Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域社会が壊れていく

2012-04-15 21:33:43 | 農村環境

 「自治体と自治会と」で触れた事例に、耕作放棄地への企業進出をあげた。近ごろは野菜工場なるものもあって、より品質の高い農産物への注目も高い。いっぽうで食料自給率の問題や耕作放棄地の問題など、農業めぐる近々の対応が急がれることがらが多い。国の施策を見てもそうした対応に即した補助事業制度が掲げられ、あたかもそうした課題一点を解消するべく餌が撒かれているという印象が強い。財政難の地方にあっては、いかなる補助制度をも利用しなくては、という意識が高まり、たとえば地方の議会議事録を紐解いても、補助金利用に関する自治体理事者への質問が多い。「補助金に使われるな」という言葉もあるが、使えるものは使え、が自治体の至上命令であることは今もそう変わらない。

 農業は小規模経営では成り立たないということで、規模拡大が図られてきた。しかし日本の国土、とりわけ長野県のような山あり谷ありの地形では大規模化が難しいことは知られたことだ。小農によって営まれてきた水源地長野において、大規模化がどう影響するかはこれまでもいろいろな場面で触れてきた。集落営農は長野県内においては比較的適した方法だとは思う。何より他人が入らず、集落で支えていくという考えは、土地を農産物を作るための工場とは考えないからだ。ところがそんな営農方式でも、エリアが大きいと弊害はある。営農する側はある特定の作業を仕事として割り切り、やり易いように作業を終える。土地に対する愛着が低下するのも事実だし、効率化を図りたいと思うのはごく自然の成り行きだ。自らが自らの土地を耕すのとは意識は違う。また土地から手を離した地権者も、その土地に対する耕作を持続していたちきとはまったく違ってくる。加えて、時が経るごとにかつての意識すら失せていく。すべてが当たり前の流れではあるが、たとえ地域で農業を支えたとしてもこんなものなのだ。

 さて、そこへ企業が参入した場合如何なものになるか。企業といっても関わり方によってさまざまなのだろうから、一概には言えないが、「自他地体と自治会と⑥」でふれた事例の企業は、賃金の安い雇用者を利用して農産物を生産する、まさに土地に工場を開いていくスタイルだという。企業である以上採算がとれることが前提である。小農による赤字でも自給が可能だから、という意識とはまったく違う。かつてコメに対する意識は自家のものという強い意思が農家にはあった。自給意識ともいえるだろう。はたしてその意識がどれほど今の農村に漂っているかと問うと、かなり低下したといっていいだろう。こうした現実も農村が農業を見放してきた現われでもあるが、現実的には食えない以上仕方のない末路ということになるのだろう。ことさら企業が関わることに不安を抱くのは仕方のないことであるが、そもそも野菜工場化しようが、そこが水田である以上水利に関わるし、ここ数回にわたって触れてきたように、地域社会との関わりもある。いくら公道を走っているといっても、地域社会にとっては公道も管理エリアに入る。個人ではない企業がそんな課題をクリアーしても点在して耕作地を工場化するという思いはおそらくないはずだ。ようは地域社会としては不安視される課題であることに違いはないし、空間的調和という面で地域社会を壊し行くのは時間の問題といえる。さらには人々の内面的調和も崩すきっかけになるわけで、地域社会は明らかに壊れていくことは必死なのだ。もちろんそうでなくとも終焉を迎えそうな農村、とりわけ中山間地域である以上、そういう選択もせざるを得ないという考えもあるだろうが、この悩ましい問題はまだまだ増幅していくのだろう。


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