Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

ユーカリの木

2012-04-24 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
04月23日




19:43 from Twitter for Android 地植えをしようと、ユーカリの鉢植えを買った。お店の人は成長が遅いと言っていたけど、ネットで調べると、すぐ大きくなると書いてあるではないか。どちらを信用すべきか?19:54 from Twitter for Android ユーカリの葉はコアラの餌として有名だが、うれしいことに花粉症の薬にもなるらしい。その葉は油分が多いので、乾燥地においては、わざと山火事を起こして、焼け野原に落ちた種を繁殖させるという、デンジャラスな性向まで備えているらしい。by tomotubby on Twitter

パラオの「土人のお祭り」

2010-02-11 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
作家・中島敦は、太平洋戦争直前、南洋庁の国語編修書記として単身パラオへ赴き、現地の公学校で使う教科書を編集する仕事に就き、パラオ、トラック、ヤルートなど南の島々を巡る。赴任は半年ほどの期間であったが、中島は毎日のように手紙や絵葉書を書いて家族や知人に送った。中でも長男桓(たけし)君に宛てた絵葉書は数多く、中島の子煩悩ぶりが窺われる。

「中島敦 父から子への南洋だより」は、保管されていた葉書を集めて編集・刊行された本で、先日古書店で美本を見つけたので買い求めた。読むと、遠く離れた日本に残した子を思う父親の愛情と孤独が痛いほど感じられ、涙を誘った。赴任期間中に太平洋戦争が勃発し、健康上の理由から中島は退官を依願して帰国するが、それから一年も経たぬうちに夭折してしまう。

中島敦は、桓君への葉書の中で、パラオなど原住民先住者は内地では「土人」と呼ばれているが、現地では「島民」と呼ばれていることに言及している。領土内で皇民化政策を押し進めていた日本は、現地で「土人」という差別的な言葉を使うのに躊躇ったのではないかと思われる。

しかし当時の童謡の中には、パラオ原住民のことを歌った「土人のお祭り」という歌があった。どうやら内地の日本人には「土人」という言葉に違和感はなく、広く領土内の原住民を指す言葉として使われていたようである。歌詞は以下の通り。

椰子の木蔭でドンジャラホイ、
シャンシャン手拍子足拍子、
太鼓叩いて笛吹いて、
今夜はお祭りパラオ島、
土人さんが揃ってにぎやかに、
アホイホーイよドンジャラホイ。

戦後になるとGHQから「土人のお祭り」は差別的とのクレームがつき、詩が「森の小人」に改められている。歌詞は以下のように変更された。

森の木陰でドンジャラホイ、
シャンシャン手拍子足拍子、
太鼓叩いて笛吹いて、
今夜はお祭り夢の国、
小人さんが揃ってにぎやかに、
アホイホーイよドンジャラホイ。

後に、この「森の小人」も「小人」という表現が差別的と指摘が入り、歌唱することが自粛され、今では封印されてしまっている。実は「土人のお祭り」自体がオリジナルではなく、もともとは「蟻の進軍」という名の童謡で別の歌詞を持っていたらしい。戦時に「蟻の進軍」では士気があがらず流石にまずいだろうと「土人の祭り」に改められたらしい。改名を繰返した末に封印されてしまうとは、つくづく運のない歌であるが、三度歌詞を改めても命脈を保ち得たのは、やはり「ドンジャラホイ」の一節が誰の耳にも無邪気で魅力的に聞こえたからに違いない。

道具を使うタコ

2009-12-17 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
16日の報道ステーションなどで取り上げられていたニュース。

無脊椎動物で最高の知能を持つと言われてきたタコだが、いまひとつ説得力に欠けていた。今回、新しい道具を使って身を守ることができることがオーストラリアの研究者から報告された。

タコの知能が高いことが広まることで、クジラと同様に高い知性の動物を捕獲して食する行為は人道にもとるなどと、タコ食反対論者が現れて、世界で最もタコを食する日本人を批判しないかと心配。

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道具を使うタコ、ココナツの殻を「よろい」代わりに 豪研究チーム
2009年12月16日 10:59 発信地:シドニー/オーストラリア

【12月16日 AFP】タコは人間が思っている以上に頭が良いのかもしれない――。オーストラリアの研究チームが15日、米科学誌「カレント・バイオロジー(Current Biology)」に、タコがココナツの殻を攻撃から身を守る「よろい」として使っているという発見を報告した。

豪ビクトリア博物館(Museum Victoria)の生物学者、ジュリアン・フィン(Julian Finn)氏は、こぶし大のメジロダコ(学名:Amphioctopus marginatus)が海草のついたココナツの殻を拾い、持ち去っていく様子を初めて見たときは「腰を抜かした」という。


フィン氏はAFPに対し、「われわれは通常、いわゆる下等生物と言われている無脊椎(むせきつい)動物と複雑な行動とを結びつけて考えない」と語った。

道具の使用は、知性をもっていると定義する要素の1つだと考えられている。当初は人間だけの特権と考えられていたが、これまでに人間以外の霊長類やほ乳類、鳥類などでも確認されている。無脊椎動物が道具を使用していることが確認されたのは今回が世界で初めてだという。




フィン氏は、メジロダコが殻をもってぎこちなく歩いている様子を初めて見た時、この行動が、単にタコによる奇妙な水中行動の異常例なのかどうか判断がつかなかったという。







フィン氏はインドネシア沖で行った研究で、10年以上にわたって約20匹のタコを定期的に観察した。うち4匹がココナツの殻を長距離にわたって運んでいたという。「海底の泥の中にはココナツの殻とともに多くのタコがいたが、この4匹はココナツの殻を拾い上げ、自分の体の下に抱えて海底を歩いていた。おもしろい光景だったよ」。

フィン氏によると、素早く移動できず捕食者に弱いメジロタコは、殻を持ち歩いていざというときのシェルターとして使うのだという。

「後で役立てるために殻を持ち歩いている。ここがほかの生物と異なる点だ」と語るフィン氏は、同様の習性を持つ生物は他にも見つかるだろうと語った。(c)AFP

(写真) 豪メルボルン(Melbourne)のビクトリア博物館(Museum Victoria)が公開した、身を守るためにココナツの殻を身にまとうタコ(撮影日不明。2009年12月15日提供)。(c)AFP/Museum Victoria

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」で奇しくも荒俣大先生と...

2009-09-08 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
前回はゴーギャン畢生の大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に描かれた時間の流れと、左右端部が重なって時間が還流するのではないか。というようなことを書いた。

で、同じ日の夜、教育テレビ「新・日曜美術館」がこの絵の特集をしていたので、なんの気なしに観ていたら、ゲストの荒俣宏大先生が、私がブログに書いたこととほぼ同じようなことを指摘されていて驚いた。ジャスパー・ジョーンズのことに触れてはいないにしろ、先生は番組収録前に私のブログを読んだのではないか?と疑いたくなった。しかし、そんなことはないだろう。何しろ、この番組は再放送なのだから。

となると... 以心伝心。彼と私は、まるで天吾と青豆のように赤い糸のようなもので結ばれているのではないか?恐ろしい想像をしてしまった。

ああ、気色が悪い。(杉浦日向子さんは好きだけど)

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

2009-09-06 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii

Paul Gauguin「D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?」(1897-98)

混雑を避けて、夜間展示のある週末に近代美術館で「ゴーギャン展」を観た。今回はボストン美術館門外不出の大作で、ゴーギャンがタヒチで自身の芸術の粋を集めて描いた「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(上)が出展されていて、この大作を観るのが目的。タヒチのゴーギャン美術館(記念館といった方がいいかも)にも実物大の複製画の展示があったのを覚えている。

美術館に行ってみると、1.4m×3.8mのこの絵の展示には過大なほどに大きなスペースが与えられていて、絵の前から2mほど離れた場所にはロープが張られていた。ロープの後ろでは立ち止まって絵を観ることが許されるが、ロープの前では立ち止まって絵を鑑賞することは控えるよう求めている。少しでも立ち止まって観ていようものなら、背中に視線を感じ、シルバーシートに座っているときのような居心地の悪い気分になる。幸い夜7時を過ぎると鑑賞者の数が減り、そのためかロープは撤去されて、どの位置からも絵を観ることができるようになった。夜を選んで訪れたのがよかった。

ゴーギャンがこの絵に意味を与えたとすれば、それはどのようなものなのか? この絵をどう解釈すればよいか? それについては、会場内でもいろいろとヒントが提示されていた。しかし解ではない。絵の前に長く立ち止まり自分なりに感じたことを以下に列挙したい。

【時間の流れ】

まず絵は時間的に定点を描いたものではなく、絵の中には右から左へと流れる時間がある。それは「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題名通りで、右から左にかけて「過去・現在・未来」であり「朝・昼・夜」でもある。但しこの絵に描かれた時間は人類の歴史というような大仰なものではなく、せいぜい一家族の歴史というくらいの短い時間の流れだろう。

右下の赤ん坊は、個人にとって「どこから来たのか」つまり「過去」に相当し、左下の「老婆」は「どこへ行くのか」つまり「未来」に相当するのは言わずもがな。「過去」は「誕生」であり「未来」は「死」であることは、人間誰しも拒むことはできない。「誕生」と「死」の間には、多くの人間の営みがあり、絵では大きなスペースを割いて描かれている。中央の男が「採取」し、少女が「摂食」する姿は、人間の「生活」そのものではないか。ゴーギャンはそれらに「原罪」の意味も与えているに違いないが。

右端で半身だけ描かれた犬は、画面に描かれた過去と描かれていない「大過去」との架け橋のようなものではないだろうか。犬の顔の向く先は、時間の流れを示しているのではないか。そうして見ると、動物は皆、人間も多くが左の「未来」つまり「死」の方向に当たる。人間の中に右の方を向いている者がいるのは何か「訳あり」なのかもしれない。それは動物との差異なのかもしれない。

【画面の端面】

犬の駆ける地面のピンクは恐らくは「東空」の朝焼けの色で、左の老人の背後に木の陰を写す地面の儚いピンクは恐らくは「西空」の夕焼けの色だろう。背景の木の枝の描写を見ても、右側の枝は日光を受けて若く生き生きとしているのに対して、左側の枝は夜を控えて萎れているように見える。

画面の右の端と左の端の切れ目を見ると、ぴったり重なりはしないが、色合いがよく似ているのが判る。文字の書かれた金色の部分も両方の隅にあり、右端と左端を繋ぎ合わせて画面を円筒状にできるのではないか。とさえ思えてくる。ジャスパー・ジョーンズのクロス・ハッチを用いた一連の作品を思い出した。


Jasper Johns「Between the Clock and the Bed」(1982-83)

カンバスの端面がどこに繋がっているのかが気にかかる絵はあまりないが、ジャスパー・ジョーンズのこのシリーズは例外的な、特別な存在だろう。モチーフとなるハッチが端面にかかる場所を先に決めてから描いているように思われる。 triptic の左右の画面は端面を重ね合わせると鏡像になっていて、中央の画面は左右を繋ぎ合わせるために、恐らくは最後に描かれたのだろう。

ゴーギャンの大作も左右の端を繋ぎ合わせて、「夜」はやがて「朝」に戻り、「死」は「生」に流転することを予め仕組まれて画面構成されているのは間違いないだろう。

つづく

Paititi「Ice Cream Blues/MacGuffin?」

2009-08-13 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
鶉屋さんちのブログで「ドレミファ娘の血は騒ぐ」時代の洞口依子さんのキュートな姿を拝見して、いろいろ掘っていったところ、彼女がハードな癌の病魔を克服して復帰されていたことを知りました。後遺症ほか、いろいろあったようですが、天性の陽気さ、沖縄の大地の力、そしてウクレレ音楽がプラスに働いたのではないかと思います。Paititi は、そんな彼女と石田英範さんのウクレレ・デュオ・ユニット。癒されます。





相対性理論の「地獄先生」のPVに彼女が出ているのも、鶉屋さんちで知りました。

エミリー・ウングワレー展 素晴らしかった

2008-07-17 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii


わざわざ足を運ぶ気にならない展覧会の多いなか、久々に観に行かずにはいられない展覧会で、行ってみると期待を裏切らない展覧会でした。エミリー・ウングワレー展。

エミリー・カーメ・ウングワレーは、80歳を目前にして初めてカンバスに向かい、生を終えるまでのわずか8年間という短い期間に3千枚を超える作品を残したアボリジニの女性画家です。創作場所は現代美術とは縁遠い辺境の地、通例ならハンディになり得る条件をものともせず、老成した画家にありがちなスタイルの固守はなく、若い画家のようにスタイルを変えつつも、オーストラリアの大地に根ざした独自の絵画世界を展開しました。現代美術と隔絶された彼女の創作における変貌は、すべて、何ものからも影響を受けないオリジナルのものです。ついつい、モーリス・ルイス、ウィリアム・デクーニング、ヘレン・フランケンサーラー、アーシル・ゴーキーなどアメリカの抽象画、はたまた日本画との共通点などを探してしまう浅ましい自分が厭になりました。

面白いのは彼女の絵の描き方です。カンバスを壁に立てかけることなく、地べたに敷いて、四方から、或いは画面の中に座して描き進めるのです。そのため絵には明確な天地はなく、美術館の壁に架けられた作品の天地の決定は、いずれもキュレーターの判断に委ねられているのです。横長の絵を、体を横にして縦長と見做して眺めていると、そこには別の絵が存在しているように思え、中には違う角度で架けられた方が見栄えがよいように思えるものも幾つかありました。倒立した像を、カンバスを反転することなくそのまま描いたゲオルグ・バゼリッツの作品を初めて見たときに抱いた奇妙な感覚が別の形で甦ったように思え、とても新鮮な体験でした。

Schmap Hawaii Guide に写真が載った

2007-12-26 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
Schmap Hawaii Guide 4th Edition に、Flickr にアップしていたハワイ島フェアモント・オーキッド・ホテルの写真が載りました。このようなハワイらしくない朝食の写真が気に入られて選ばれるとは予想外でした。Tomotubby が略して Tom になっているのがちと気に入らないです。



Hi Tom,

I am delighted to let you know that your submitted photo has been selected for inclusion in the newly released fourth edition of our Schmap Hawaii Guide:

Fairmont Orchid
www.schmap.com/hawaii/lodging_high-end/p=320953/i=320953_6.jpg

If you like the guide and have a website, blog or personal page, then please also check out our schmapplets - customizable widgetized versions of our Schmap Hawaii Guide, complete with your published photo:

www.schmap.com/schmapplets/p=91108974N00/c=SF20912783

Thanks so much for letting us include your photo - please enjoy the guide!

Best regards,

Emma Williams,
Managing Editor, Schmap Guides

1970年万博にはモアイが二体あった!

2007-12-25 | 海は広いな Oceania /Big Island, Hawaii
クリスマスの今日まで大阪・千里のエキスポランドで「世界遺産 チリ・イースター島 モアイ」と題してメイン展示されていた「平和のモアイ」が実は1991年に作られた新しいもので、所謂「世界遺産」を持ち出したわけでないことは既に述べました。

大阪の街に貼られているポスターには「25年を経て。エキスポランドに 本物のモアイ、ふたたび立つ!」などと書いてあるため誤解されやすいのですが、25年前、1982年に同じエキスポランドで展示されたモアイと今回の「平和のモアイ」は全くの別物です。1982年に展示されたモアイは下の写真のように二体で、完全体のモアイと、胴体部分から切り離された「顔だけモアイ」でした。このうち、完全体の方が正真正銘の「世界遺産」のモアイで、15体の大型モアイが立ち並ぶイースター島アフ・トンガリキ遺跡の近くに今も下のように立っています。


(左)1982年展示のモアイ二体 (右)アフ・トンガリキ近くに立つモアイ

さらに遡ること12年前の1970年、大阪で行われた日本万国博でも本物のモアイが出展されていました。まさしく本邦初公開のモアイで、チリ館の前に設置されたその像は、胴体から切り離された「顔だけモアイ」でした。モアイが日本で広く知られるようになったのに、この「顔だけモアイ」の貢献度は大きかったそうですが、モアイが「顔だけ」であるような誤解を広く植え付けたこともまた事実です。

万博の際に来日した「顔だけモアイ」は、実は1982年にも再来日を果たしていました。上の写真を見ると、奥に見えるモアイがそれのように見えますが、実は違います。先述の完全体モアイの方なのです。このモアイは、万博前には下の写真のように、顔と胴の間でポッキリ破断した状態で放置されていて、「顔だけ」が日本にやってきたのです。万博後にイースター島に戻り、顔と胴が接合されて、1982年には五体満足(足はないかな?)で再来日したということです。


万博に来た「顔だけ」時代のモアイ大使

ところが、万博に出展された「顔だけモアイ」は実は複製で、万博終了後も島に帰らず日本のチリ大使館に駐留し、奈良県天理市に引き取られたという説があります。天理に行くと、市役所の敷地に「顔だけモアイ」が鎮座しているそうで、まんざら嘘ではなさそうなのです。

この噂を聞いて最初に頭に浮かんだのは、1982年にエキスポランドに展示されたもう一体の素性不明の「顔だけモアイ」です。このモアイと、万博で展示された修復前のモアイ大使がどこかで混同されてしまったのではないか。と思ったわけです。

万博のモアイの謎が解けないままに四ヶ月経った頃、エキスポランドの「平和のモアイ」展示について書かれた、とあるブログ記事に以下の写真を見つけました。今回の展示では「平和のモアイ」のほかにもモアイが展示されていたようなのです。それも「顔だけ」のモアイが。



早速ブログ主のハリーさんから写真をお借りしました。説明分を拡大してみると、意外な事実が判明しました。



なんと大阪万博には、チリ館の「顔だけモアイ」のほかに、テーマ館、つまり岡本太郎作「太陽の塔」の地下にもう一体、複製の「顔だけモアイ」が展示されていたのです。