Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「美しい」は使わない

2008-12-07 17:41:16 | 農村環境
 美しいという表現はあまりしたことがない。言葉そのものの形容が高貴すぎて使えないというのが印象である。例えば美しい紅葉に出会ったとしよう。この場合「きれい」という言い回しをして「美しい」という言葉は利用してこなかった。きっとこの言葉は、かなり人に意識的に表現しようとするものであると思う。

 先日ある集落の中を仕事で歩いていると、おばさんが「何をしているの」と言葉をかけてきた。自宅の脇の水路を調べていたから気になったのだろう。おばさんに内容を説明したあと、こう言うのだ。「ここの水路をこんなふうにしてしっまったから蓋が開けられなくてどうにもならない」と。集落内の上流で物を流す人がいるようで、以前ならそれらを取り除くことができたが、今ではそれができないというのだ。先ごろも蓋をかけてしまった水路のことについて触れたが、メリットとデメリットが現れる共同施設であることは確かである。今回の蓋の架かった部分はほんの10メートルほどの区間なのだが、おばさんの自宅の上で直角に曲がっているというのがネックで、ようはゴミが詰まりやすいということになる。とくに周辺の人たちに相談したわけでもなく、集落の一部の人たちの要望でその部分が暗渠化されたのだろうが、この方が道が広くなるし、空間も広がる。集落内ということもあるから安全という面も高まる。その方が誰もが認める良策と思ってのことなのだろうが、それはゴミを流さないというのが前提となる。もちろんモラルからいけばゴミを流す方に問題ありということになるだろうが、このあたりがなかなかすっきりしない人模様となる。

 ゴミがを捨てるとか流す行為は、モラルが低下したから始まったものではない。もちろんかつての「使い川」の時代にはもっと多様な掟があったのだろうが、一部分だけが継承されていてそれが現在に照らし合わせればモラル低下という見方をされることになる。このあたり、する方の言い分というものもあるのかもしれない。農村では例えば環境美化という面にはまったくそぐわない行為がたくさん行われてきた。しかし、どちらかというと循環思想が意識せずとも機能していたもので、必ずしも美しさを求めたという行動ではなかったかもしれない。それでもかつての農家の庭先は見事に清掃され、田んぼの土手も今のような機械刈りの美しさはなくとも整然と手が入れられてきた。何がそうさせたかといえば、それぞれに意味があったはずで、美化という目的が前面に押し出されたものではなかったはずである。ところが現在は「農村は美しい」という農村志向派の気を引く言葉に引かれて、そんな看板に地域のイメージが偶像化されているようだ。自らを「美しい」と象徴して売りにするのはどこか価値観の歪を感じる。以前にも触れたが、やはり切り取られた美しさが減少することでよりいっそうそれを意識していくのは仕方ないことだが、多様な場面にそれは存在するのではないだろうか。

 かつてどこにでも当たり前のように存在した今で言うところの「美しさ」、それはけして今も一部分だけに見られるものではないとわたしは思う。以前童画家で写真家の熊谷元一さんの写真集の1枚1枚のキャプションのコメントをして欲しいと依頼されたことがあった。最終的にはキャプションはご本人がされて、わたしはおこがましいことであったが、解説ということで文を書かせていただいた。膨大なベタ焼きされた写真に触れて、熊谷さんの写真には子どもたちの、また農村の人々のいわゆる「美しい」表情が蓄積されていた。なぜこの時代の子どもたちは、また人々はこれほど豊かな表情ができたのか、またその表情を屈託もなくカメラに向けることができたのか、などと思うとともに、きっと現在もそんな「美しさ」があるはずなのにわたしたちは気がついていないのではないだろうか、と感じたわけである。人々は自ら美しいと言ってそんな表情を見せたわけではないだろう。同じことがわたしたちの舞台にも言えるはず。自分たちの変わらぬ暮らしから自分たちの価値は何かを認識し、「美しい」などという漠然とした高貴な言葉でわたしたちをアピールするのではなく、変わらぬ日々の中から変わらぬ表現の切り取りををして言葉を捜したいものである。

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