21世紀構想懇談会の西室座長(左)から報告書を受け取る安倍首相(6日午後、首相官邸)
http://www.nikkei.com/content/pic/20150806/96958A9E93819481E2E49AE6968DE2E4E2EAE0E2E3E7E2E2E2E2E2E2-DSXMZO9022694006082015MM8001-PB1-2.jpg
西室氏は、最近、手が震えているのであろうか?。
パーキンソンと言う事なのか?。
表情を見ると「そのように見えてならない」。
最近では、「杖が必要」と言う事ならば、安倍氏は「立たせるべきではない」と言える。
そのような部分が、安倍氏の配慮が不足している、と言える。
立っているのも辛そうで、痛々しい。
歴史は自分で調べないと「理解度が異なってくる」と言える。
従来の日本での教育で足りない部分、特に「近現代史」を補うのに良い教科書となっている。
制作者の人たちには「お疲れ様でした」と述べたい。
個人的にも、シッカリと読んでみよう、と思う。
又、今回の「安倍氏の談話」としては、「中国と韓国が歓迎出来るような話し方をした方が良い」と言える。
基本的に「日本帝国陸軍の他国への侵略行動は事実としての出来事」と言える。
その事についての謝罪を中国と韓国が求めているならば「素直にその通りに謝罪してあげれば良いのでは?」と思う。
但し、中国と韓国政府に対して言える事は、この謝罪に対して「何回も要求してくる事」は「感覚がおかしのでは?」と言う事にも繋がる。
何故なら、過去においても、幾度となく「謝罪を行っている」からだ。
例えば、中国政府と、韓国政府の政治家が汚職をした場合、適切な対応がとられると思うが、「何回も謝罪をさせるのであろうか?」。
処分対応は一回のはずだ。
この事を「日本に対しての謝罪要求」に当てはめた場合、中国政府と韓国政府の「謝罪要求」は「ストーカー的拷問」のような状態を日本に対して要求していると言う事が言える。
普通に考えても国家が要求する内容としては「異常な要求」としか言えない。
又、中国と韓国政府に対して述べたいが、日本に対して、それだけの事を述べるのであれば、自分たちの歴史認識は「完璧なのであろうか?!」と言う事も問われてくる。
中国については「天安門事件」。
韓国については、「ベトナムでの大量虐殺事件」。
犠牲国と犠牲者に対して謝罪しているのであろうか?。
日本に対し歴史認識を問い、謝罪を求めてくるのであれば、「自国の問題に対しても、完全な対応をする事」が要求されてくる、と言う事が言える。
「他国の問題には厳しく」、「自国の問題には甘い」と言う事があってはならない、と言う事だ。
記事参照
「満州事変以降、侵略を拡大」 70年談話で有識者懇報告書
2015/8/6 16:59
安倍晋三首相が戦後70年談話の作成のために設けた私的諮問機関「21世紀構想懇談会」の座長を務める西室泰三日本郵政社長は6日、首相官邸で首相に報告書を手渡した。報告書では「(1931年の)満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」と明記し、先の大戦を侵略戦争だったと位置づけた。
首相は報告書の内容を踏まえ、14日にも発表する70年談話の表現ぶりについて最終調整に入る。
報告書では「1930年代以降の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重い」と指摘。
日本の戦後の歩みについては「戦前の失敗から学び」、「もう二度と戦争の悲惨な事態を繰り返してはならないとの決意の下」で、平和国家としての歩みを進めたと評価した。
今後の取り組みでは、歴史への理解を深めるための近現代史教育の強化を促した。
これまでのような中国や韓国との2国間の歴史研究だけでなく、多くの国が参加する歴史の共同研究を実施し、グローバルな視点から過去を振り返るべきだとも提言した。
中国との関係では「歴史問題はなお2国間の大きな懸案として存在する」と指摘。
その上で「過去への反省を踏まえ、これまで掛け違いになっていたボタンをかけ直し、和解を進める作業が必要だ」とした。
韓国とは「韓国の理性と心情の両方に日本が働きかける」ことを通じ、真の和解に向けて日韓が一緒になって韓国の国民感情に向き合っていくことが必要だとした。
懇談会の委員は16人で首相が示した論点にそって2月から計7回の会合を開き、議論の結果を報告書にまとめた。
関連キーワード
安倍晋三、西室泰三
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http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS06H4D_W5A800C1000000/
安倍談話、有識者懇の報告書全文・はじめに
2015年8月7日01時25分
はじめに
本懇談会は、平成27年2月25日に開催された第1回会合にて、安倍総理より、懇談会で議論する論点として、以下の5点の提示を受けた。
1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。
2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
3 日本は、戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々などと、どのような和解の道を歩んできたか。
4 20世紀の教訓をふまえて、21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。
5 戦後70周年に当たって我が国が取るべき具体的施策はどのようなものか。
懇談会では、総理から提示があった各論点につき、7回にわたり会合を実施してきた。
今般、これら会合における議論を、総理から提示があった論点に沿って本報告書としてとりまとめた。
本報告書が戦後70年を機に出される談話の参考となることを期待するものである。
http://www.asahi.com/articles/ASH8662ZGH86UTFK00W.html
安倍談話、有識者懇の報告書全文・1
2015年8月7日01時25分
1 20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。
(1)20世紀の世界と日本の歩み
ア 帝国主義から国際協調へ
20世紀を振り返るため、少し19世紀に立ち返りたい。19世紀の世界を特徴づけるのは、西洋における技術革新により、欧米が他の地域に対して圧倒的な優位に立ったことである。世界史上、多くの時代で世界最大の国であり、1830年ころにも世界最大の経済大国だった中国が、英国に、しかもアヘン戦争という極めて非道な戦争に敗北してしまったということは、この技術格差の拡大を示す世界史的な大事件だった。
この技術格差を前提に、西洋諸国を中心とする植民地化は世界を覆った。アジアにおいては、植民地化を免れようと近代化を遂げた日本が日清戦争に勝利して台湾を植民地とし(1895年)、アジアに縁の薄かったドイツも、宣教師が殺されたことを理由に、膠州湾を租借して山東省を勢力圏とし(1898年)、さらに、もともと植民地から独立し、それゆえに植民地に反対することが多かった米国も、米西戦争に勝利してフィリピンを植民地として領有することになった(1898年)。
しかし20世紀初めには、その植民地化にブレーキがかかることになった。
1905年、日露戦争で日本が勝利したことは、ロシアの膨張を阻止したのみならず、多くの非西洋の植民地の人々を勇気づけた。のちに1960年前後に独立を果たしたアジア、アフリカのリーダーの中には、父祖から日露戦争について聞き、感激した人が多かった。
植民地化にさらにブレーキをかけたのは第1次世界大戦末期にウィルソン大統領が平和のための14カ条のうちの一つとして掲げた「民族自決」の理念だった。民族自決は、元来ヨーロッパに向けた概念だったが、アジアもこれに反応し、朝鮮で三・一事件、中国で五・四運動などが起きるきっかけとなった。
しかし列強の多くは植民地を手放す意思はなく、結果として、これ以上の植民地拡大はしないという大まかな合意が成立した。アジア太平洋では、中国の統一と独立を尊重するという趣旨の9カ国条約が成立した。
一方、技術革新は戦争をますます悲惨で巨大なものとした。19世紀末には、仲裁裁判によって紛争を解決しようとする動きが生じていた。そして、第1次大戦が人類史上未曽有の犠牲をもたらしたことから、国際法上戦争を否定しようとする戦争違法化の動きが一段と強まり、国際連盟規約において加盟国に「戦争に訴えない義務」を課し、1928年には、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)において、戦争を国策の手段としては認めないと定めた。これと並行して、1922年のワシントン会議と1930年のロンドン会議においては、海軍軍縮が議論され、一定の成果をあげた。
1920年代、列強は軍事的膨張を控え、経済的な行動に力を入れた。日本でも政党政治が発展し、1924年から32年までは政党内閣が続き、1925年には男子普通選挙法が成立している。外交でも、幣原外交の名で知られる列国との協調が主流となった。
ただ、1920年代の安定は、不安定なものだった。世界では、リーダーたるべき米国は国際連盟に参加しなかった。日本では、政党の優位は制度的な裏付けを持たず、軍部は強い独立性を持っていた。国際協調主義者が一応優位を占めていたが、パリ講和会議において人種差別撤廃決議が否決されたこと、1924年に米国議会で日本人が帰化不能外国人とされ、移民枠ゼロとされたことなどは、彼らの影響力を傷つけていた。
イ 大恐慌から第2次世界大戦へ
1929年にアメリカで勃発した大恐慌は世界と日本を大きく変えた。アメリカからの資金の流入に依存していたドイツ経済は崩壊し、ナチスや共産党が台頭した。
アメリカが高関税政策をとったことは、日本の対米輸出に大打撃を与えた。英仏もブロック経済に進んでいった。日本の中の対英米協調派の影響力は低下していった。日本の中では力で膨張するしかないと考える勢力が力を増した。特に陸軍中堅層は、中国ナショナリズムの満州権益への挑戦と、ソ連の軍事強国としての復活を懸念していた。彼らが力によって満州権益を確保するべく、満州事変を起こしたとき、政党政治や国際協調主義者の中に、これを抑える力は残っていなかった。
そのころ、既にイタリアではムソリーニの独裁が始まっており、ソ連ではスターリンの独裁も確立されていた。ドイツではナチスが議席を伸ばした。もはやリベラル・デモクラシーの時代ではないという観念が広まった。
国内では全体主義的な強力な政治体制を構築し、世界では、英米のような「持てる国」に対して植民地再分配を要求するという路線が、次第に受け入れられるようになった。
こうして日本は、満州事変以後、大陸への侵略(注1)を拡大し、第1次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷(しょうい)弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨(せいさん)な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。
1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。
なお、日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意思決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。アジア解放のために戦った人はもちろんいたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。
ウ 第2次世界大戦後
第2次世界大戦は、全世界で何千万人にも及ぶ未曽有の犠牲者を出し、国際社会に深い傷を残した。日本人の間でも約310万人の尊い命が奪われた。20世紀後半、国際社会は、もう二度と巨大な戦争による悲惨な事態を繰り返してはならないとの強い決意の下、新たなシステムの構築を進めた。
国際社会にとり最優先であったのは、戦争の予防と平和の確立であった。第2次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟の失敗を教訓として、1945年、国際連合が設立された。国際連合は、その憲章第1章第2条で、国際関係における武力行使を原則として禁止し、この規範は、大戦後の世界平和における基軸となった。この点、日本は、戦後、不戦に関する国連憲章の規範をもっとも忠実に守った国であったと言える。憲法9条第1項を有する戦後日本の歴史において、軍事的自己利益追求行動は皆無であった。戦後の日本においては、世界中のいかなる場であれ、力による領土等の変更に常に反対する気持ちが国民の間で広く深く共有されており、政府の政策にも貫かれている。
戦後国際秩序にとってこれと並んで重要だったのが、自由貿易システムの発展だった。第2次世界大戦の要因となった、大恐慌からブロック経済、そして国際貿易体制崩壊という流れを防ぐべく、戦後間もなくブレトン・ウッズ体制が構築され、GATT体制の下、国際自由貿易体制が確立された。この自由貿易体制の下、戦後世界経済は大きく発展し、日本もこの体制の主要なメンバーとして、経済成長を達成した。第2次世界大戦前のような武力による生存圏拡大の考え方を信じる人はほぼ皆無となり、自由貿易により繁栄を追求する人が圧倒的多数となった。そして日本は、この中で、アジア諸国を中心に、平和と経済発展による国家の繁栄モデルを提供してきた。
更に忘れてはならないのは、第1次世界大戦後に生まれた民族自決の動きが、第2次大戦後、多くのアジア・アフリカ諸国において独立、脱植民地化という形で結実したことである。日本も参加した1955年のアジア・アフリカ会議では、植民地主義が糾弾され、基本的人権の尊重を求めるコミュニケが採択された。この流れの中、1950年代から60年代にかけて、アジア・アフリカの多くの国が独立を達成し、第2次世界大戦前に、大国が力によって他国を支配していた時代は終わり、全ての国が平等の権利を持つ世界となった。
エ 20世紀における国際法の発展
以上振り返ってきた激動の20世紀史を象徴するように、国際法の性格も、20世紀前半と後半で大きく変化した。20世紀前半の国際法は、国家間の紛争の概念を明確に限定したうえで、紛争要因を縮減することを目的とした消極的な性格のものであった。そして、その中心的課題は、戦争をどう制御するかということに絞られ、経済社会問題は基本的には各国の国内管轄事項として、国際法の規律の対象外とされていた。戦争の制御については、1919年の国際連盟規約、1928年の不戦条約を通じて、国際法は、戦争放棄の大きな流れを作ることには成功した。しかし、連盟規約は戦争に訴えるための手続きを厳格化したが、戦争に訴えること自体を禁止したものではなく、また不戦条約も禁止の例外となる自衛権の範囲や「戦争に至らない武力の行使」をめぐり、解釈の余地を残した。なお、国際法上の「侵略」の定義については、国連総会の侵略の定義に関する決議(1974年)等もあるが、国際社会が完全な一致点に到達したとは言えないとする指摘もある。
20世紀後半の国際法は、各国の共通利益の実現を促進する積極的な役割を担うものに変貌(へんぼう)を遂げた。第2次世界大戦の教訓を基に、国際連合の設立を通し、武力行使を国際社会全体で防ぐ体制が整えられた。また、国際貿易体制の崩壊が第2次世界大戦勃発の要因の一つになったことを踏まえ、国際法によって経済面、社会面における各国の協力を推進し、規範を形成する動きが急速に進んだ。人権や環境についての規範の発展もあった。先の大戦に至る過程において、国際連盟を脱退し、不戦条約の抜け穴を利用しようとして武力行使に踏み切った日本が、大戦後においては、憲法9条1項と共に不戦に関する国連憲章規範をもっとも忠実に守り、また国連を中心とする多様な活動に積極的に貢献する国に生まれ変わったことは前述したとおりである。
(2)20世紀からくむべき教訓
20世紀から我々がくむべき教訓とは何だろうか。第一に、国際紛争は力によらず、平和的方法によって解決するという原則の確立である。力による現状変更が許されてはならない。第二に、民主化の推進である。全体主義の国々において、軍部や特定の勢力が国民の人権を蹂躙(じゅうりん)して暴走した結果戦争に突入した経緯を忘れてはならない。第三に、自由貿易体制である。大恐慌からブロック経済が構築され、国際貿易体制が崩壊したことが第2次世界大戦の要因となったことを踏まえ、20世紀後半の世界経済は、自由貿易体制の下で発展してきた。第四に、民族自決である。大国が力によって他国を支配していた20世紀前半の植民地支配の歴史は終わり、全ての国が平等の権利と誇りをもって国際秩序に参加する世界に生まれ変わった。第五に、これらの誕生間もない国々に対して支援を行い、経済発展を進めることである。貧困は紛争の原因となりやすいからである。このような平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、いずれも20世紀前半の悲劇に学んだものであった。
この世界の歩みは、第2次世界大戦によって焦土と化した日本が、20世紀後半に国際社会の主要メンバーとして発展してきた歩みに重なる。日本は、20世紀の前半はまだ貧しい農業中心の国であり、産業と貿易によって富を築くという考えよりも、領土的膨張によって発展すべきだとする考えが、1930年代には支配的となってしまった。戦前の日本においては、政治システムにも問題があった。明治以来、アジアで初の民主主義国家として発展してきた日本であったが、明治憲法は多元的で統合困難な制度であって、総理大臣の指揮権は軍に及ばず、関東軍が暴発した時、政府はこれをコントロールする手段を持っていなかった。独善的な軍は、戦局が厳しくなるにつれ、国民に対する言論統制を強め、民主主義は機能不全に陥った。そして軍事力によって生存圏を確保しようとする日本に対し、国際的な制裁のシステムは弱く、国際社会は日本を止められなかった。
しかし、20世紀後半、日本は、先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった。平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援などは、戦後の日本を特徴づけるものであり、それは戦後世界が戦前の悲劇から学んだものをもっともよく体現していると言ってよいのではないだろうか。
(注1) 複数の委員より、「侵略」と言う言葉を使用することに異議がある旨表明があった。理由は、1)国際法上「侵略」の定義が定まっていないこと、2)歴史的に考察しても、満州事変以後を「侵略」と断定する事に異論があること、3)他国が同様の行為を実施していた中、日本の行為だけを「侵略」と断定することに抵抗があるからである。
http://www.asahi.com/articles/ASH86636XH86UTFK00X.html
安倍談話、有識者懇の報告全文・2
2015年8月7日01時25分
2 日本は、戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
(1) 戦後70年の日本の歩み
ア 敗戦から高度経済成長へ
戦後の日本は、戦前の失敗から学び、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援といった近代の普遍的な諸原則の上に立ち、戦後構築された国際的な政治経済システムの中で、経済復興と繁栄の道を歩んできた。
先の大戦で焦土と化し、敗戦と共に米国を中心とする連合国の占領下におかれた日本にとり、国としての独立と国際社会へ復帰、そして経済の再建が急務であった。日本は、1951年にサンフランシスコ平和条約に署名し、同条約により、翌1952年に独立を達成した。サンフランシスコ平和条約に調印しなかった国々とは個別に関係を正常化した。そして日本は、1951年の世銀・IMFへの加盟を皮切りに、1955年に関税及び貿易に関する一般協定(GATT)、1956年に国際連合、1964年に経済協力開発機構(OECD)への加盟を果たし、国際社会への復帰を果たして行った。また、国交を正常化した国のうち、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムとは、賠償協定を締結し、賠償事業を実施した。
日本が今日の政府開発援助(ODA)の形で各国に経済協力を始めたのは1950年代前半であった。1954年のコロンボ・プランへの加盟と共に技術協力を始めた日本は、1958年には最初の円借款をインドに対して供与した。日本の政府開発援助(ODA)は、インフラ整備や技術支援等を通じ、アジア諸国の経済発展に大きく貢献したが、初期の経済協力は日本産品の調達を義務付ける「タイド(tied)」型の援助であり、経済協力を通じて日本経済の復興を図る意図があったことは否めない。
1950年代半ば以降、日本経済は、高度経済成長を開始した。戦後初期、日本は米国の支援を受けて、経済再建への基礎を築いた。1955年から1973年まで経済成長率は年平均10%を超え、早くも1968年には西ドイツを抜いて自由世界第2位の経済大国になった。この背景には、戦後米国を中心として作られた自由貿易に立脚した国際経済体制が日本産品の輸出を受け入れてくれたことがある。特に米国は、日本のGATT加盟を後押しし、1950年代に依然として日本工業の主力産品であった繊維産業の最大の消費国となって以来一貫して自国市場を日本製品に対して開放してきた。
ただし、急速に経済成長を遂げた日本であったが、国際社会における自己認識は、この時期はまだ「小国」のものであり、主要先進工業国の一として、自らの市場を大きく開いて国際的な自由貿易の増進に貢献しようとする意識は低かった。また、高度経済成長の過程では「四大公害」をはじめとする環境問題や深刻な都市問題が発生した。
イ 経済大国としての日本
経済大国になった日本に対し、日本がその国力に見合った責任感や国際政治経済システムの維持に貢献しようとする意思を有しているかどうかという点について、世界は徐々に厳しい目を向けるようになった。いつまでも後発の工業国家として、国内市場を保護しつつ輸出を懸命に増やそうとする日本の姿勢は批判を受け、米国との間では経済摩擦が起こるようになった。また、東南アジアの国民感情に対する配慮が不十分だったこともあり、1974年に東南アジアを歴訪した田中角栄首相は、ジャカルタとバンコクで激しい反日デモにあった。
それ以降1970年代には、日本企業は、アジア諸国への直接投資によって現地生産を行い、本格的にこれらの国々への技術移転を開始した。日本企業は、自動車や電気製品などの製造拠点をアジア各国に築くとともに、これらの国々において天然ガスや石油鉱物資源の開発を開始し、やがてその資源は日本へ輸出されることとなった。アジア諸国における日本企業の進出は、日本からの技術移転や資源開発支援が増えるほど、これらの国々と日本との貿易も増えるという好循環につながり、日本経済とアジア経済の相互依存関係を構築してきた。また、現地に溶け込んで、共に働くという日本企業の姿勢は、アジアの国々を中心に共感を呼んだ。このような日本企業の努力が、政府開発援助と並んで、アジアにおける日本のイメージを好転させる上で、大きな実を結んだ。こうした経済面における交流に加え、1972年に国際交流基金が創設される等、1970年代、日本とアジアの間では文化面の交流も活発になった。
1975年に先進国首脳会議(G6、後のG7)が創設されると、日本はその一員となり外交の視野を広げることとなった。1974年の東南アジアにおける反日的な動きを受けて、1977年に福田赳夫首相が発表した「福田ドクトリン」は、軍事大国にならない決意、東南アジア諸国との間で政治・経済のみならず社会・文化を含めた「心と心の触れ合う相互信頼関係」を築くこと、東南アジア全域の平和と繁栄に寄与することをうたい、日本の対アジア協力の方向性を示すことにより、東南アジアの国々に大きな安心感を与えた。
しかし、安全保障面においては、依然として、日本国内では、国際秩序の安定に積極的に貢献しようとする意識は低かった。また、経済面においても日本は、多国間貿易交渉を着実に受け入れ、激しい貿易摩擦にもかかわらずプラザ合意等を通じて米国を中心とする国際通貨システムを支えることに貢献し、工業製品に対する関税障壁を撤廃したが、従前の農業政策との関連で世界における自由貿易促進に対し、抑制的な面があった。当時の日本は、依然として、安全保障面、自由貿易面で、国際秩序の形成、維持にリーダーシップを発揮し、あるいは、大きな役割を果たすことができなかった。
日本が、国際貢献の手段として推進したのが経済協力であり、この頃からアンタイド化が進んだ日本の政府開発援助(ODA)は、1989年には世界第一位となった。確かに、敗戦国として焦土から出発した日本が、戦後の安全保障や経済秩序構築、即ち、システム構築の面での貢献が少なかったことは事実であるが、世界一位となった日本からの経済協力が途上国の経済発展と社会的安定に貢献し、このことが国際秩序の安定につながったことを考えれば、日本による国際貢献は、決して華々しく目立ちはしないが重要なものであった。また、日本の経済協力は、特に1980年代以降、経済発展から得た知識と技術のみでなく、オイルショックにともなう省エネの必要性や公害等の課題を克服する過程で得た経験に基づき、途上国の課題に適合する形で行われてきた。この相手のニーズに沿った形の経済協力が途上国の発展に効率的に貢献してきたことも評価に値する。
ODAの総額は、延べで有償約16.6兆円、無償約16.3兆円、技術協力約4.7兆円であり、約37.6兆円に上る。戦後、海外からの支援で奇跡の経済復興を果たした日本が、今度は支援する側として途上国の経済開発に貢献してきた日本の政府開発援助(ODA)の歴史は、国際社会における日本に対する信頼を高めたと言える。
ウ 経済低迷と国際的役割の模索
1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した。東欧諸国では民主革命が相次ぎ、1991年末にはソ連が崩壊するに至った。この頃、日本は、多額の政府開発援助(ODA)を初めて東欧諸国に投入して、東欧諸国の民主化改革、市場経済化を支援した。それは、既に良好であった東欧諸国との関係を、冷戦終了後、一層、強固なものとすることに大きく貢献した。日本の民主化支援は、90年代のASEAN諸国が次々と民主化した際にも行われ、現在も、選挙制度構築支援、法制度改革等の形で引きつがれている
1990年代の日本は、バブル崩壊を経験し、「経済大国」という自信を失い、国際社会における自らのアイデンティティーを問い直す時期を迎えていた。経済は停滞し、1997年にピークを迎えた政府開発援助(ODA)はその後減少を続けた。当初予算ベースでは、現在は97年に比べて半分近くまで落ち込み、かつて世界1位であった順位も5位にまで後退している。
他方で、国際経済面において、日本は、1989年に設立されたアジア太平洋経済協力(APEC)を支援しつつ1980年代からアジア太平洋地域における自由貿易の促進に貢献するようになった。冷戦終了後のアジア太平洋経済協力(APEC)には、中国、香港、台湾が参加し、1998年にはロシア、ベトナム、ペルーが参加し、名実ともにアジア太平洋最大の経済会議となった。また、日本は、1990年代後半のアジア通貨危機において、影響を受けた国々へ大きな支援を行った。この危機を契機にアジアにおいては、アジア通貨基金やチェンマイ・イニシアチブが創設され、域内国間の自由貿易協定が多く誕生する等、経済面における地域主義の流れが加速した。
21世紀に入ると、統合を進めるASEANを中心に東アジア首脳会議(EAS)構想が登場し、2005年にそれが現実のものとなったとき、米国は消極的であったが、日本は、印豪の参加はもとより、将来の米露参加へも開かれたものとすることに大きく貢献した。
成長を続けるアジア太平洋地域を自由貿易圏に転化していこうとする日本政府の政策は、1980年の大平正芳総理が提唱した環太平洋連帯構想にさかのぼることができるものであり、現在行われているTPP交渉等の経済連携協定を始めとして、複合的に重なり合うアジア太平洋域内の幾多の経済連携協定締結への流れにそのまま連なっている。
エ 安全保障分野における日本の歩み
第2次大戦後、日本は、日米安全保障条約が可能にした軽武装、平和路線の道を一貫して歩み、経済発展に邁進(まいしん)してきた。日本は、過重な防衛費を負担することなく安全保障を確保し、経済復興に専念するために、日米安保条約の締結と米軍の駐留継続を選択した。日本が安全保障面において国際秩序の安定に貢献しようとする意識は低く、米国の保護の下、経済発展を遂げるという姿が戦後数十年続いた。
安全保障の文脈で、日本が「国際貢献」という言葉を広く使い始めたのは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に対するモスクワ・オリンピック不参加からであった。大平総理は1980年1月に「日本は世界平和のために犠牲にしなければならないこともある」と国民に宣言し、これに続き、1983年の米国のウィリアムズバーグに参加した中曽根康弘首相は、日本が国際社会の安全保障問題に関与していくことを明確にし、先進民主主義工業国家としての責任と自覚を公言した。しかし、その後の日本の実際の行動は必ずしもその言葉について行かなかった。1980年代においても、日本は、安全保障問題に関与する意思はあったが、実際に行動を起こさなければいけないという意識はなかった。
この日本の安全保障問題に関する消極的姿勢は、1990年代に入ると転換を見せる。冷戦が終焉し、グローバル化の進行とともに非国家主体が大きな役割を果たすようになった。その一方で、宗教対立、民族対立、テロリズムと人々への脅威が多様化し、これまでの安全保障の概念では対応できないケースが出てくる中、日本は90年代以降、第一次湾岸戦争後の掃海艇派遣(1991年)、国連平和維持活動(PKO)への参加、特に、カンボジア和平と国づくりへの支援(1992年~1993年)、更に、その後の日米防衛ガイドライン改定(1997年)、9.11同時多発テロを契機として始まった米国のテロとの戦いにおけるインド洋給油活動(2001年~2010年)、アフガニスタン復興支援国際会議を中心とする同国への支援(2002年~)、イラクでの人道復興支援(2003年~2009年)、ソマリア沖・アデン湾における海賊対策(2009年~)といった積極的平和主義の歩みを進め、ようやく安全保障分野における積極的な国際貢献を開始した。この積極的平和主義の流れは、今日も続いているが、90年代前半からこれまでの日本行動を振り返ると、実際のニーズからは常に半歩遅れの行動であったことは否定できない。例えば、湾岸戦争での輸送や医療面での協力、インド洋でのパトロール活動への参加、イラクでの住民の安全確保のための活動などは行い得ず、国際社会の要望に完全に応える形で貢献を成し遂げてきているとは言えない。
(2) 戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価
戦後史を振り返れば、日本の国際的行動のなかには軍事的自己利益追求行動は皆無であり、戦後の日本の歩みは、1930年代から40年代前半の行動に対する全面的な反省の上に成り立っている。
同時に、日本は、20世紀後半に新しく世界のリーダーとなった米国が主導して立ち上がった、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援を前提とした新しい自由主義的な国際システムに忠実に生きてきた国の一つである。また、戦後構築された政治経済システムは、米国の構想力に負うところが大きかったが、それは人類社会全体が政治、経済、社会的に成熟する方向性と合致していた。日本は、戦後の自由主義的国際システムに正義と利益を見出し、それを責任ある諸国と共に支えることが国益であると信じることができた。
敗戦の焦土から立ち上がる間、日本は、暫時、自らの復興に専念していた。しかし、1980年代に入ると、大平正芳首相の環太平洋連帯構想や中曽根首相の「西側の一員」発言が示すように、日本は、国際秩序の構築と維持に貢献する、責任ある大国になろうとする意思と覚悟を示しはじめる。この日本の歩みは、日本国民の対外意識の成熟と歩みを同じくしている。
戦後70年を経て、日本は、欧米諸国からの支援を受けつつ、奇跡的な経済成長を遂げた後、国際秩序の安定と形成に貢献する国際政治経済システムの主要なメンバーに生まれ変わった。日本は、徐々に、戦後国際秩序の単なる受益者から、秩序維持のコストを分担する責任ある国になってきている。
日本の国際貢献は、政府開発援助から始まり、自由貿易の促進、地域統合の促進、最後に安全保障面での貢献へと進んでいった。2000年代に入った日本は、安全保障面でも積極的平和主義に転じ、国連平和維持活動(PKO)への参加や周辺事態への関与を通じ、国際社会への貢献を着実に高めようとしている。戦後70年において、日本の安全保障にとって米国の存在は圧倒的であり、日本が世界で最も兵力規模の大きい国々が集中するこの東アジア地域において一度も外国から攻撃を受けることなく、平和を享受できたのは、日米安保体制が作り出した抑止力によるところが大きい。日本は日米安保体制の抑止力と信頼性の向上のために、自衛隊の能力にふさわしい形で、米国との防衛協力を進めてきた。しかし、本来は同盟国である米国との役割分担に従って決めるべき防衛力の水準を「GNPの1%以内」と日本が定めてきたことは、日米安保体制に一定の制約を課すことにもなった。こうして日本の防衛費は対GDP比では世界100位以下の低水準で済んできたが、中国の軍事費が膨張する中で日本の防衛費を経済指標(GNP)にリンクし続けることの妥当性についての検討も、必要になろう。
なお、この戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は、国際社会及び日本国民双方から高い評価を受けているが、その歩みは、戦後突然生まれたものではない。日本の戦後の歩みは、明治維新以後の自由民権運動や立憲君主制の確立などの自由主義的民主制や、国際社会の規範の受容の上に成り立っているものである。もちろん、戦後の日本の自由主義的民主制の確立や、日本の国際社会復帰に米国が果たした役割は大きかったが、明治以来の民主主義の発展や、民主主義国家として、国際平和、民主主義、自由貿易を基調とする国際秩序形成に積極的に関与してきたことが、戦後日本と通底していることを忘れるべきではない。
http://www.asahi.com/articles/ASH86641MH86UTFK00Y.html
(2)に続く。