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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

『西天龍』の回顧談から④

2010-06-03 17:18:32 | 西天竜

「『西天龍』の回顧談から③」より

 前回「西天龍開発事業は地許の人がこぞって県へ陳情をしてやるような仕事ではなくて天下りのものであった」という中箕輪町木ノ下の北条孫七郎氏の言葉を引用した。大きな恵みを与えてくれた事業ではあったが、結果としてそれは評価されるのだろうが、不安も多く反対する人も多かったようである。そんな不安の一つについて回顧談の中に同例が見られる。中箕輪町沢の北沢武保氏は「繭の値がよい為食糧は売っても有利であり何等支障はなかったから開田をすると水田一本化となり危険である」という反対理由をあげており、また中箕輪町木ノ下の北条孫七郎氏は工事を通じての問題点として「営農方式が一変する事 桑園を一度に田にしては困るという苦情」をあげている。北沢氏は「農家の経営上適正規模からみた田畑の割合幹線水路が山林と畑との境界線を通るので経営上水田単作地帯にあり早期現金収入になること及び安定性に欠ける」とも言っている。文脈から正確なところを解釈しづらいのだが、繭の値が高かったということもあって、現金収入の源を断ち切るさということへの不安が多かったことがうかがえる。畑は現金収入を得ることができるいっぽう水田は現金を得る方法としては短期ではないという懸念があったわけだ。さらには「単一化」という言葉が出ているように、複合的営農が水田一本に特化されることを避けたいという思いもあったうだ。

 この単一化の懸念は、後に新たな開発と進む。『西天龍』の「土地利用の変化」の中に「整理前約八五○町歩あった桑園は約六五町歩前の八%弱に減少してしまった(昭和十四年現在)そこで減少した畑を補うために西天の水田より西方の森林原野の一部が新たに開拓された」と記述されている。同書にある土地利用の状況を見てみよう。昭和2年に開田が始まるわけであるが、その年の土地利用によると、田25町7反、畑952町1反、山林原野374町4反であるのに対し、12年後の昭和14年には田1117町5反、畑195町8反、山林原野13町3反と大規模に変更されている。田は43倍、畑は8割減、山林原野はなんと開田前の4パーセント弱まで減少している。当時の水田耕作にあたって肥料をどうしていたかにも関係するが、かつてシバカリをして肥料を踏み込んでいたことを思うとこれほど山林原野がなくなってしまって肥料はどうしたのかということになる。先ごろの「稲作の栞」を見る限り、現代的水田耕作にすでに変化し、カリシキを踏み込むようなことはしていなかったのかもしれない。とはいえ、実際山林原野として管理してきたそれまでを思うと、耕作地の増加によって労力不足が危惧されたことだろう。反対の理由の中にも「山林原野にしておけば管理上の労力がかからない」という説が上げられていた。

 それにしてもこれほどの変化は、当然のこと人々の暮らしを大きく変えたといってもよいだろう。そんなひとこまを記述から読み取ることができる。「畑地の水田への転換は、水稲の副産物としての「わら」が収納される。(中略)「わら」の用途は中々広いが飼料と肥料がその大半を占めようが、生産高の一割を「わら細工」として加工すれば農閑期労力の活用ともなって労力問題が緩和され、水田の利が収められることともなる。各処この地域農家の屋敷一部に半埋没式わら細工小屋が仮設されたり或は製じょう機、製えん機も設置されて農閑期を有利に導いたのも水田化の恩恵は大きい」と述べている。戦後10年満たない時期に編集された『西天龍』であり、水田特化にまい進しようという時代である。かつてわら細工が農閑期や夜なべの仕事だったというのはごく当たり前のように聞くわけだが、いずれ開田されて水田が耕作地の多くを占めるようにならなければ、その当たり前のような暮らしぶりは語られなかったわけである。いずれにしても単一化への不安を越えて、人々はまだまだ複合的に余力を利用しようとさまざまな仕事へ目を向けていた時代とも言え、必ずしも現代の単一化傾向の農家とはまた異なる姿をそこに見ることができよう。


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