Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

飯沼沢の数珠回しを訪ねる・前編

2018-02-12 23:24:59 | 民俗学

 

 辰野町川島区にある飯沼沢に数珠回しを訪ねて足を運んだ。平成26年度に変容の危機のある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業により刊行された『伊那谷のコト八日行事』のことは一昨日の「コト送りの日に」でも触れた。実はこの報告書が完璧ではないことは、以前にも触れている。悉皆的にコト八日行事をすべて救ったわけではなく、文献調査をした後に、重要と思われる箇所のみ実地調査をしたようだ。「伊那谷の」とは言うものの、結局飯田市上久堅を中心に行われているものを主たる行事として報告したもの。もちろん特徴的である行事であることに違いないが、では「伊那谷」とタイトルをつけたのは何だったのか、そう思う。選択、あるいは指定名称に違和感を覚えるケースは稀にある。選択無形民俗文化財であるが故の違和感なのかもしれない。おそらく飯田市上久堅や千代で行われているコト八日行事は、今後無形民俗文化財への指定に向けた動きになっていくのだろう。今回飯沼沢を訪れてみようと思ったのも、前掲書に上げられていたからだ。そして「飯沼沢」とあったので、先日長野市へ行った帰りに寄り道したわけであるが、実は飯沼沢と下飯沼沢という別の集落ともに同じような数珠回しが、コト八日に行われていたらしいことがわかった。飯沼沢と下飯沼沢は横川谷の続きの集落。家が途切れるので別の集落と言われればそうとも思うが、よそから行った者には同じ集落に見える。飯沼沢の数珠回しについては『辰野町誌』に記述があり、いっぽう下飯沼沢の数珠回しは近年の地方紙の報道に記述がある。しかしながら前掲書の調査報告に取り上げられなかったのは、おそらく行事そのものが衰退していたからだろう。

 ここで下村幸雄氏が平成5年4月の『伊那路』に掲載した「伊那路を撮す」シリーズの「飯沼沢の数珠廻し」を引用してみよう。

 江戸時代から続いていたといわれる辰野町飯沼沢の「数珠廻し」が2月7日と14日の両日(7日は大雨の為8戸で中止、他は14日に実施)小学生4人により各戸訪問が行われた。子供達は区内の家々の玄関で輪になり長さ6メートル、重さ1キロほどの数珠を握って、リーダーの「始め」の号令で「ナンマイタ、ナンマイダ」と念仏を早口で唱え乍ら数珠を送る。つなぎ目の赤い巾が自分の前にくると額につけおじぎをする。又送りはじめ、三回廻し無病息災を祈り、リーダーの「止め」の号令で終わる。家の人達は念仏が終わると「ありがとう」とか「ごくろさま」と云って送り出す。以前は100戸を数えたという飯沼沢も現在は38戸、小学生4人。
 古老の飯沢五郎さん(89才)は昔を偲び乍ら「昔は子供も沢山いた。数珠廻しは毎年2月8日初午の日と決まっていた。学校から帰ると堂の倉から鉦と数珠を出し、鉦は頭とその次の頭が持ち、数珠はその次の子供達が持って堂の前から順に廻り、終わると堂の前で5年以上の子供の頭の毛を数珠でひっぱる事もした。鉦は村境まで叩いて行き帰りは叩かずに帰った。厄病神を追い払うのだ。又各家では庭にモミヌカの上にコショウを乗せいぶし、厄病神が入らないようにしたもんだ」と云う。形は変わっても今もこの行事は飯沼沢の小学生によって引き継がれている。

 記事にはこれがいつのことか記されておらず、写真にも撮影日はない。発行が4月だから同じ年の2月、ようは平成5年のことなのだろうか。

 現在は下村氏が訪れた時のような数珠回しは行われていない。子どもがいなくなったため、コウチ総代が主催者となって女性の方々が実施している。かつては2月8日だったと『辰野町誌』(昭和63年 辰野町誌刊行委員会)にはあるが、現在数珠回しをされている女性の方々にうかがってもはっきりとはしない。そもそも「コト八日」とは何かを知っている方がいないほど、もし2月8日にかつて行われていたとしても、コト八日行事という認識があったのかどうかははっきりしないのだ。下村氏が訪れた当時は、すでに2月8日ではなく、その日に近い休日に行われていたのだろう。だからこそ、7日が大雨だったから、翌週の14日に残りの家を回ったということになる。当時は子どもたちが家々を回って数珠を回したが、現在は地区の集落センターに集まって数珠は回されている。畳の上で回されるのに、みなが立って数珠を回すのは、かつて子どもたちが回していた時代に、玄関を入ったところで回していた姿を踏襲しているとも言える。通常屋内で数珠を回すところでは、座って数珠を回すのがほとんどである。現在は子どもではないため、リーダーというような存在はない。主導するのはコウチ総代の奥様だというが、今年はほかの役員の奥様が担われていた。「堂の倉」というのは、かつてあった十王堂の倉という意味だろうか。現在の集落センターは18年ほど前に建てられたもので、それまで集会所は集落西はずれの沢沿いにあった(現在も建物は残る)。当時はまだ子どもたちが各戸を回っていた時代と思われる。「鉦」とあるが、現在は鉦を叩くようなことはしない。というよりも鉦そのものが数珠回しの場に出されていない。

続く

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