Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

虫倉山の懐で思ったこと

2007-04-17 08:22:25 | 農村環境


 つい先ごろまでたびたび訪れていた虫倉山のある風景が、今や遠いものとなった。長野からそう遠くない中条という地で何を学んだのか、そう思うすきもなく、次の暮らしに追われる毎日だ。なかなか歴史を振り返るなどという悠長なことを言っている暇はない。が、本当はそんな思いを持って、新たなる暮らしに生かしてゆかなくてはならないのだろうと思う。

 中ほどにそびえる山こそ、虫倉山である。夕方の薄暗くなった逆光に浮かんだこの山は、この地域の人たちの象徴的な山として存在してきた。頂のある場所は中条村の内である。しかし、この山を望める地域は、中条村以外にも広範にある。そういうこともあってか、信仰の山としてこの地域に存在してきた山でもある。手前の尾根から念仏寺沢の谷へ落ちる傾斜地に点在する集落は、日下野の桜出である。虫倉山を望む周辺地域には、こうした条件下に家々が点在することが多い。そして岩盤上にある表土が「抜ける」ことが多く、地すべりという現象を起す。長野近郊でありながらとてつもなく田舎である。おそらく何年か後に、この地は長野市になっているのだろうが、果たして人々は継続的に暮らし続けることができるのだろうか。そんな厳しい条件下だからだろうか、この山を中心とした地域には大姥伝説が分布する。鬼女紅葉伝説で活性化しようとした旧鬼無里村は、名前からして雰囲気を持っていた。内容は若干異なるものの、似たような伝説を各地に残している。そして、木食行者の存在である。虫倉山が念仏聖たちの聖地であったともいう。

 写真でもわかるように集落から虫倉山は直接見ることはできない。しかしながら、尾根へ登るとそこには山の姿がある。同じような家々が点在しているこの地域にとって、象徴的にそびえる山とはいかほどのものだったのだろう。もっといえば虫倉山とは別に、北アルプスの一年中残雪を残す山がその向こうに見えていたはずだ。それらの山とこの山がどう位置付けられていたのか。あるいはどう人々に映っていたのか、ついぞそんな問いを村の人たちに一度も問う機会がなかった。

 長野近郊でありながら田舎を体感する村々が、ここに限らず多い。長野県内のどこよりも「田舎」を印象付けられたのは、ここには県外ナンバーの車がやってこないことだ。平日の姿しか見ていないから、休日がどうなのかはわからないが、例えばかつて観光地としてみるべきものがなかった伊那谷でも、今や平日の山間でも県外ナンバーの車が走っていたりする。名古屋とか東京という地と、その地がどういう距離にあるかということも影響するのだろうが、そんな空間にいると「田舎」を忘れてしまうこともある。おそらく観光目的でなくとも、伊那谷の山間でみる県外ナンバーは近親の者であることも多い。そこへゆくと、この地には外部と遮断された空間という印象がある。なぜそういうことになるのか、地域性と簡単に片付けられない何かがあるとわたしは思う。それほどこの地に、わたしには惹かれるものがあった。

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