Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

村とは何か②

2008-08-06 12:33:18 | 民俗学
「村とは何か」①より

 『日本の民俗』6「村の暮らし」の中で目を引いたのは、和田健氏の「村の変容と存続」である。この中で和田氏は、「「村の崩壊」という見方は未来には何も生まれないものであり、その見方は悲観的なノスタルジーにすぎないのである」と最後にまとめている。この本の最後を和田氏が執筆し、そしてその最後に記述している前述の意図は大きいとわたしも思う。ようは「村は崩壊」した、とか「村はもう終わりだ」という投げやりな捉え方が正しいとは思わない。しかし、現実的には明らかに村は無くなりつつあり、無くなった村も数知れない。先般「廃村をゆく人」で触れてきたように、村は無くなり、無くなったその後の村はなかなか捉えられないものになりつつある。そうした中、わたしが触れた旧高遠町芝平の姿を追うと、その村は別の場所へ集団移住という形で存続しているが、それはかつての村の戸数にしたら、ほんの僅かな戸数だけであり、多くの人々は散り散りとなって現在に至っている。にもかかわらず、全国芝平会なるものができあがり、村が無くなった以降も精神的な部分で村を思い描いている姿が現存している。これは、集団移住した村とは別な意味で、村のイメージが作られ、また生きている姿であるだろう。こういう芝平のような村について和田氏は触れていないが、変容と存続という意味では注目できる存在ではないだろうか。それはコミュニティーという実際の形の見える村だけでなく、形は見えなくとも「村」が存在するという捉え方にもなる。

 和田氏は村が無くなろうと、その先に再び形成されていくコミュニティーには、崩壊した村の再生があるというようなことを言っている。確かに崩壊=無・死という構図がイメージされるかもしれない。だからこそ、そういう視点で捉えるのではなく、何かが生まれるという方向性で照射しなくては学習がないともいえる。そうした示唆は過去へ回帰してばかりいる人々には大変意味のあるものだと思うわけだ。とはいえ、和田氏は冒頭「「村」ということばの持つイメージを考えてみると、おそらくことばに対して素直に「未来に向けて発展していく」と感じる人はいないだろう」といい、「村」をけして良いイメージでは捉えていない。そして「村という言葉は過去へ向いた時間認識でとらえられてしまう」ともいい、「村」や「村の崩壊」を「前向きな」方向へという意図が強くみてとれる。それはまありにも意図的で、それほど明確に「村」を評されると、村びとにとっては自らがずいぶんと過去志向だと言われているように思えてしまう。「過去に村で見られた協同関係がなくなったからといって「村の崩壊」につなげて歴史的評価をすることにはためらいがある」とか、「村の変容と存続の持つ意味を私たちはどう見ることが前向きであるかを考えてきた」といったぐあいに、かなり「前向き」を意識しすぎている。これほど意識しすぎていると前段で示した再生という視点も、どこか二極に対しての対比で述べられているようで、しっくりこないし、うさんくさく捉えられてしまいがちである。

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