Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度①

2006-06-15 08:14:57 | 歴史から学ぶ
 わたしは若いころ、いろいろ収集していた。「なんだこんなガラクタは・・・」などといわれるようなものばかりだったこともあって、肩身の狭い思いをするころ(長男ではなかったのでいずれ家を出ることを悟ったころ)には、そこそこのガラクタは処分した。しかし、元来のコレクター好みは、その後も妙なものを集めたりした。そんな集めたものの一つが、観光パンフレットである。これから何回か、この観光パンフレットに触れていきたい。

 写真のパンフレットは、今年の元旦に長野県大町市に編入合併された旧北安曇郡八坂村のものである。こういう具合に公開することは、もしかしたら著作権に触れるのかもしれないが、詳細はわたしにはわからないので、もし問題があったら指摘してほしい。なるべく他に流用できない程度の解像度で公開することにするが、なによりパンフレットからその村の、その当時の姿が解ってもらえるようにという意図でイメージを載せることとした。

 ここに紹介したものは、昭和55年の1月に八坂村より送っていただいたものである。A6判で12ページ立てのパンフレットである。その表紙に書かれた「北アルプスのみえる村」は、この村をうまく表現している。平地は少なく、起伏のある地形の斜面や尾根に家々が点在する。尾根道に出ると、急に北アルプスが開けたりして、同じような地形が続く長野市から大町市にいたる間にある村々から望む北アルプスは、大変美しい。パンフレットを開いたところにある文には、「北アルプス東山山麓の村」と表現されている。長野市から大町市側にある旧鬼無里村や旧戸隠村をはじめ、現在もある中条村や小川村など一帯は、「西山」と言われてきた。長野市から見ると西に位置する山間の村ということでそう呼ばれたのであろう。この西山という地域名は、昔からわたしも認識していたが、大町市からみた場合の東山という呼称は知らなかった。確かに大町市側から見れば、長野市の間にある村々は東山である。

 当時のこのパンフレットに書かれている八坂村の人口は約2000人とある。ところが合併時は1100人余だった。25年余で人口は半数となっていたわけだ。「八坂の名のとおり、坂の多い起伏に富んだこの村はなによりもまず、北アルプス連峰のすばらしい展望と、さわやかな自然の香りにめぐまれている。忘れられていた、自然と人間との温かな結びつきが、ここ八坂村には満ちている。アルプスの輝きと澄んだ大気、素朴な村人たちとの語らいは、ふるさとの実感を味合わせてくれるだろう。」と冒頭に書かれている。八坂村は山村留学制度の発祥地といわれる。パンフレットでもそのことが触れられており、約30軒ある民宿も紹介されている。写真は確かに25年の経過を伝えているが、山村の生活で表現しようとする意図は、今でも十分通用するものである。しかしながら、そんな活動では村は自律できなかったという印象がある。無理もないだろう。松本と長野を結ぶ幹線道路である国道19号の沿線ではあるものの、長野自動車道が開通後は、長野県北部へ向かう人たちの多くは高速にまわるようになって、国道19号からかつての活況はなくなってしまった。

 簡単なパンフレットではあるが、わたしには印象深いものである。それは後半のページに案内図があり、村内の12箇所の道祖神の位置が紹介されているからだ。この概略の地図だけで訪れるのは難しいかもしれないが、ずいぶん昔、この地図を見ながら八坂村の道祖神を訪ねたことがあった。その当時はまだ長野自動車道は開通していなかった。だから長野県の南部から長野へ向かう道筋ということもあって、身近な存在であり、「ついでに寄って見る」ということをしたくなる位置にあったのだ。ところで、改めて八坂村に触れてみて、山の中の村ではあるが最も高い山で鷹狩山の1164mだと知った。意外にも高い山が少ないのだ。この西山といわれる一帯は高い山は少ない。そのおかげで長野市から北アルプスが望めるのだ。

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