「現代の道祖神②」で厄落しについて触れた。伊那市あたりでは厄年というと男25歳・42歳、女17歳・33歳とされている。ごく一般的な年齢であるが、生家のあたりでは女33歳ではなく37歳という。今もそうなのかどうかは確認していないが、今の住処に移ってからのこと、妻も37歳のときホンヤリ(松焼き行事のこと)の点火役を担った。上伊那郡の南部あたりから女33歳が37歳に変わる。このことについて竹入弘元氏は『伊那谷の石仏』の中で「全国的には三三歳ですが、ここは三七歳」と上伊那郡中川村の道祖神の項で述べ、さらに「駒ヶ根辺りからそうなり始めます」という。『長野県史民俗編』第二巻(一)南信地方においてその年齢についてさらに詳細に調べてみると、女37歳としているところは伊那市下殿島、宮田村北割、駒ヶ根市市場割、飯島町石曽根、中川村大草、松川町新井、同長峰、大鹿村沢井、同下青木、豊丘村中平、喬木村帰牛原、飯田市羽場、同名古熊、同松尾、同上虎岩、同伊豆木、阿智村備中原、同恩田、同前原、下條村吉岡、阿南町和知野、合、同浅野、売木村、泰阜村金野、旧南信濃村十原、平谷村柳平がある。このうち伊那市下殿島では女33歳も厄年としており、混在している地域である。いずれにしても上伊那南部から南において女37歳としていることはここからもよく解る。
伊那市上川手で厄落しの光景を見てから、注意して道祖神の周辺を見ている。上伊那でももっとも双体道祖神が多く、また立派なものが現存している辰野町あたりを見回しても、厄落しをした形跡はほとんど見られない。彫も見事な道祖神のほか比較的大きな立派な石碑が周辺を囲んでいるような場所は、当然信仰の篤さを思わせるわけだが、そうした場所でも茶碗のかけらなど皆無。必ずしも現代においても信仰が篤いというわけではないのだ。
厄落しといえばふだん利用しているご飯茶碗に、お金を年の数だけ入れて小正月の14日の晩に道祖神に行き、後ろ向きになって道祖神に茶碗を投げつけ後ろを振り向かずに家に帰るとされいる。投げた茶碗は割れないと厄が落ちないともいった。誰にも会わずに、そして見られないように落としてこなくてはならないのだが、現代ならいざ知らず、かつてのように地元に同い年が住むのが当たり前だった時代なら同年はもちろんのことも厄年の者も多かったはず。とすれば誰にも会わずに厄を落としてくるというのも至難のわざだったのかもしれない。わたしも男25歳の厄年のとき、この厄落しを経験したものだ。茶碗の中にはお金が足らなければ大根や人参を輪切りにして代用したようだが、わたしのころはすべてお金というのが当たり前だった。友達に「厄落しをしたか」などと聞いたこともなかったが、同年の人たちが同じように厄落しをしていたかは定かではない。またかつては投げられたお金を競って子どもたちが拾ったとも言われるが、わたしの子どものころ、厄落としのお金を目当てに拾いに競って行ったなどということもなかった。そもそも厄落しをする人も少なかっただろうし、拾ってもそれほど大金になるというわけではなかったから、すでに当時の子どもたちにしてみれば魅力がなかったのかもしれない。
それにしても人には見られてはいけないなどいう割には、競って子どもたちがお金を拾ったというところからすると、人に会わずにという禁忌は難しい話。とはいえ子どもたちもそれは承知のことで、知っている人でも声を掛けるなどということはしなかったのだろうし、だからこそ厄を投げたあとに後ろを振り向かないということを言ったのだろう。もちろん振り向けば厄がついてくるということを言ったものだ。14日の晩はホンヤリ(松焼き行事)が夕方行われ、厄年の者はみかんをひと箱用意していって、集まった人たちに配った(厄を拾ってもらう)ものだ。集まる子どもたちにとってはここでいただくみかんが楽しみだったのだが、そもそも物をいただくということが目当てだったのだ。このホンヤリが終わったあとに厄落しは行われた。
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