Tomotubby’s Travel Blog

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安重根の梱包芸術 (黒龍江省哈爾浜)

2006-03-24 | 好韓嫌韓・厭鮮
クリストの「梱包芸術」は、数ある現代芸術の中においても特異な存在ではないか。と思います。風景の中で見慣れたモニュメントや建造物、或いは風景そのものを覆い隠すことで、今まで考えてもみなかったような風景を作り上げる。そのために用いられる材料は、あくまで薄い布といった「皮膜」だけで(構造を支える支持体はありますが)、包まれた「ボディ」の輪郭はよく判ります。面白いのは、「皮膜」を用いた梱包芸術自体は、賞味期限の短いテンポラリーなもので決してパーマネントのものではなく、いずれ「皮膜」は剥がされて「ボディ」が露わになり賞味期限が切れることです。美術館に飾られるとすれば、(日用品などを梱包したものを別として)作品そのものではありえなく、梱包されている状態を写した写真、プラニングのためのスケッチや「皮膜」材料そのものなのです。


梱包されたヴィットリオ・エマニュエル二世像(ミラノ・1970年)


梱包されたレオナルド・ダ・ヴィンチ像(ミラノ・1970年)

よくよく考えれば、人間は裸体という「ボディ」に被服という「皮膜」を纏っている(これを被覆という)のだし、絵画自体も壁やカンバスという「ボディ」の上に絵具という「皮膜」を作り上げているわけです。絵具という皮膜はパーマネントのようにも思えますが、最古のラスコーの洞窟絵画にしても描かれて1万5、6千年しか経っていません。地球の長大なる歴史と比べれば、とるに足りないテンポラリーなものです。クリストの芸術は、どこか儚い、最も人間らしい性格のものではないか。と思ったりします。

閑話休題。下の写真は、2006年1月に中国黒龍江省哈爾浜(ハルビン)、哈爾浜駅から数百mしか離れていない中心街、中央大街広場公園にできたデパートの前に忽然と現れた梱包芸術です。もちろんクリストの作ではなく、彼の芸術を模作したものであることは歴然です。


哈爾浜中央大街の梱包芸術

銅像と思われる部分の梱包材料は、中国に行くとよく目にする色使いの、工事現場などで使われる樹脂製のシートです。これとは別に、台座と思しき部分は、日本でもおなじみのブルーのシートで覆われています。この作品がクリストの作品と大きく違うのは、元々これが何のモニュメントだったのか、地元の人民の人たちにもよく知られていないことです。つまり元からあったモニュメントを梱包したのではなく、唐突に梱包された見えないモニュメントを展示したわけです。

調べてみるとデパートを建てた韓国実業家のイ・ジンハク氏が哈爾浜市政府に働きかけ、中央大街広場の一部を買い取ったうえで、私有地内に銅像を建て、2006年1月16日に盛大に除幕式を行ったそうです。ところが哈爾浜市政府の上部機関である中国政府は、この事実を察知し、すぐに銅像を「皮膜」で覆い、梱包芸術として10日間の期間限定で野外展示することにしたそうです。銅像はその後、韓国資本のデパート内の片隅に移され展示されているそうです。

で、見えない銅像とはいったい何だったのかということですが、安重根という、三重根とか大学の数学の授業を思い出させる名前の朝鮮人テロリストの銅像だったそうです。下のような「ボディ」を写した写真が残されています。


梱包前に一時的に露出された安重根像(高さ4.5m)

安重根は1909年10月26日にロシア訪問のため哈爾浜に立寄った初代韓国統監、当時枢密院議長であった伊藤博文を哈爾浜駅構内で暗殺し、処刑されています。

日本は1894年に日清戦争に勝利することで、当時、李氏朝鮮を保護下に置こうとしていたロシアを牽制しつつ、李氏朝鮮を属国として支配していた清国から、朝鮮の領土保全を確保しました。これを受けて朝鮮は1897年に大韓帝国として正式に独立しました。ソウルにある独立門や独立館は、それまで清国の使臣を迎えた迎恩門・慕華館を日清戦争後に改めて建立・改修したものです。


現行の韓国「太極旗」のオリジナルである「大清国属 高麗国旗

朝鮮の国力は既に弱体化して一人立ちできる状態にはありませんでしたが、伊藤博文は朝鮮の自主性を認め完全独立国家とすることを主張した穏健派の中心人物でした。しかしロシアと朝鮮問題について会談する予定だった彼が安重根のテロに斃れたことで、結果的に朝鮮併合の世論が一気に高まりました。韓国内でも一進会から「韓日合邦を要求する声明書」の上奏文が皇帝に提出されるなどして、1911年にとうとう朝鮮併合が行われたのでした。安重根は韓国では英雄視されているようで(北朝鮮では抗日における金日成の反面教師としてマイナス評価されている)、今回の銅像建立に至ったのですが、外国人の、それも暗殺者の巨大な銅像を街頭に建てることを中国政府が許すはずもなく、今回の「梱包芸術」の期間展示と相成ったわけです。因みに暗殺後に伊藤博文の胸像が哈爾浜駅構内に設置されたそうですが、後年中国政府により撤去され、その場所には今は植木鉢が置かれているそうです。


銅像関係の過去記事:
圓明園・圓明新園の十二支噴水(北京・珠海)
独裁者の銅像
ヨン様の像(春川)
東條英機跪地雕像(海南省海口)
三大大仏
坂本龍馬とお龍
巨大仏


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
銅像の梱包とは関係ないんだけど・・ (chako)
2006-03-24 20:52:21
Tomotubbyさん、ごめんなさい

今まで「食物しりとり」にいっぱい参加してくださってありがとうございます。

所持金も2位をずっとキープされてたんだけど、

急になんですがgooのHP辞めることにしました。

これからはブログの方でちょこっと頑張って行こうと思ってます



一応しりとりは「お題しりとり」としてブログにもえれべーたぁ式のをつけてますので、よかったら遊びに来て下さい

Tomotubbyさんのブログへは 面白し、これからも立ち寄らせて下さいねo(*^▽^*)o~♪
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梱包芸術・・・ (quator2005)
2006-03-24 23:03:22
 韓国の傍若無人さをよく表している芸術と評価しますが、どうでしょう?

 日本国政府には埋葬場所を教えて欲しいと連絡してきたようですが、教えてもらえるとでも思うのでしょうかね。
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埋葬場所探し (Tomotubby)
2006-03-25 00:04:41
↓の記事ですよね。



彼らの憎い日帝なくして大韓帝国がなかったこと、韓国の今の繁栄は日帝時代の教育や社会基盤の充実がベースにあり、米国の庇護のもとで北の脅威を避けられたことにあるのを認めたくないのだと思います。

事情を知っているアンビバレントな年配者が事実を認めないために、子孫にまで誤った歴史認識を広めてしまったのは根が深いと思います。



しかし、経度緯度から遺体探しをするのは、漫画「スティールボールラン」みたい(笑)

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【萬物相】大韓国人 安重根



大韓民国の義兵中将 安重根が満州哈爾濱駅で、日帝の韓半島侵略の元凶、伊藤博文を暗殺したのは1909年10月26日のことだった。

それから5か月後の1910年3月26日、安義士は旅順の刑務所で処刑された。

安義士は殉国する直前、面会にきた二人の弟に「私が死んだ後、遺骨を哈爾濱公園に埋葬した後、国権を取り戻せば祖国に改葬してほしい。天国に逝ってもわが国を取り戻すため努力する」という遺言を残した。

▶安義士の殉国95周年、韓国が国権を回復してから60年の歳月が流れたものの、われわれは安義士の遺言を果たしていない。安義士の遺骨は旅順刑務所の裏山の墓地に埋葬されたと知られていた。

しかし、この刑務所は日本、蒋介石の軍隊、中国共産党など、次々とあるじが変わり、昔の面影を残していないほど変わってしまった。

安義士の処刑後、大規模な刑務所拡大工事によって、当時54人の死刑囚が葬られていた裏山の墓地も暴かれた。

▶光復(独立)後、安義士の遺骨が埋葬された位置を捜すことができるという主張と証言が相次いだ。日本人刑務所長の娘の証言などに基づいて、「北緯38度49分3秒、東経121度15分43秒」という主張も出た。殉国した当時、安義士は黒いゴムの靴を履いていたという証言、カトリックに帰依したため十字架とともに葬られたという証言も提起された。

▶南北が安義士の遺体の共同発掘に合意し、中国が協力の意思を表明したことを受け、安義士の遺体が韓国に帰る可能性がいつにも増して高くなった。

安義士の遺体を帰国させるためのキャンペーンを続けてきた元国会議員の金永光(キム・ヨングァン)さんが安義士の墓の位置を確認できる新たな資料を入手したことも追い風になった。

安義士の哈爾濱での暗殺事件当時、ロシア語通訳で安義士を手助けした劉東夏(ユ・ドンハ)さん一家が作成し、代々に保管してきた安義士墓地の地図だ。

▶安義士には2男1女の子どもがいた。長男ブンドは12歳のとき、ロシアで死亡し、次男ジュンセンは、1952年釜山(プサン)に疎開しているうちに死亡、京畿(キョンギ)道の抱川(ポチョン)に墓地がある。

安義士の孫であるウンホさん(ジュンセンの息子/米国に居住)は髪の毛と血液による遺伝子鑑定で安義士の遺骨を確認してくれる肉親だ。

何回も墓地発見の可能性に期待をかけたが、実現せず失望したというウンホさんは、「地図が発見されたので、望みをかけてみる」と述べたという。

安義士は、伊藤博文の暗殺を思い浮かべながら、「時が英雄をつくるのか、英雄が時をつくるのか。北風が冷たいが、私の血は熱い」と詠った。

「大韓国人」安重根義士の遺体とともにその高い気位も祖国に帰ることを祈ってやまない。



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しかし、テロという卑劣な手段を用いた者を英雄視して銅像まで作るとはまったくひどいことだと思います。↓のような動きも別にあるので注意が必要だと思います。



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[社会]安重根義士の銅像、ハルピンに建立



安重根義士の銅像が来年3月、中国ハルピンに建てられる。 安義士の銅像がこの地に建てられるのは初めて。

ソウル市九老区は来年3月26日、安義士の殉国96周年を記念、安義士の銅像をハルピン市香坊区にある高麗会館に建てることで、チャン・ヨンチョル高麗会館館長と合意した旨 15日明らかにした。 安義士が去る1909年10月、ハルピンで伊藤博文を狙撃してから 97年ぶりのことになる。

安義士の銅像は背丈175cmで実際の姿とまったく同じように製作され、50cmの土台の上に置かれることになる。

銅像は安義士が伊藤を狙撃した後、左手を胸に上げて空を眺める姿を形象化する。 九老区は銅像製作費用 5000万ウォンを全額負担する。 安義士の銅像造成は、ハルピンに住む朝鮮族15万名の宿願の事業だった。 九老区の関係者は、“去年ソウルを訪問したハルピン朝鮮族の代表が、九老区に依頼して銅像造成事業が可能になった”と述べた。

(ソウル新聞 イ・ドゥゴル記者 2005年7月16日)
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