学生(似)が退院後に老健に行かなくてもいいのでは?と言い出した。私はその施設がオムツを取れるようにしてくれて、歩けるように鍛えてくれると聞いていたので、入所させる気満々だった。しかし、リハビリの先生にも「老健に入るのもいいが、これ以上リハビリさせても、これ以上は良くならない。通所のリハビリでもいいのでは?お金もそんなかからないで済むし」と言われ、それならばそうしようかなと、老健を申し込みかけていたのを、キャンセルした。

正直に言う。父は3割負担だ。収入は多くない。今回のことで父の年金額を初めて知り、びっくりしたくらいに少ないのに、3割負担。なぜかというと、私が一緒に住んでいて、私の収入も計算に入れられているかららしい。たかがパートのスズメの涙ほどの収入なのに。それを嘆いていたところだったので、その話はありがたかった。世帯分離という方法もあるらしいが、それはまた後で考えることにした。

父の退院が間近になり、新しい布団を買ったり、履きやすい靴を買ったりしたのだが、そんな買い物をしていて気がついた。うちの近所のスーパーの介護用品の充実度が凄いことに。いや、今の時代どこもそうなのかもしれないけれど、今まで関係ないと思ってあまり気にしていなかった。

オムツなんかは今や当たり前だ。着やすい下着やパジャマ、履きやすい靴、杖、お風呂の椅子、強力な消臭剤、洗剤、ビニル製の手袋、簡易トイレ、その他たくさん。介護する人にも介護される人にも便利な時代になったと思う。私も安心して年を取れるなあと思った。

そして父はなんとか胃潰瘍が治り、無事退院することになった。私のたった2か月の一人暮らしも終わることになった。前に書いたとおり、父の財布無しではできない情けない一人暮らしではあったが、なかなかいい経験になった。未だに父に話してない楽しかったことも沢山ある(笑)

父が退院する前に、看護師さんが夜中のトイレを心配してくれた。というのも前に書いたが、父は普通よりも尿の量が多く、オムツから漏れてしまうことが度々あった。それで、普通とちょっと違うオムツの使い方をして、それをなんとか防いでいたらしい。つまりは、オムツで大事なとこをグルグル巻きにするということなんだけど、若くて可愛い看護師さんは少し恥ずかしくなりながらも、私にそのオムツの巻き方を教えてくれた。

しかし、正直、私がそんなことをやるのはちょっと勘弁であった。父に聞いたら、夜中に起き上がってトイレに行こうと思えばできたのだけど、トイレから一番遠いベッドだったので、面倒でオムツにしていたそうだ。なんつーオヤジ…。というわけで、家ではトイレに一番近い部屋に寝てもらっている。今のところ、失敗はたまにあるが、床をびしょびしょにしたとか寝小便したとかはない。たまにパンツにも挑戦しているらしい。

今回の父の2か月間の入院は、いろいろと学んだことが多かった。ひとときの出会いとはいえ、たくさんの人に父共々お世話になった。初めて経験することも多かったし、なんて私は甘ったれなんだろうと、自分を顧みる機会もあった。自分に自信を持った出来事もたくさんあった。それから、いろいろな人が他人ながら父のことを心配してくれて、非常にありがたかった。

もう二度と入院されるのはごめんだけど、近い未来、そんなわけにもいかなくなるだろう。本格的に介護をする日が来るかもしれない。その時は落ち着いて老人ホームを探すしかないのかもしれないな。







ちょっと介護4 初めての一人暮らし

2019-11-10 13:41:00 | 日記
さて、私はアラフィフだが、今まで一度も一人暮らしをしたことがない。本当は20代の頃に一人暮らしをしたかったんだが、その当時元気だった大正生まれ祖母に、女の一人暮らしは男を連れ込んでると思われる、と言われて反対された。今考えれば、同僚で一人暮らしをしている人が何人もいたし、反対されても一人暮らしをすればよかったなあ。でも、祖母に逆らうと後が大変だったので…。

そんなわけで、父の入院で私は初めての一人暮らしをすることになった。といっても、父のお財布がないと生活できない情けない一人暮らしではあるが。最初は寂しくて仕方がなかった。帰ってきてもお帰りを言ってくれる人もいないし、仕事の愚痴を聞いてくれる人もいないし。

ご両親が老人ホームに入っている友人(ご両親とも重い病気で家では介護できないため)に父が入院したことと、寂しいことをLINEしたら、そのうち慣れるわよという返事が来た。親御さんがお盆に帰って来た時に、鬱陶しくて仕方なかったらしい。そんなもんかなあと思っていた。

確かに、父がいないと「なんだ、このつまらん番組は」と言われないから、ドラマやバラエティをダラダラと見ることができる。朝からワイドショーを見られる。父が嫌いなアボカドをたくさん食べられる。夜遊びができる(あまりしなかったけど)。スーパーに行って買い物をするのがすごく楽しくなった。私が食べたい物だけを買えばいい。栄養が偏らないようには考えたけれど。

友達にたくさん玉ねぎをもらった時は、同僚に簡単なピクルスの作り方を教えてもらったり、スープを作ってみたり、牛肉の切り落としと一緒に煮込んで牛丼を作ったり、料理のレパートリーがほんの少しだけ増えた。

一人暮らしが段々と楽しくなってきた。だからこそ、父の病院に行くのもつらくなかったんだろうなと思う。そう、病院の周りにも楽しみがあった。病院の小さな売店は昼過ぎになると商品がほとんど売り切れてしまうため、父のための水や麦茶はまだなんとか買えるのだが、中途半端な時間に行く私の食べる物が無かった。が、ある日病院に行くバスに乗っていて一つ手前の停留所で降りれば、コンビニに行けることに気付き、コンビニ大好きな私は、そこでおにぎりだけでなく、お菓子やパンを買い込んだ。

そのコンビニを出て病院まで行く道に、マンションや新しい住宅に囲まれた、正直お世辞にもきれいとは言えない数軒の古い一軒家が建っていた。あの大きな台風の時には崩壊してしまったのではないかと、本気で心配したくらい古い家だ。その中の一番道路側に建っている二階建ての家は、いつも道路に面した二階の部屋の窓が全開していた。道路を挟んだ反対側の歩道から、私はいつも歩きながらその家をこっそりと観察した。

二階のベランダは恐らく元からあった木製の手摺りが壊れたのか、よく庭や空き地の周りに設置されているような金属の柵が手摺り代わりにつけられていた。その奥の部屋は懐かしい四角い傘が付いた電灯がぶら下がり、天井からは布製のモビールのような物が下がっていた。壁には古びた振り子時計がかけてある。どうやら二階の部屋は一つしかないようだ。部屋の奥に階段があるらしい廊下にも窓があり、向こう側の空が見えた。

その家には老夫婦が住んでいるらしい。時折り、ランニングシャツにステテコ姿のお爺さんが外に出てきたり、お婆さんが二階の部屋の掃除をしていた。そして、誰が乗るのかバックミラーが付いた自転車が停めてあった。なぜか、その家にすごく惹かれて、大変失礼ながら、その家を見るのが楽しみになってしまった。だから、父が退院した時に、あの家が見られなくなると思うと、ちょっぴり寂しかった。

父が入院したばかりの頃は、寂しくて怖いので、保安灯をつけっぱなしで寝たりしていたのだが、いつの間にか真っ暗で眠れるようになった。そして、台風15号の時は真夜中に風速50メートルという風が吹いたことも気付かず、爆睡していた。

こうしてアラフィフの私は漸く大人になったのだった。なんちって。

そして、父が帰ってきた。友人の言う通り、すごく鬱陶しい!嬉しいけど鬱陶しい!漸く一人暮らしに慣れてきたところだったのに。一人暮らしのために買ったインスタント焼きそばを父に食べられたし!
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。

つづく










ちょっと介護3 ようやく主治医に会えた

2019-11-09 21:19:00 | 日記
仕事が休みの度に、家から1時間かけて病院にせっせと通った。私は平日休みが多いのだが、たまに土日に休みが取れて病院に行くと、患者さんがいないロビーであるドラマの撮影をしていたりして、ちょっと得した気分になった。 

この病院は売店で寝巻き(パジャマではない)を借りたり、オムツも自分で買わなければいけない。この頃まだ起き上がって自力でトイレに行けなかった父はオムツが必要で、普通より尿の量が多いらしく、しょっちゅうシーツを濡らしていた。そんなわけで、オムツがどれだけいるか全く予想ができず、私は休みの度に通って何枚もの寝巻きと大量のオムツを買わなければいけなかった。

父は脱水症で入院したため、水分をたくさん摂らなければならず、たくさん飲めば出てくるのも多いのは仕方ないことだった。しかも父はせん妄で点滴を自分で抜いてしまった「前科」から、点滴はやめてとにかく水分を口から取らされていたのだった。そのため、片手に大量のオムツ、片手に大量のペットボトルという買い物を何回も繰り返した。助かったのは、冷蔵庫が個々のベッドにあったこと。テレビと冷蔵庫が一緒になったカード式のものだったが、夏だったので冷たい飲み物が大好きな父はよく飲んでくれた。

ある日、ふと私は気が付いた。父の主治医に会ってないじゃん。看護師さんから先生がこういうふうに言ってました、という話をよく聞いていたのだが、その肝心な先生に会ってない。なぜに家族が来てる時に顔を見せないの?そんなもの?というわけで、一度先生にお会いしたいと看護師さんにお願いした。が、手術やら休みやらなんやらで漸くお会いできたのが、入院してから2週間ほど経ってからだった。

やって来たのは、想像以上に若い先生だった。まだ30前かもしれないくらい若い男性。笑顔もなく、なんとなく居心地が悪そうにしている。「あんた、私よりお金持ちの家で生まれて偏差値も高いんだから、しっかりしなさいよ」と、心の中で言いながら食堂で話を聞いた(すごい偏見ですみません)。

で、父は結局脱水症で、歩けるようにさえなれば退院できるという話を聞いた。そして、認知機能が少し低下していると言っていた。でもそれは認知症ではなくて、年齢のせいらしい。まあ、元々命に別状はないのはわかっていたから、後は歩けるようになるだけなのねーと、のんびり構えて待つしかないことがわかった。

この頃からリハビリが始まり、私は見学をさせてもらったのだが、本当に父はヨボヨボだった。これで本当に歩けるようになるの?と思うくらいにヨボヨボで、足下がおぼつかないってこういうことを言うんだなあと思いながら見ていた。やはり、老健施設に申し込みしようと思った。

あとは歩けるようになれば、という時に父の退院は延びることになってしまった。お食事中の方には申し訳ないのだが、父は黒い便が出るようになった。胃か腸がら出血している疑いがあるということで、胃カメラで検査したところ、胃潰瘍らしい。ガンだったらどうしよう?とハラハラしていたのだが、胃潰瘍かい。薬で治る程度ということで、今度はその治療で退院が一カ月延びることになってしまったのだ。

ということで、老人保健施設に申し込みかけていたのを一旦キャンセルすることになった。

父はたぶん、ストレスから胃潰瘍になったんじゃないかと思う。なんせ、毎日のように電話をしてきては、病院のメシは不味い、まともに食べられる物がないと愚痴をこぼしていた。事実、あまり食べていなくて、私が水羊羹や水大福を持って行くと、甘いものが苦手な父ががっつくように私の分まで食べていた。

あと、おうち大好き過ぎる人なのだ。入院をしている間、とにかく家に早く帰りたがっていた。そんな人が2か月も入院しなきゃいけなくなって、わがままを聞いてくれる可愛い娘もいなくて、好きな物も食べられないし、大好きな番組をやっているBSチャンネルは見られないしで、そりゃあストレスが溜まると思う。

しかし、そんな中、父を癒してくれる人が現れた。それは病院の付属の看護学校から実習にやってきた19歳の女の子だった。学生さんは父をお風呂に入れてくれたり、話し相手になってくれたり、いろいろと面倒を見てくれたらしい。孫といってもおかしくない歳のこの学生さんに、大好きな落語の話を聞いてもらったりして、本当にお世話になったらしい。




学生さんがこんな絵を父に描いてくれた。私も実際に何回か会ったんだけど、このイラストのように可愛らしい真面目そうな学生さんだった。実習が終わる時、涙を流して寂しがってくれた。その気持ちをいつまでも忘れないでいて欲しいなと思った。



ちょっと介護2 老健施設に見学に行った

2019-11-05 20:48:00 | 日記
さて、入院したての父がせん妄でまだすっとぼけたことを言ってるときに、病院のソーシャルワーカーさんがやってきた。父の今後のことの相談にのってくれるという。

父がもしこのまま歩けなければ、リハビリをやらなければいけないし、もし歩けないままならば今のエレベーターがないマンションから引っ越さなければいけないだろう、とメガネをかけたもう中学生に似たソーシャルワーカーさんは言った。入院したばかりなのに、突然そんなことを言われても、と私はよく分からなくなった。

ちょっと何言ってるかわかんないって喉まで出かけたが、つまり先の先のことまでもう考えとけって言ってるんだなと、思い直した。引越し!!人生3回目の引越しになるのか。1回目は赤子だったから覚えてないけど。その夜、早速スマホでSUUMOに登録してみた。条件を入れて探すと、案外うちの近くにも賃貸物件はたくさんあった。

しばらくそれらの見取り図を見ながら、父と二人その部屋に暮らすことを想像した。車椅子に座った父とそれを押す私。デイサービスに行く父を見送る私。CATVとBSが見られるならばいいかなあ。オートロックがいいかも。2部屋くらいあれば十分か。エアコンと冷蔵庫と洗濯機はうちから持って行こう。ベランダは南側かな。ハッと気付いたら数時間経っていた。SUUMO楽しい!

さて、もう中学生(似)に教えてもらったケアセンターに、相談に行くことにした。そこは自宅から近く、スーパーに行くときに前を通る養護老人ホームの中にあった。前回のブログに書いたが、車を運転するしか役に立たない弟と嫁を呼び出し、一緒に行ってもらうことにした。

約束した時間よりずっと早く着いてしまったので、デイサービスに来ているらしきご老人の皆様を遠くから遠慮気味に眺めた。何か合唱しているようだ。昭和歌謡っぽいな。体操をしている人もいる。そっと弟を見ると、弟も私を見ていて目が合った。「お父さんには無理」と目で話し合った。
集団行動が嫌いで、飲み仲間以外は同世代が大嫌いな父なのだ。つまりひねくれ者。

しばらくして事務所から女性が出てきて、事務所の中に案内され、私より少し年上の女性Sさんが私たちを迎えてくれた。ちょっと緊張気味の私たちに優しく介護関係の説明をしてくれた。こちらもその優しい雰囲気に釣られて、プライベートな悩みを相談した。やはりここでも、もし父が歩けなくなったらという最悪のことを考えて、いろいろとある民間のリハビリ教室などを教えてくれた。

そこを出て、普段人見知りな私がペラペラと初めて会う人に父についての悩みを打ち明けてしまったことに気付いて、我ながらびっくりした。もし介護することになれば、初めてのことばかりだから誰かに教えて欲しい。しかし、最初の知識を誰から教えてもらったらいいかわからなかった。Sさんはそんな私の不安を一掃してくれた。

そして、介護認定をSさんを通じて申し込んだ。そんなことまでSさんはしてくれるのだ。因みに父はまだせん妄でボケていて、しかもまだ歩けない時だったので、要介護4になってしまった。父の姉、伯母によると伯母は要介護2だったのが今は要支援2になったらしい。そういうこともあるんだな。

それから、もう一つ、もう中学生(似)の紹介で行ったところがあった。それは老人保健施設だ。三ヶ月間、そこに住みながらリハビリをするのだ。そこは自宅から自転車で40分くらいの場所。今の家に引越しで来る前に住んでいた家のすぐ近くだった。早速電話で予約をして、またもや弟に車を運転させて、見学に行った。

着いてびっくり!すごーく豪華などこのお金持ちの家だろう?と思うくらい、立派な建物だった。もちろん、中も豪華な感じ。まだ新しいらしい。一階の広いフロアでは、父と同じくらいの年齢の人たちがリハビリに取り組んでいた。なかなか立派な設備だ。11時過ぎに行ったので、食堂では食事を待つ人たちがおとなしくテーブルについていた。

ちょっと気になったのは、みんなおとなしい。誰も喋っている人がいない。というか無表情だな。こういうの、父は苦手なんだよなーと少し気になった。

居住用の部屋は個室か4人部屋で、もちろん個室は高いので4人部屋を考えていた。部屋は広くて4人でも十分プライバシーは保たれている。それぞれカーテンで仕切られ、枕元には低いタンス。入り口付近にはひとりひとりのためのクローゼットもある。テレビも使用料を支払えば、貸してもらえる。床屋さんが来てくれて、もちろん病院にも必要なら連れて行ってくれる。

携帯電話は施設に預けて、必要な時だけ渡される。就寝は19時…早くないですか!?
と、後でケアセンターのSさんに聞いたら、たぶん消灯は21時くらいなのでそれまでは自由時間だろうと言っていた。携帯電話は預けてしまうのか…。

実は父は入院するまで父は携帯電話を持ったことがなく、最初は歩くのが困難だったため、携帯電話を買ってあげた。父はなんとか使い方を覚えて、一日に何回もこちらが仕事中だろうが構わずかけてきた。たぶん、初めての長い入院で寂しくて、不安だったんだと思う。そんな父が、果たして携帯電話を始終持てない状況に我慢できるのだろうか。

しかし、その当時の父はリハビリが必要だったし、どこまで良くなるのかわからなかったし、病院でのリハビリだけでは専門ではないから専門の施設に入った方がいいと言われていたし、施設の場所が家から自転車で行けるし、多少お金がかかってもいいからこちらにお世話になりたいと、私の中で8割ほど決まっていた。だから、その直後に自転車も買ったのだった。着替えをたくさん持って行くために、大きいカゴを荷台に付けた。

施設見学の帰り道、弟夫婦とスシローに行き、私の奢りだから好きなだけ食べなさい!と言いながらトロやサーモンやチーズケーキを食べ、嫁は寿司をつまみにビールを飲み、そして弟はイクラ巻きをつまみにウーロン茶を飲みながら、3人であの施設いいよねーと言い合った。が、本当はみんなあまり納得してないような、なんか複雑な空気だった。

さらにその後、ホームセンターで普通のスーパーにはない洗剤の巨大な詰め替えを買い、弟の車で運んでもらいながら、やっぱり納得しなくてもリハビリして欲しいから、あそこに入ってもらうしかないかなあとぼんやりと考えていた。

ガラリと話が変わるが、せん妄中でも父の記憶力は凄かった。入院前に飲みに行く約束をしていた父の友達にお断りの電話をするために、電話番号を書いてある手帳のありかを聞いた。すると父は「〇〇さんは090の…」と何も見ないで言い出した。それから生命保険のおばさんの電話番号も何も見ないでスラスラと言った。昔から数字を覚えるのが得意だったけど、せん妄中でもその能力は失われないものなんだなと感心したのだった。

つづく。