冬の日は弱く、昼間でも横から射します。私が玉川上水を散歩していて、その美しさに見とれているとき、雲の動きによって全体が少し暗くなりました。その中で雲の動きと上の木の枝の具合でしょうか、細い光線ができて、私の目の前のコナラの枝先をスポットライトとして照らしました。カメラを構えて撮影するほんの短い間にその光線は動いてしまい、3枚の葉はなにごともなかったかのようでした。
客観的にいえば、私の目の前にあるその3枚の葉が一瞬光を受け、それが私が見ている角度からは輝いているように見えたということです。そういうモノと光の無数の組み合わせのひとつがあったというだけのことですが、見ている私の心に「ああ、きれいだ」という感動を生みました。そのたまゆらを人は「一期一会」という言葉で表現したのかもしれません。
この歳になると、いろいろなことが偶然なのか必然なのか不思議な思いでとらえるようになります。私にはこんな経験があります。
ある学生は高校3年生のときに高校の図書館で私がその年に書いた「野生動物と共存できるか」を読んで、自分は野生動物の勉強ができる大学に行くと決心したそうです。当時私は東京大学にいました。彼女は野生動物ができる麻布大学を選んだのですが、私はその年の4月から麻布大学に赴任しました。彼女は入学して講義を聞いて、私がその著者であると知ったわけですが、びっくりしたそうです。それはそうでしょう。その後、彼女は私の研究室に入り、いっしょにモンゴルにも行き、今も交流をしています。
川面を落ち葉が流れているとします。休むことなく流れていく無数の落ち葉を網ですくうとします。育って大学を選ぶ受験生たちを落ち葉、網ですくうのを大学の先生だとすると、ある落ち葉がその網にすくわれる確率ははなはだ小さいもので、すくう場所を少し変えても、同じ場所でもタイミングが違えばすくわれることはありません。そう思えば、学生と先生との出会いは、このコナラの葉にあたった冬の光のように限りなく小さな偶然のようにも思えます。
人との出会いとはまとこに不思議なもので、それを昔の人は「縁」とよんだのだと思います。
客観的にいえば、私の目の前にあるその3枚の葉が一瞬光を受け、それが私が見ている角度からは輝いているように見えたということです。そういうモノと光の無数の組み合わせのひとつがあったというだけのことですが、見ている私の心に「ああ、きれいだ」という感動を生みました。そのたまゆらを人は「一期一会」という言葉で表現したのかもしれません。
この歳になると、いろいろなことが偶然なのか必然なのか不思議な思いでとらえるようになります。私にはこんな経験があります。
ある学生は高校3年生のときに高校の図書館で私がその年に書いた「野生動物と共存できるか」を読んで、自分は野生動物の勉強ができる大学に行くと決心したそうです。当時私は東京大学にいました。彼女は野生動物ができる麻布大学を選んだのですが、私はその年の4月から麻布大学に赴任しました。彼女は入学して講義を聞いて、私がその著者であると知ったわけですが、びっくりしたそうです。それはそうでしょう。その後、彼女は私の研究室に入り、いっしょにモンゴルにも行き、今も交流をしています。
川面を落ち葉が流れているとします。休むことなく流れていく無数の落ち葉を網ですくうとします。育って大学を選ぶ受験生たちを落ち葉、網ですくうのを大学の先生だとすると、ある落ち葉がその網にすくわれる確率ははなはだ小さいもので、すくう場所を少し変えても、同じ場所でもタイミングが違えばすくわれることはありません。そう思えば、学生と先生との出会いは、このコナラの葉にあたった冬の光のように限りなく小さな偶然のようにも思えます。
人との出会いとはまとこに不思議なもので、それを昔の人は「縁」とよんだのだと思います。
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