カキぴー

春が来た

「鳥島」 漂流者の命を繋いだアホウドリ

2012年01月25日 | 食・レシピ
江戸時代(1603年~1868年)のいわゆる無人島時代には、多くの漂流船が「鳥島」に流れ着いている。 当時徳川幕府の鎖国政策で大型船の建造や外洋航海が禁じられていたため、諸外国と比べ日本の航海技術は著しく遅れていた。 海岸の地形や山並みを目視しながらの沿岸航海では、ひとたび天候が崩れ視界が悪くなれば航行不能となり、りシケで沈没すれば溺死、大洋に流されれば漂流の末餓死・病死のいずれかで死亡した。 たまたま外国船に救助され者は異国の地で暮らすか、運がよければ帰国できる者もいた。 しかし幕府は異国からの帰還者がキリスト教信者になっていることを警戒し、徹底した厳しい取調べを受けるため、異国に留まり生涯を終えた者も多かった。

鳥島は太平洋・伊豆諸島の南端に位置し江戸から南に約600km、八丈島の約300km南で、島の直径が約5km・周囲約7kmの火山島で、最高峰は硫黄山で394m。 島は記録に残るだけでも過去4回の噴火が確認されており、植物類は貧弱だがアホウドリの繁殖地として世界最大。 しかし噴火の影響と、羽毛採取・食肉の目的で明治20年(1887年)から昭和8年までに推定1000万羽が乱獲されたことから、捕獲が禁止された当時は50羽ほどまで激減し絶滅寸前だった。 鳥島を有名にしたのは、幕末の日本で日米和親条約締結に尽力した「ジョン万次郎(本名中浜万次郎)」で、彼は天保12年(1841年)漁師仲間4人と共に遭難、5日間の漂流を経て奇跡的に鳥島に漂着している。

彼らは143日間島で生活し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されているが、その命を繋いだのがアホウドリ。 実はそれから遡ること56年前の天明5年(1785年)、万次郎と同郷で土佐の運搬船で働く「長平」(野村長平)が他の乗組員4人と共に鳥島に漂着し、彼だけが実に12年間生き延び故郷に生還している。 島での生活体験は幕府役人の聞き取りによって詳しく記録されており、その情報は地元にも広く伝わっているので、おそらく万次郎たちはアホウドリが貴重な食料であり,その捕獲・保存・調理法を始め,島で生きていくための知識がかなり役立ったはず。 

作家・吉村昭」氏の著書「漂流」にその辺のところが詳しく記述されている。 長平たち4人の乗った三百石船は、10日以上も強風と激浪の荒れ狂う中で舵を壊され、帆柱を切り倒しながら沈没を免れ、10日以上も漂流して鳥島に流れ着く。 命は助かったものの食料や生活道具を船とともに失い、磯で拾った貝や海草を食べ空腹をしのぎながら人家を探しすが、やがて無人島と知って絶望する。 彼らはようやく崖の上によじ登ると思いがけぬ光景をみて立ちすくむ、今まで眼にしたことのない異様な鳥の大群がひしめき合うように地表を覆っている。 近ずいても逃げず大きな石で頭た叩いて殺しても、近くの鳥はまったく動揺しない。

生肉を海水でもみ洗いして食べると肉がしまり歯ごたえもあってたいへん美味く、内臓も上質な貝を口にするような新鮮さがあった。 肉の量も多く、4人で1日1羽を食べれば十分だったが問題は飲料水の確保、この島は井戸を掘っても硫黄を含んだ温水しか出てこない。 これも無数に有るアホウドリの卵に雨水をためることで解決する。 長平の偉いところはアホウドリが渡り鳥で、春から秋までは島に居なくなることに早く気ずいたことで、この期間は多くの干し肉を貯蔵することで乗り切った。 しかし3年間で長平を除く仲間の全てが病死、彼はその後流れ着いた別の漂流者と共に流木で船を作り、ついに八丈島を経由して土佐に帰り着く。 24歳で行方不明になった長平は37歳になっており、その後妻帯し子にも恵まれた。 文政4年(1822年)60歳で死去、墓碑には「無人島野村長平」と刻まれている。 


米は余らない?

2010年07月19日 | 食・レシピ

先週末、農作業の中で最も過酷だと言われる 「田の草取り」を手伝ってきた。 説明するまでもなく、今の米作で草取りの作業は必要なくなっている。 種籾の段階から除草剤を使用することで、雑草との戦いに人類は勝利したと言っていい。 さらに田植え機やコンバインの導入で、米作りは飛躍的に省力化が進み、皮肉にも米余りに拍車をかける結果となった。

除草剤や化学肥料を一切使わずに、米作りをしているのは、僕の住む郡山から南西に車で40分ほどの集落で農業を営む「K」さん。 夫を亡くした後もその意思を継ぎ、1人で自然米を作ってきた。 収穫した米はすべて直売、顧客はがん患者やアレルギー体質の人達で、僕も癌を患って以来の付き合い。

Kさんが弱音を吐いたのは3年前、60歳半ばになり体力的にも辛くなってきたので、少しだけ除草剤を使いたいと言い出したのだ。 たった1回の使用でも劇的な効果があり、草取りの苦労は半減する、 しかし元の田圃に戻すには数年を要する。 僕は断固反対し、1枚の田圃(3反歩・900坪)だけは毎年草取りを手伝う約束で、いままで通り続けてもらうことにした。

草取りの当日、田圃を見るまで不安だった。 昨年は6月半ばに終わってた作業が今年は遅れていて、連絡してもなかなか日程が決まらなかったからだ。 「もしかしたら除草剤を使ったのではないか?」、いやな予感がしたのだ。 だが草ぼうぼうで、稲が見えないほどの田圃を見てホッとした。 ご子息の結婚式や、母親の介護などで作業が遅れていたのだった。

午前3時間、午後4時間、Kさんと2台の「エンジン付き田車」を押して、汗と泥まみれになっての作業は終わった。 2リッターのスポーツ飲料が空になり、細身の長靴が脱げなくて手こずった。 これで秋には8俵ぐらいの収穫ができるだろうし、息子の家族にも安全な米が食べさせられる。 

やっと稲が顔を出した田圃を見てKさんがつぶやいた。 「こうして作れば、米は余らないんだよね。」 

  

   

 


高貴な酢、バルサミコ酢

2010年05月23日 | 食・レシピ

女優の 川島なお美は大変なワイン通で、ソムリエの資格も有するほど。 そんな彼女がこんな文章を書いている。 「シャトー・オーゾンヌの1928年・マグナムを、ワインラヴァーのメンバーとご一緒に開ける機会に恵まれた時のこと。 残念ながらボトルの肩より、うんと目減りしている状態から、「酸化」は99パーセント予想できた。

でもその緋色がまだ輝きを保ち健全そうなので、わずか1パーセントの望みに皆ですがりついた。 恐る恐る香りを確かめてみると・・・・飲んでみるまでもない、やっぱり完全なる酸化状態。 とはいえ素晴らしい熟成を経た極上の バルサミコ酢のようでもあった。 私は皆にヒンシュクをかうだろうことも忘れて、『これサラダのドレッシングにしましょうよ』と叫んでいた。

真っ先に賛成してくれたお店のソムリエ氏が、そのマグナムボトルを厨房へ持っていき、数十分後私たちの目の前に運ばれてきたものは、ガーネット色のドレッシングをまとったグリーンサラダ。 ほのかに甘く、酢もエレガントでコクがある。 それは世界一贅沢なドレッシングだった。 萎れてた72歳のオーゾンヌは、ヴァージンオイルに助けられ、鮮やかな大輪の薔薇となって甦ったのだ」。

なかなか優れた文章だと感心が、ここに登場したバルサミコ酢は古い歴史を持ち、19世紀頃バルサミコ酢の製造は、一つのステイタスとなり、富裕層はこぞって工房を作った。 またバルサミコ酢は、結婚持参金の一部になったといわれる。 時代とともに商業的価値が高まり、偽者も横行するようになり、イタリア政府は地域を指定し、基準を満たすものにのみ特定原産地の名称を付して、販売することを許す制度(DOP)を法制化した。

DOPの指定を受けられるのは、イタリアエミリア・ロマーナ州のデモナと レッジョ・エミリアの2地区で基準を満たして造られ、最低12年の成熟を経たものだけ。 ちなみに日本での価格は100mlの小瓶で2万~3万円、まさに調味料のキャビア。 しかし擬似商品は本物と比べ格段に安いが、通常の食酢と比べれば高価で、粗悪品というわけではない。


遠方より、丸ごとの鱈きたる

2010年03月30日 | 食・レシピ

日曜の午前、仙台に住む飛行機の友人から、70センチぐらいの鱈が丸ごと1匹送られてきた。 包みの表に封筒が留めてあり、中にさばき方と食べ方が図解入りで書いてある。 彼は時折自家用機で八丈島まで飛び、釣り船に半日ぐらい乗って大物を獲ってくるセミプロ(カンパチをご馳走になった話は、小生の著書で書いた)、 マイナス60度まで冷やせる冷凍庫で保存するので、いつも旨い魚が残さず食べられる。 ただし今回の鱈は、土曜日の早朝、福島県相馬沖で釣ったもの。 

僕は魚をさばいたことがないし、魚屋は休みなので、やはり飛行機仲間で、市内に住む友人に助けを求めると、夕方ピカピカに研いた出刃包丁を、手ぬぐいに巻いて駆けつけてくれた。 しかし何を隠そう彼も魚をさばくのは初めて、それでも2人がかりで頭を切り落とし、3枚におろしてから皮をはがし、白身はすべてしゃぶしゃぶでで食べることにして、厚さ2センチぐらいに切り分けた。 今夜食べるのはは、時間とボリュームの関係上、しゃぶ鍋のみ。

残りのアラは後日なべの材料に、胃袋は焼いて食べると、シコシコ感がたまらないと書いてある。 また肝は薄皮を取り、少量の塩をまぶしてアルミホイルで巻き、蒸し器に水と酒、生姜を入れて30分ぐらい蒸して食する予定。 頭は酒蒸しで食べることにした。 それにしてもかなりの量、一部は冷凍にする。 悪戦苦闘のあと片付けも一仕事、このクラスの魚を、素人が切り分けるのは、つくずく大変なことを実感。

さて、外はすっかり暗くなり、小雪のちらつく寒い夜になった。 薪ストーブを300度まで熱くしてから、女房と3人食卓に付いてまずビールで乾杯。 昆布でだしをとった鍋はすでに沸騰しスタンバイ、 それぞれ鱈のしゃぶは初めてだが、説明書の通り、ミディアム・レアをポン酢で食べると、この白身は適当に脂がのってて、口に入れるととろける感じ、いくらでも食べられる。 野菜は、ミツ葉、ねぎ、えのきだけ、ミズナ、 豆腐は、ニガリで身が固くなるから入れるなとの指示で残念だが取りやめ。 結局大皿に山盛りの鱈は、余るだろうとの予想に反して、すべて3つの胃袋に直行した次第。 お供のワインはチリ産で、 ロス・ヴァスコス・ソービニヨン・ブラン の白(これはお値段の割にお買い得で、オススメ)を、2本開けてしまった。

すっかり満足して食べ終えた夕餉の様子は、デジカメに撮り、礼状のメールに添えて昨日送ったら、近々何処かへ行きましょうと、フライトのお誘いが届いた。  


回転寿司と、クロマグロ

2010年03月13日 | 食・レシピ

これまでの、いわゆる 「寿司や」 に行かなくなって久しい。 昨夜も女房と寿司を食べに出かけたが、行った先は 「回転寿司」。 カウンターに対しT字型に繋がったボックス席に座ると、ベルトコンベアーは廻っているが、何も載ってない。 7~8人の職人が居り、注文に応じて握ってくれるので、従来の寿司やと違うのは、お茶のセルフサービスぐらい。 これもお湯が手元まで配管されてるので、不便は感じない。 職人はそれぞれ自分の客を持っており、客が食べる好みや、シャリの量などよく心得ていて、コミュニケーションが取れている。

このチェーン店へ行くようになったのは、同業の回転寿司と比べて、値段は2~3割高いのだが、圧倒的なネタの豊富さと、鮮度の良さ。 かって高級寿司やへ行ってた客を、この店で多く見かけるので、この業種でも、ユニクロ現象が起きてるように感じた。 女房がマグロを注文すると、いつもの職人が首をかしげる、こうした仕種は、ネタが良くないか、仕入れが高いので、別なものを食べるのが得だというサイン。 そして薦めてくれたのがトロサーモンだったが、これは本家に負けないぐら旨かった。 我が家で作るより美味しい、あら汁とアサリ汁にも満足して、勘定は4000円弱。

そういえば大西洋・地中海のクロマグロが、国際取引を禁ずるワシントン条約会議で、投票にかけられる。 禁輸が決まれば、国内の流通量は半減するだろうから、日本政府は漁獲規制の強化で、マグロ資源は守れると主張し、採択に反対してるが情勢は厳しい。 この海域のマグロの8割は日本で食される。 クロマグロの資源管理には、大消費国として日本の責任は大きい。 昨夜食べ損ねたから言うわけではないが、この際しばらく食べるのを我慢してみたらどうだろう。 高騰している値のほうも下がるかもしれない。

日本発の回転寿司は、ヘルシーな長寿食として、いまや全世界に広まっている。 北米は言うに及ばず、イギリスでも地元のチェーン店が、ソーホー、バディントン駅のプラットホーム、ヒースロー国際空港や高級デパートなどに、店舗展開を進めている。 寿司のほかに刺身、天ぷら、焼きうどん、日本酒などが、くるくる回っているのも面白い。 1958年に大阪で生まれて半世紀、回転寿司は、いまや日本を代表する、ファーストフードシステムとして世界中に普及し、日本の食文化を広めている。 たぶん食材を含めるとその裾野は大きい筈、 クロマグロ騒動などで、日本のイメージを損ねてはならない。 


シャンパン&キャビア

2010年03月07日 | 食・レシピ

ウエイターがキャビアを持ってきた。 「レモンさえあれば充分だ」 フェビアンはそう言って、輪切りにしたゆで卵と、玉ねぎののった大皿を断った。 「折角の美味を損なうような食べ方は、やめようではないか」 ウエイターは灰色の真珠を、スプーンで山盛りにすくって、僕達の皿に分けた。 僕がキャビアを食べるのは、生まれて4回目、 これまでの3回もハッキリ覚えていた。

アメリカの作家、アーウイン・ショーの 「真夜中の滑降」 の一節だが、ゆで卵を断ったのは正解. しかし皿に盛ったキャビアを、スプーンで食べるだけでは、あまりに色気がなさ過ぎる。 男だけの食事だから構わないが、ショーらしくない。 ショーが書く都会の女達は、上品で洗練された魅力があり、 しかも気の利いた台詞を口にする。 いずれこのブログで紹介したいと思うが、多感な年頃、彼の作品を読み漁ったのが思い出される。

北回りのヨーロッパ路線が開設されて間もない頃、 パリやロンドンから日本に帰る便は、給油のため評判の良くない、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に トランジットする。 限られた乗客は、眠い目をこすりながら、真夜中の売店に向かう。  正真正銘の、「ロシア・カスピ海産」のキャビアを、きわめて安く買えるだ。 キャビアの入った粗末な容器を提げて機内に戻ると、スチュワーデスが冷蔵庫で預かってくれる。 たまたま近くの席で目にとまった、 デザイナーの森英恵さん夫妻も、大きな容器を提げていたのを思い出す。 

一般的にキャビアとは、チョウザメの卵を指すが、フランスでは魚卵の総称で、使用する場合がある。 またロシアでは 「チョールナヤ・イクラー」、すなわち 「黒い魚卵」と呼ぶ。 主な産地は、カスピ海とアムール川が有名。 チョウザメの仲間で最も大きな 「ベルーガ」 は体長3~4m、体重300kgを超えるものもあるが、普通は100~200kgで、約15%にあたる15~30kgがキャビアとして取れる。 成熟までなんと20年の歳月を要する。 輸入キャビアは長期保存のため、高濃度の塩分で塩漬けされるため、本来の味とは言い難い。 原産国で塩分3~5%の本物を食べたら、きっとキャビアの認識が変わる筈。

私が推奨するこの珍味の食し方を紹介しよう。 まずキャビアをのせる、「ブリー二」と称するそば粉を焼いて作った、ロシア風パンケーキを作る。 そば粉を牛乳で溶かし、バターで練ったものを、フライパンで焼くだけ。 イメージとしては、よくオードブルや、カナッペに用いる小ぶりな薄いもの。 クラッカーで代用してもいいが、折角だから手間をかけた方がいい。 この上によく冷えたキャビアを、小さなスプーンでのせ、その上に、水でさらした玉ねぎのみじん切りを振りかけ、レモンを絞ったら出来上がり。 本来の飲み物はウオッカだが、やはりシャンパンか、ヴァンムースがお勧め。

シャンパン&キャビア、ジャズの歌詞でも歌われるが、 デフレの影響で少しは安くなったのだろうか? 

  


アルコール・ストーブと電気コンロ

2010年02月14日 | 食・レシピ

ラヴィックは自分の部屋に帰って、包みを解いた。もう何年も使わなかったアルコール・ストーヴをさがして、見つけ出した。またほかの場所を探して、固形アルコールの包みと小さな鍋を見つけた。彼はその燃料を二個とって、鍋の下に入れ、それに火をつけた。小さな青い炎がちらちら揺れた。

バターを一塊り鍋の中に投げ込み、卵を二つ割って、かき混ぜた。それから、新しい歯切れのよい白パンを切り、新聞紙を二、三枚重ねて下敷きにして、鍋をテーブルの上に置き、ブリーをあけ、ヴーヴレーの壜を一本とってきて、食事を始めた。

こういうことは、もう長いことしなかった。明日は固形アルコールの包みを、もっと買ってこようと思った。アルコール・ストーブは、楽に収容所に持ち込むことができる。折りたたみになっているからだ。 ラヴィックはゆっくり食べた。ボン・レヴェックも味わってみた。 ジャンノーの言うとうり、上等の食事だ。

これは元ドイツ人作家、エリッヒ・マリア・レマルクの 「凱旋門」の一場面。 パリへ亡命中のドイツ人外科医ラヴィックは、かってベルリンの有名な病院の、40歳を超えた名外科部長。 名を隠して手伝う友人の病院で、交通事故にあった少年ジャンノーの片足を切断する。 保険金を受け取った少年は、母親と念願だった牛乳店を開き、ある日世話になったラヴィックを訪ねる。 そのときの手土産が、 店で扱うパン、バター、チーズ、卵、の包み。 ラヴィックは、少年が帰った後アパートの部屋で、久しぶりに一人だけの夕食を、ゆっくり味わう。

フランスでは、パンとチーズとワインがあれば、立派な食事になる。 さらにラヴィックの食卓には卵とバターが加わる。 そしてここの主役は、ヴーヴレの白ワインではなく、アルコール・ストーブ。 時は第二次世界大戦勃発前、恐怖と絶望の中にあって、つかの間の豊かな食事。 この後ラヴィックは、避難民と一緒に警察のトラックに乗せられ、パリを去る。 あんまり暗くて凱旋門さえ見えない。

スイッチを入れると、ニクロム線が赤くなる電気コンロ。 これでスルメを焼き、一升瓶からの酒を、茶碗で飲んだり、 七輪で焼いた秋刀魚を、白ワインのサンセールで食した頃を、懐かしく思い出す。


神様は平等

2010年02月08日 | 食・レシピ

東京農業大学名誉教授、農学博士で醗酵学者の 小泉武夫氏は、私の家から車で40分ほど東方にある、福島県小野町の出身。 1994年から日本経済新聞に連載のコラム、「食あれば楽あり」 を楽しみに読んでいるが、小泉造語がまた面白い。 「醗酵仮面」 「ムサボリッチ・カニスキー」 「味覚人飛行物体」 そして自宅の台所は 「食魔亭」。

今から7~8年前、料亭の娘さんの結婚式で、小泉氏と隣り合わせる機会があった。 風貌通り温和なお人柄で、食通に共通したことだが、グルメでグルマン。 供されるフレンチを、ワインとともに豪快に食される。 当然メタボっぽい氏を意識しながら、 「物書きで美食家の先生方は短命のような気がしますが、一種の職業病でしょうか?」 とぶしつけな質問をしてみると、「例えば?」 とおっしゃる。 とっさのことで、開高健と池波正太郎の名前を挙げると、 氏は 「発酵食品を食べないとだめなんですよ」 といつもの持論。 

それ以来、コラムを読みながら、持論を小泉先生に当てはめて、検証してるのだが、現在67歳でますます健在。  開高健、食道癌58歳没、をとっくにクリアーし、 池正先生、白血病67歳没 と肩を並べた。 これでは検証結果を確認できないまま、こちらが先に逝く可能性大、 せいぜい漬け物やキムチ鍋などの発酵食を食べ、醸造酒のワインを飲んで、先生にあやかろうと思ってる次第。

痩せてる人より、太り気味の方が長命。 お肉は、魚と同じぐらいの比率で食べるのが理想。塩分制限をしてる人は、総じて病弱。 などと、食べ物と健康の関連については、諸説ふんぷんだが、今アメリカ人の寿命が延びてきている。 国を挙げて野菜や果物の摂取を奨励した結果だという。 そして中産階級以上では、和食への関心が、急速に強まっている。

どうせ病気になるなら、何でも食べられる。塩分も控えなくていい。お酒もそこそこ飲んでいい。そんな病気がないだろうか? よく考えてみたら 自分が罹った「前立腺がん」が該当する。 「なるほど神は平等だ」 つくずくそう思った。 

 

 


ビストロ最新事情

2010年01月31日 | 食・レシピ

車の運転を苦にしない、会話の相手としてそこそこ退屈しない、日常のマナーも一応身につけている。 プラス、体質的にアルコールを受け付けない。 こんな条件に合致する人が身近に居たら、男女を問わず大事にしたほうがいい。

昨夜、上記の資格を完璧に満たす女房の友達を誘い、私のワイン・アドヴァイザーである、某酒店の専務が薦める 郊外のビストロへ行き、 久々にフレンチのコースを食してきた。 この店は住宅街の一角に位置し、静かで、ロケーシヨンも悪くない。 2階建ての1階が店舗で、席数10席ちょっと、数台の駐車スペースがある。 内装に金をかけてないが、フランス田舎風の雰囲気と、外観ととのコントラストがグッド。 お買い得の店に共通した形態として、ここも若いオーナー夫婦だけで、人は使わない。 さらにすべて予約制。 食材のロスを考えると、客の立場からも、このやり方を支持したい。 

飲み物は専務が選んでくれた、2300円のヴァンムース(1月2日のブログ参照)を持参したが、持ち込み料は1000円。 東京のポピュラーなワインバーでも、最近このシステムを採用するところが増えてきており、お値段の高いワインでも、安い持ち込み料で飲めるので、人気上昇中。

女房が食前酒にキールロワイヤルを所望し、カシスをオーダーすると、半分ほど入ったリキュールグラスを置いていくだけ。  前菜、デザート、メインデッシュの鴨ローストの他に、3品ほどの皿数だったが、 素材の生かし方、ソースの繊細さ、付け合せ野菜のセンス、など 総じて期待を裏切らないレベルだった。 エスプレッソのあとに頼んだ、食後酒のグラッパは品切れ。 しかし、代りのカルバドスがそこそこの物で、嬉しかった。

メニューは出さないし、ボトルからグラスへのサーヴィスはセルフ、帰りに、車まで送ったりもしない。しかしグラスや食器類、ボトルクーラーなどには金をかけている。そして料理はどこにも負けない。 そんなメリハリのあるたコンセプトと、オーナーの志が伝わってくる 2時間の夕餉だった。

ところで、専務がチョイスしてくれたヴァンムースは、お値段が倍はするであろう シャンパンにまったく引けをとらず、立ち昇る細かい泡が、最後まで絶えなかった。 

今回は、コストパーフォーマンスの話に終始してしまったが、お許しをいただいて、最後にもうひとつ。  この夜の出費総額は? 友達のノンアルコール飲料2杯も含めて、2万円でお釣りがきた。  さて参考になっただろうか。


元旦食日記

2010年01月01日 | 食・レシピ

予報に反し前庭に雪が降り続き、朝酒が正常な状態に戻りつつある、静かな元旦の午後。

今朝はいつもより遅く5時半起床、 晦日の紅白歌合戦も観ないし、年越しそばも食べない老人は、昨夜もただ体内時計の命じるままに床に入り、村上春樹が1988年に初版を出した「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を開いたとたんに夢の世界へ。 外気温はマイナス3度、まず薪ストーブを炊く。灰を取り出し、研磨剤で前面のガラス窓をツルツルに磨き上げたあと、杉の葉と小枝で火をつけて、乾燥した薪が燃え出したら昨年秋の薪をくべて完了。20分もすれば250度ぐらいになるはず。 積雪5センチ、小雪の舞うなか犬2匹と小1時間ほど田畑の中を歩き回ったあと帰宅。

窓を開け、雪を見ながら露天風呂感覚でゆっくり入浴、新しい下着に替え、身支度のあと飲み始める。今年は我が家も「おせち重廃止」元年。 大きな白い盛り皿に並ぶ品目は、加島屋の数の子に鰹節、同じく松前漬けに浸し豆、イカ人参、かまぼこ,錦たまご、牛蒡巻き、黒豆、白豆金団、うど味噌、それに塩分少なめ辛子多めの自家製ハクサイ漬物。 メインデッシュは勿論セリのたくさん入ったお雑煮、飲み物は冷酒純米酒+ビール。 

既製のオセチはやめて正解。少し手間はかかるが、単品で買い集めたもの、自家製のものと、好きなものを組み合わせて作った「オリジナルおせち」は、食べ残しがないし、新鮮で安上がり。2日、3日は鍋、カレー、餃子、パン食ワインなどで済ませればいい。

食習慣の変化、経済的な理由だけではなさそう。ファーストフードからスローフード、お袋の味、食卓の意義、安全志向、などさまざまな面で、この国の食文化も成熟してきてるのかもしれない。 

 

                               お酒は頂き物の越の寒梅


キムチ鍋の反響

2009年12月28日 | 食・レシピ

著書を出して最初の反響は、当然病気に関するものだろと身構えていたが、意外や意外我が家の「キムチ鍋レシピ」に関するものだった。

仙台の病院での手術を終えて,一週間ぶりに帰宅した最初の夕餉に私が何を食べ、何を飲んだか?多少なりとも食とお酒に関心のある読者であれば知りたい筈だし、それに応えなければければならない。そんなサービス精神で我が家の定番メニューであるキムチ鍋を紹介し、この料理で合う酒は麦酒のみ、デザートに自家製干し柿の白ワイン漬をたべた。などとさして価値のあるものとは思えないことを書き記した。

ところが毎年ボジョレーヌーボーを送っている女の子から、さっそく今夜このレシピでキムチ鍋を食べることに決めた、有難う。と礼状が届くし、主治医の白岩先生からは、「東北大学の荒井教授とお会いしたら、これまでに食べたキムチ鍋の中で最高だったし、ニラを入れたおじやがまた旨かった。と褒めておられたよ」とご報告を頂いた。このほかキムチは何処のものか?牡蠣が手に入らない夏場は何で代用すればいいか?などの問い合わせも多く寄せられた。

美味しく作るポイントは2つ。多少酸っぱくなったキムチを使うこと、我が家は在日ノースコリアン系の店から仕入れるが、もし酸っぱいのが入手できないときは、自宅で冷蔵庫に入れずに発酵させる。もう1つのポイントはキムチを炒めること、このとき換気扇を必ず廻すことをお忘れなく。

冬場の鍋料理は身も心も温まると好評だが、塩分を取りすぎるのが難点。しかしキムチ鍋は発酵食品なので、酸味の強いものを使うとかなり減塩しても味を損なわないのが利点。この正月中安い、早い、美味い、3拍子揃ったキムチ鍋でぜひ親しい人を招いてみたら如何でしょうか。


お米を考える

2009年12月27日 | 食・レシピ

NHK深夜便「心の時代」は、多彩なゲストがさまざまな知識とヒントを与えてくれる。

数日前は、米国と日本で活躍する陶芸家の「高鶴 元」氏からこんな話をお聞きした。

陶器を焼く際に使用する藁に、農薬が含まれていると赤く変色してしまうので、無農薬の米藁を探すのに苦労され、無農薬の藁を使うと念願の白い色を出すことが出来たそうだ。

ところで私は癌を患ってから、藁の身内である米にこだわり続けている。著書「『前立腺がん』根治を諦めない人のために」にも書かせていただいたが、米作りは今や農作物のなかで最も楽な作業となった。自動田植え機やコンバインの出現に加え、除草剤と農薬を効率よく使うことで、省力化と生産性が飛躍的に向上し、米価も安くなったが、いわば薬ずけの米を毎日食べていて本当に大丈夫なのか?不安が募り、やっと探し当てた無農薬米を玄米で食べるようになって4年目に入る。

先日「癌克人」の松井代表と、有機農業の先駆者である農業経営者、石沢重吉氏を訪ね、米作りの話が出た折、「除草剤を一回使えばもう天国ですよ」という言葉が印象に残った。氏はそれほど劇的に効く除草剤に手を出さず、田車を押して雑草を取りながらの収穫量は、除草剤を使った田圃の良くて半分にしかならないが、消費者直売、市場価格の約3倍、10kg6000円で全て売り切る。自分の作った米に自信と誇りを持っており、ご子息も後継者として修行中だ。

このほどHPを立ち上げ、初めてのブログ書き込みなのに、硬い話になってしまいましたがが、これから出来る限り頻度を高め、楽しく役に立つ情報を発信してまいりますので、宜しくお付き合いください。