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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昭和58年台風10号・後編

2015-09-13 22:11:52 | つぶやき

昭和58年9月30日信濃毎日新聞朝刊

昭和58年台風10号・前編より

 昭和58年台風10号の爪跡は甚大なものだった。当時の新聞から振り返ると、浸水被害は堤防の決壊した飯山市常盤だけではない。諏訪湖の周囲での浸水も2年続きだった。諏訪市内では約4千戸が浸水した。何より諏訪湖は天竜川の源。釜口水門を介して天竜川へと発する。ようは水門がなければ浸水することはないのかもしれないが、諏訪湖の水を一気に流せば天竜川が氾濫する。ようは諏訪湖がダムのような形になってしまっていたのだ。この後釜口水門が改修され、諏訪湖の浸水騒ぎも近年は聞かない。

 やはり頻繁に浸水騒ぎのあったのは長野市松代温泉団地だ。この年3年続きの浸水となった。231世帯あった団地のすべてが浸水し、内150世帯は床上浸水を被った。もともと松代藩の猟場だったこの地は、低湿地帯だった。松代群発地震によって湧き出した鉱泉が流れ込んで米が作れなくなった土地を、旧松代町が買い取った後、合併後の長野市開発公社が温泉付き住宅として分譲したのだ。当初はもう1メートル盛土する予定だったが、周辺から反対されて成し得なかった。ようは周辺の人々も元来の低湿地帯を盛土すれば排水機能が低下して周囲にも影響しかねないと考えたからだった。低い土地のリスク、解っていても求める人もいれば、それを売り出した側もいた。

 この台風災害で新聞を賑わせたのは、奈川村もそうだ。村に通じる県道が被災して孤立状態に。このほか旧信州新町の浸水被害も目立ったものだった。まだ長野道が開通する前のこと。動脈である国道19号も通行止めとなった。県内のいたるところが被災するという大規模な災害をもたらせた台風10号なのである。そして何といってもそれらの被害に比較すると目立たなかったが、飯田下伊那地域の被害は昭和36年の梅雨前線豪雨災害以来といわれるほど甚大なものだった。このあと、昭和58年台風10号災害を上回る災害は起こっていない。

 千曲川本堤の決壊というインパクトのある災害の地で働いていたものの、この後降雪のあるころまで下條村の災害復旧に携わった。老人福祉センターに1ヶ月ほど寝泊りしていたのも、印象深いものとなった。


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