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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

桜の木のある場所②

2011-05-22 23:31:07 | ひとから学ぶ

 桜の木のある場所①より

 果たして身近な桜はどうなのか、少しまとめてみた。表は平成19年に信越放送株式会社が発行した『南信州の桜』に掲載された桜を一覧化したものである(桜ではないものは省いた)。90ヶ所の桜が紹介されているが、そのうち4割程はシダレザクラである。代表的な桜とは必ずしも古木というわけではない。治水対策の工事で盤上げされた後に植えられた飯田市の天竜峡桜街道はごく新しいものである。戦後に植えられて今では名所となっているものも多い。そんななか、大鹿村大西山公園のある場所は昭和36年に起きた伊那谷いや長野県最大の豪雨災害と言われる梅雨前線豪雨の際に、背後の大西山が大崩落を起こし、対岸にあった集落が呑み込まれ、42名の死者を出した災害の崩落土の上である。鎮魂の意味もあって植えられたとも言われる。かつての悲惨な記憶を忘れてはならないためにも、大西山はこれからもムラ人をここに集めるのである。

 また桜といえば長野県では高遠の桜が代表的である。高遠城址に植えられている桜は1500本と言われる。高遠の桜はタカトオコヒガンザクラと言われるが、とくに花の色の赤味が強い。ここのものをよそへ持っていって植えても同じ色は出ないと言われるほど、高遠城址だからこその彩りなのである。荒地となっていた城址に明治9年、旧藩士たちが桜を植樹したのが始まりと言う。そもそも戦国時代には織田信長の武田攻めにおいて、武田方であった仁科盛信が織田信忠5万の大軍をここで籠城して抵抗した。しかしここで討ち死にし、高遠城は落城したという。城址に咲く桜が多いことは誰もがご存知の通り。そしてそこはかつて戦いの場ともなった。まさに死にまつわる場所と言える。史実はともかくとして、高遠の桜をよそに持ち出しても赤さが違うという背景にも、「桜の花の色が赤いのはこの時に散った彼らの血の色が映る」ためだという言い伝えがある。

 同じ伊那市春日城址公園の桜は、昭和25年より行われた公園整備で植えられてきたもの。半世紀以上もすると、すでに古木の部類に入るほど、立派な木々は見事な花を彩る。城址、学校といった場所はかつて桜を植えた代表格なのだろう。それらはすでに長い間わたしたの記憶にとどまるものとなっている。

 いっぽう天竜峡桜街道のように近年新たな桜の名所と言われるようになった場所に、河川沿いがある。三峰川堤防にある桜には古木があるが、そもそも堤防には河川管理上木々は植えない。したがって河川沿いといっても堤防を避けた場所に植えられる。飯田市鼎の松川プールの桜は飯田松川の河川に沿いに植えられているし、片桐松川(松川町)の堤防沿いにもたくさんの桜が植えられ、さらに増やされている。これらは近年河川沿いに公園を設けようした意図に沿って植えられてきたものも多い。飯島町与田切公園も植えられている場所は道路沿いであるが、河川沿いに公園を設けたあとに植えられたものだ。かつて城址→学校と植えられた場所は変わってきたが、今は河川沿い、あるいは公園整備の必需品的な桜であったともいえる。

続く


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