Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

何の略?

2009-05-30 | Weblog
公園を歩いていたら、前方に20代くらいのカップルが歩いていた。
傍目にもかなりいちゃいちゃしているラブラブ(バ)カップルである。
聞くともなく、彼らの会話が耳に入って来た。

女「ねぇ~~?『交番』って何の略だか、知ってる?」
男「え~?なんだろ。交通規制なんたら、とか?」
女「違う~。ねぇ?なんだと思う?」

その後男はスルー。男はさほどその話題に興味があるわけでもないらしい。

女「気にならない?知りたくない~?夜、気になって寝れなくなっちゃうかもよ~?」
男「いや、俺、気になっても平気で寝れちゃう人だから」
女「じゃ、気になるように耳元でずっと囁いてあげるよ~♪何の略~?何の略~~?」(ずっと女は彼の耳元で繰り返している)
男「いやいや。その場合、(交番のことが)気になる気にならないに関わらず、『うざい』と思うよ(笑)」

かなり冷静に受け答えしている男性の回答に、思わず噴き出した。




修羅しゅしゅしゅ

2009-05-30 | Arts
上野で開催中の「阿修羅展」へ行ってきた。
会期終了間近であったこともあって、思いのほかの人出。
平日だから少しは空いているかなぁと思ったのだが、甘かった。
チケット購入にも並び、会場内へ入るまでも並び。ひ~~ん。

一人じゃちょいと辛かったと思うが、幸い人好きのする友人が傍にいてくれたおかげで、近くに並んだ見知らぬ人などとおしゃべりができ、あっという間に列は進んだ(笑)。
ゆっくりのんびりと見たいものだったが、とにかく物凄い人出で、到底それはできず。小物などは端折って見てしまった。というか、人波を押し分けていく気力でず…。

八部衆のあたりでは、「好きだった男に似ている」とか、またわけの分からない郷愁に酔う。カルラ像(頭が鶏)は日本では馴染みがないのだが、結構珍妙で好き♪インドネシア航空のガルーダはこのカルラから来ているらしい。霊鳥。

さて、阿修羅像の会場へ行くと…。
熱気ムンムン。ひょ~~~っ。ここまでたどり着くまでも難儀であったが、たどり着いた後もなかなか近づけそうにない。2階からゆるりとしたスロープを下って1階からも見れるようになっている。遠巻きに2階から阿修羅を見る。同行した友人は以前に現地で見たことがあるそうなのだが、ワタクシは初めてである。

ライトのあたり具合も加減されているからなのだろうが、大変に美しい仏像であった。もう少し赤茶けた色を想像していたが、ピンクベージュのような柔らかな色合いに見える。丈もかなりあるが、すっとした細いしなやかな体に、蜘蛛のように手が3対舞って見える。わずかに眉をひそめた、憂いを帯びたような、けれども静かな顔であった。

中央の阿修羅像を巡って、周りには人垣が出来ている。2階から見ると、それらの人々がゆっくりと回転しているようにも見え、思わず「メッカ巡礼」を思ってしまった(笑)。熱気と、人が柵のあたりで押し合いへし合いしており、壊れて、阿修羅像がしゃーん、なんてことにならなきゃいいけどなぁ、なんて(笑)。

その後、友人と近くに寄って見てみたが、如何せんの人混みで、一段落ついてからすこし離れた所から眺めていた。これが存外良かった。目の前には黒山の人だかりがぐるぐると渦巻いていて、照明が阿修羅像の頭上に見える。その照明がどこか闇の奥に輝く小さな月のように見える。上半身しか、そこからは見えないのだが、阿修羅像に集中すれば、動く人影が暗い夜の波、押しては返す黒い海の波頭のようにも思える。

友人がもう一巡りしてくるというので、しばし、じぃっとそうして阿修羅を眺めていた。月の夜、ざわめく波間に浮かぶ、淡い桃肌色の阿修羅。
一瞬、ふっと周りの喧騒が消え、静かな阿修羅とワタクシだけの世界になった。いいもんである。うん♪

もともと千手観音に親しみを覚えているので、なんというか阿修羅にもとても親しみを感じる。まぁ、阿修羅は元はと言えばゾロアスター教の最高神で、そこから仏教に取り入れられた闘いの神様であるのだが、破壊の神であるということは、創造の神でもあるんだろう。壊さなければ、創れぬ。そういう意味で、少年のような風貌をして何か憂いを含んだような、切なげな面差しをしているのは、阿修羅の性質を上手く写し取っているように思う。壊すことの哀しみを内包している面差し。

そこが、おそらく人々が阿修羅に魅かれる理由のひとつでもあるのだろう。天上の心にシミ一つない仏の慈悲深さではなく、いわばもう少し俗な、より「人」に近い感じが阿修羅にはある。

友人は、そこに懐かしい人の顔を見たようだ。仏像と言うのは、大抵そういうものであるのだろう。仏の顔に、自分の見知った誰かがふいに投影される。なにか、ふと忘れていたと思っていた心の奥深くに眠る映像が、通り過ぎていく。良いでも悪いでもなく、ただ、通り過ぎていくのだ。仏像というのは、なるほど、写し鏡なのだなと思う。万人にとっての。

友人は時折、「やはり異形だよね」と確認するようにつぶやく。なるほど、そういわれてみれば確かに異形だよな、とその時初めて気づいたように思う(笑)。そりゃ、手が蜘蛛のように3対あって、顔が3面あるって。普通じゃないよな(笑)。しかし、なにしろワタクシは仏像の手が好きであって、こんなに美しいものはそうそうないよなと思っており、時折手の形を真似しちゃったりするくらいである。(←後で友人に、ぽっちりちゃん手のまねしてるから目立ってたよ、と言われた(笑))

数が多けりゃいいってわけでもないが、千手観音なんかも好きなので、基本「手多い人(←?)、OK」なんである(笑)なんだ、そりゃ。そういうのを、器用貧乏っていうのよね、と手の多い仏像を見るたびに思う(爆)。

なんというのだろうか。ワタクシにとって阿修羅というのは、諭してくれるものなのかもしれない。まぁ、仏像なんて皆そういうものかもしれないけれど、阿修羅の猛々しい破壊的な思想というものは、確かに自分の中にあるものだなと見ていて思う。自分の体から取り出されたものが、ふいにぽんとそこに置かれたような。

それがまたすこし切なそうな顔をしているのが、尚更切ない。
仏教では、阿修羅は後に改心して闘いの神から、仏を守る八部衆の一人に加わったということであるが、悟りを開ききっていない、なにか常に葛藤を抱えた人のようにも見える。


ほんのひとときの邂逅であったが、清涼感のある美しい仏像であった。

今度はどこか静かな所で、そうっと語り合おう。
また、いつか。




塩竈の 浦の松風 霞むなり 

2009-05-29 | Weblog

「姉さん、渋いっす」
ピンキーちゃんに、そう言われた。

宮城は塩竈の純米酒「浦霞」に、肴は「数の子わさび」。
わさび漬けに数の子が交じっている奴。

我ながら。
確かに「渋い」と思う(爆)。

わさび漬けは好きではない。単独では。
でも、日本酒を飲むときは、いいんだね。これが。

これぞ、ワインで言うところのマリアージュ(結婚)って奴か(爆)。

P.S.タイトルは源実朝の作。




Someday my prince will come…?

2009-05-28 | Weblog
先日、まもなく仕事で日本を離れるという友人H嬢と電話で話した。
別れの挨拶のつもりで電話をかけたのだが、その時共通の今日子ちゃんという友人の話になった。大学の時の友人で、3人家も近く、結構仲良くしていたのであるが、今日子ちゃんという人は実に風変わりな人であった。

私も割りとそうではあるのだが、興味があることには猪突猛進するが、そうでないことにはさっぱり。そのギャップが物凄い。しかも、熱しやすく冷めやすいこの私よりも長続きしない(笑)。

大学の頃、今日子ちゃんも含め数人でアジアの小国へ旅行をしようという話が出た。親が心配していたりする人もいるなか、どうにか皆で行くのなら、ということで承諾され、どの日程で行くかねなんて話をしようとしていた頃、今日子ちゃんが突然キャンセルをした。理由は「飛行機に乗るのが怖いから」と。

はぁっ?てな理由である。人数が減ったことで、結局親が同意してくれた人も、それじゃダメということになってうやむやになってご破算になってしまった。

ところが、である。
それから数週間も経たないうちに、今日子ちゃんは一人で、飛行機に乗って(!)NZへ語学留学へ行ってしまった(苦笑)。

はぁっ~~~??ってなもんである。

正直、呆れた。行き先に乗り気でないのなら、別の候補地を出してくれても良かったし、それで皆がOKする可能性だってあったのだ。だが、今日子ちゃんという人はひたすら「ノリ」の人なのである。

社会人になってからもそのノリであった。美容師さんに恋をして青山の美容院に毎週のように通ってみたり、それまで化粧っ気もなかったのに結構有名な化粧品メーカーに就職して「化粧品と言ったら〇〇堂でなきゃ!」と大言壮語するようになったり。見ていて確かに面白いと言えば、面白いけれど、コロコロと変わるそのポリシーのなさはなんだろうか、と思ってしまった。

その後、社内不倫をして仕事を辞める羽目になったりと、とかく話題には事欠かない人であった。イケイケの姉ちゃんなら分かるが、見た目はごく真面目な公務員の事務職っぽく風貌をしている。胸中にたぎる情熱の熱い人なのである。

私はすっかり疎遠になって、もはや連絡もしなくなってしまったが、H嬢は結構律儀なので未だ連絡を取り、日本を離れる前に会ったということである。ところが、そこでもうかなり昔の話だからと、H嬢が以前別の予定がある日に突然今日子ちゃんが自宅前に現れ、予定があると言っているのに、そこに同行していいか?と言ってついてきた話を笑い話にしたら、本人には「そんな記憶がない」と憤慨してしまい、後腐れの悪い別れになったという話を聞いた。

相変わらずだなーと(笑)
H嬢もえらいなと思うが、私だったら先に予定があって、出かけなければいけない所へ突然今日子ちゃんが現れたら、申し訳ないけど同行はお断りすると思う。今日子ちゃんは決して悪い人ではないし、ある意味一生懸命な人だけれど、視野が狭く、自分の都合だけで動くところがあるから、正直それにつきあっていられない。

つきあえる時はつきあえるけれど、「正直な意見を言って」と言うから正直に答えると、「ぽっちりちゃんは話を聞いてくれない」と憤慨する。まぁ、若い頃だから私もまだ聞き上手ではなかったとは思うが、自分の中で結論が出ているのを肯定してもらうためだけに人に話を聞かせるのは辞めて欲しいと思う。意見を聞く気がないのなら、最初から「話をただ聞いて」と言えば良い。それならば、そうする。真面目に付き合おうと思ったがゆえに、正直な感想を伝えたが、今日子ちゃんはそういうことを望んでいるのではないのだった。

そして。もう不惑の年も近いというのに。
今日子ちゃんは人一倍結婚願望が強いのに未だ結婚しておらず、その理由は「私、大統領と結婚したい」とか「ノーベル賞を取るような人でなきゃ」なんだそうである。

もしもし…?
思わずそれを笑って話すH嬢に「それ、本気なの?」と確認した。
本気らしい、です。

鏡見た方がいいんじゃないだろうか、と思うし。著名で能力のあるような人なら、当然集まってくる女も一流の女が集まってくるだろう、と思う。なんてゆーか。いい年して、その夢の見方はないもんだろう。

いや、ずっと夢を見ていたほうが、たぶんいいんだろうな。
今日子ちゃんの場合。

だって、面白いから。(←極悪)




歌丸~その後~

2009-05-28 | Arts
しつこいですね。
すみません。

「もうそれは恋だね」と友人に言われましたが、さもありなん(笑)。
寄席に行ってから興奮冷めやらず、youtubeなんかで歌丸さんの落語を見ている。
(ちなみにyoutubeってupできるのは10分前後がマックスなんですかね?一つの噺がけっこうブツ切りされてupされていて、「そこで切るなよ」と突っ込みつつ…)

彼がまだ3-40代頃の、すこし若い映像なんかも載っている。それを見ていて、気づいた。やっぱり芸事はそれなりの時の流れとともに成長するものであるなぁ、と。若い頃だって確かに上手いのだが、すこし今見知っている歌丸さんの「間」と違う。今の方が、断然、良いのだ。

羽織を脱ぐにしても、今は大抵、羽織紐を解いてから一度、両手で羽織紐をきゅっとなぞってピンと伸ばしてから脱いでいる。それが昔の映像では解いたまま、紐を直すことなく脱ぐ。ほんの一手間なのだが、これがあるのとないのとでは、見ていてこちらの「気持ちの良さ」が違うのである。

お茶にしても然り。昔は湯飲みを両手できちんと持って飲んでいる。今は、大抵片手で、すっと一口軽くすするだけ。

どうってことのない所作の数々なのだけれど、長年の経験で徐々に洗練されていった芸なのだなぁ、と。話し方も勿論ではあるが、こうした所作の一つひとつも。

齢70も過ぎて。75歳くらいだろうか?
「今が一番脂がのっている」という状態を維持できるというのは、幸運なことでもある。だが、運だけではなく、日々を精進して芸に邁進してきた賜物なのだなぁ、と。改めて。

謹んで、頭を垂れる。

桂歌丸 壷算1
壷算2
壷算3



愛しい男

2009-05-26 | Arts
愛しい男と、初夏の宵のデートを楽しんできた
などと書くと、何ごとかと思われるだろう。

落語である。
寄席である。

愛しの桂歌丸師匠の落語を聞きに行った。(歌丸さんを好きだというと、笑われたりするのだが~。なんだよ~、素敵だぞ~♪文句あるか~)
4chの「笑点」の司会でおなじみの歌丸さん。あの艶々と頭のてっぺんがきらめいた、ひょろっとした御仁である。それほど「笑点」をかじりついて見ていたわけではないのだが、(馬面の(笑))円楽師匠が司会をしていた頃から、歌丸さんのシニカルな答えが好きだった。円楽師匠が引退され跡の司会を歌丸さんが継いでしまったので、歌丸さんの回答がもう見れなくなってしまって残念に思っていた。

そんな折、TVでふいに歌丸さんが真面目に(笑)落語をやっているのを目にした。その佇まいといい、口調の小気味よさといい、あぁこの人は本当に良い噺家さんだなぁと感心しきり。それ以来、生で見たくて気にしていたら、ご病気で倒れるというハプニングもあり、これは急がないと死んじまう(←おい)とようやく念願かなった今回の寄席なのである。

下町の区民ホールでの寄席。
1300名ほど入るホールはほぼ満席か。年齢層はやはり高い。(笑)
平均年齢50代半ばのような感じ。私のような若い(?!)お嬢さんが一人で来ているのは珍しい。大体カップルか、家族連れ。気取りがなく、どこががさついた感じもあり、洗練されてはいないけれども、こういう気楽さが落語の持つ雰囲気なんだろうねぇ、と思う。演劇ともクラシックとも、ダンスの公演なんかとも違う空気感。開演まで、お囃子がてんてけてけてん、と流れている。下町ビート(笑)。

歌丸さんと春風亭小朝さんの二人会ということだったので、二人だけなのかしらん?と思っていたら、落語ってのはそういうもんじゃないのですね。それぞれの前座がちゃんといる。瀧川鯉斗さんという方が歌丸さんの前座だったのだが、申し訳ないが聞くに堪えない。一生懸命やっているのは分かるのだが、やはり上手い人と新人さんの違いというのは、声とか間とか、あらゆる所で出てしまうものである。マイクのせいもあるのかもしれないが、余りに声を張り上げすぎると、声がぼやけてよく聞き取れないのだ。私はもともと聴力が人の半分くらいしかないから、尚更聞こえないのだろうけれど。

だが、落語の客ってのはいいもんである。下手なんだけれども、結構笑っている。上手い人の前座で頑張ってやっていくことによって、芸人がちゃんと育っていくのだね。その過程を、落語の客というのは温かく見守っている。まぁ、年齢層が高いこともあるから、20代の男の子が一生懸命落語をやっているのを見ると、オバサマ方などは「かわいい♪」という目で見ている(笑)。ワタクシ個人としては、これに金は払いたくないぞと思うのだけれど、これが落語のあり方なんだなぁとある意味感心する。

さて、歌丸師匠。
いや、見事である。惚れ直します。生で拝見するのは初めてだが、TVより一層細く、頭ばっかりでかく、火星人みたいである。入って来たときあんまり元気がなくて、大丈夫かしら?とちょっと心配してしまったものだが、一度高座につけば、立派なもんである。

井戸の茶碗」というお話をやってくれたのだが、実に楽しかった♪歌丸さんの声の通りも好きであるし、話し方そのものも好きである。加えて、彼が話しながら時折、前に出されている湯のみ茶碗の蓋をそっと開け、すすっと綺麗な所作でお茶をすするのも好きである。その「すすっ」の音まで小気味良い。話している途中で暑くなって羽織を脱ぐこともあるが、羽織紐を片手で綺麗に解き、両手で一度袖をピンと張ってから、さっと一気に後ろに脱ぐ。お話の途中なのだから、客の注意がそっちにいってはいけない。あくまでも、自然な流れで。他の噺家さんだって、無論同じような所作でそうする。だが、ワタクシはなんといっても歌丸さんの所作が好きである。実に、美しい。茶道の手前を見ているような気持ちになる。

実際、今日だって話も楽しみにしていたのだが、お茶をすするのが見たいのと、羽織を脱ぐところが見たかったのである(笑)。嗚呼、期待通り。嬉しい♪(←どんだけフェチやねん?)あの細く綺麗な指で、湯飲みに手を伸ばす優雅さ。湯飲み茶碗になりたい♪(←ばか)

演目は知らなかったのだが、歌丸さんがやってくれたのが「井戸の茶碗」ということで、これは茶道の名器が絡む話である。偶然だけど。歌丸さんを見ていると、茶道の所作をつい思い浮かべてしまう。この人は茶道をやってもきっとお上手だろうなぁ。お話も可愛らしい、ふふふ♪と笑みがこぼれてしまうような話。

小朝さんの前座は林屋木久蔵さん。(お父さんの木久扇さんが笑点に出てますね。黄色い着物の人。まだ木久扇さんが木久蔵さんだった頃のサインが家にはなぜかある(笑)景品で当った(爆))

木久蔵さんも声はでかいけど、通りが悪く、まだだなぁという感じである。頑張ってはいるけれど。焦ると人は急いでしゃべっちゃうもんである。でも「間」って大事なんだよねぇ。それも客の呼吸を捕らえた「間」でないと。

さて、トリは小朝さん。離婚騒ぎで大変だったけれど、ねぇ、頑張ってますねぇ。小朝さんもお上手だが、彼の場合、とっても「モダン」という印象がある。演目は「牡丹燈籠」。いやね、最初知らなくてね。落語の演目なんて知らないものだから、聞いていたらどうもお化け話だし、なんだか「牡丹燈籠」に似ているなぁなんて思っていたのである。しっかり、牡丹燈籠でした(爆)。

ちょうどお札を剥がすまでの段のお話で。しかし、下男がお金を幽霊からもらって、新三郎の家のお札を剥がす手伝いをしちゃうって、ひどいなー(笑)。金で主人を売っている。死んじゃうのに。小朝さんは演技派なので、一人何役もの男女を、うまいこと演じ分けていた。幽霊のおつゆさんの駒下駄の「からん、ころん~」なんて音を、絶妙に声でエコーかけて演じていて、なかなかであった。

そうか、もう夏なんだなぁなどと、このお話を聞いて思わせられた。こうした季節の移ろいへの配慮が、いかにも和風で心地良い。

落語というのは、実に面白いものである。以前に一度落語好きな知人に連れられて行ったことがあり、その時は人情物でホロリとさせられた。それくらいから、ちょっと落語を見直したというところだろうか。落語のことはよく知らないから、今よりも前の噺家さんの芸は全く知らない。が、今のところ歌さんに惚れこんでいる♪この人はもともと横浜の置屋さんの息子であるから、幼少の頃から婀娜な姐さんたちを肌で知っているのだろう。なんとも艶っぽいその所作は、一朝一夕でできるものではない。歌さんの話芸、醸しだす雰囲気。好きですねぇ…。

そして、しみじみ思うにつけ、落語ってのは難しいものでもある。落語というのは、何も舞台にない。高座に座布団一つ。身一つ。小道具はせいぜいが扇子と手ぬぐい。これだけで、一人何役も演じ分けなければならない。特に動くわけでもないし、上半身だけで演じ分ける。扇子と手ぬぐいだけで、戸を叩いてみたり、蕎麦を食ってみたり。新人さんがやると、この舞台に広がりがなかなか出ない。演じ分ける「間」も微妙にまずかったりする。ところが、上手い人がこれをやると、ふわぁっとそこに空間の広い舞台が出来上がる。女将さんと手代だったり、お侍様とどこぞの姫様だったり、話によってそれぞれだけれども、ちゃんと映画を見ているかのように情景が眼前に映ってくる。見事なものだなぁと感心。この情景が立ち上ってこないようでは、やはりいっぱしの噺家とは言えないのだろうなぁ。

話の筋が仮に分かっていても。
上手い噺家さんなら、絶対に笑えるし、泣けるだろう。何度でも。

歌丸さんは、実に素敵な噺家さんだった。ご高齢だけれども出来る限り(無理はしないで欲しいけれど)高座に上がって欲しいし、そんな彼の姿を出来るだけ生で見たいものである。

落語ってのは、見事な芸事だね。
感服。




天を仰ぐ

2009-05-24 | Weblog

きみが、好きだ。
その名は「そらまめ」。

莢が天をつくようになることから、空豆という名前がついたのだそうだ。
またの名を蚕豆。お蚕さんも好きなので、二重に嬉しい。

初夏。
夏の香が薄っすらと漂ってくるころ。

ビール片手に、空豆を口に放り込む。
空豆ってのは、変に臭い。
なんとも言えない、(植物なのに)動物臭っぽい匂いがする(笑)。
子どもの頃はこの匂いが嫌いだったように記憶しているのだが、いいおばさんになった今ではこの「変な臭さ」が実に良い。

空豆、らぶ♪

海を飛ぶ夢

2009-05-23 | Films
2004年のスペイン/フランス・イタリア合作映画のMar Adentro(海を飛ぶ夢)という映画を見た。
主演のハビエル・バルデムが結構好きなので(好みです♪(笑))楽しみに見た。同時にかなりヘビーであることも、これまたなんとなくタイトルや映画の雰囲気から予想できたけれど…。

数多の映画賞を受賞している作品ではあるが、正直観た後の感想は、ま、悪くはないかな程度である。
はしょってしまうと、これは尊厳死を扱った作品である。

20代半ばで海で事故に合い、頚椎を損傷したために四肢が完全に麻痺してしまった実在のスペイン人男性の話を基につくられた映画。良き家族に恵まれ丁重に世話をされてはいるが、自分ひとりでは何もできず、ゆえに自殺することもできない。そのためにカトリック教徒の多いスペインで初めて「尊厳死」を求めて法的に闘った人である。(カトリックでは自殺は認められていないので、自殺した人間は宗教的に「救済」されない。おそらく社会的にも遺族たちの立場は厳しくなると考えられる)

登場人物たちの描き方のバランスも良いし、上手くまとめられている映画である。皆、芸達者揃いでもある。ハビエルの演技も申し分ない。壮年の特殊メイクも良い。
しかし、いまひとつ、胸に響いてこない。

四肢麻痺の重度障害者として、後30年近く寝たきりで生きることになる。彼にとっての「死」は「自由」であって、彼は「権利」として法廷で死を望む。四肢麻痺なので自分では自殺することも叶わず、誰かに助けてもらえばその人が自殺幇助の罪を負うことになってしまう。ジレンマである。尊厳死を支援するNGO団体の人々や弁護士などを交えての、彼らの人生模様が描かれている。

そもそも「事故」のことが良く分からない。それほどおバカではない人間と思われるのに、危険だと分かっている引き潮の時に、浅瀬に飛び込んで首の骨を折る。ほとんど既に「自殺」にも見えるのだが、そこで意識を失いかけた時に周りの人に助けられ、一命を取り留めてしまう。映画では、明確な自殺の意志があって飛び込んだのか、なにか発作的に漠然とそうしたことをしてしまったのかが不明なのだが、本当に自殺したいのならもっと確実な方法にすべきだろうとつい思ってしまう。

周りにいる人間としては事故と思えば助けもするし、一命を取り留めれば最善を尽くし介護もするだろう。というか、せざるを得ない。ラモンの兄嫁なぞは彼の「下の世話」まで日々している。兄は漁師であったかと思われるのに、弟のために海を離れ陸で農業を営み、甥はラモンの手となり足となり、世話をしている。愛情深い家族である。辛いことも多いだろうにその苦悶の声を飲み下して日々家族は生活している。無論そのことも、ラモンにとっては負担である。介護してもらい、迷惑をかけなければ生きていけない。自分自身が幸福でいられないし、迷惑をかけたくもないから、尊厳死を望んでいる。

だが、ラモンは自分は尊厳死で楽になれるから良いとして、遺族がどういう立場に立たされるのか考えたのだろうかとつい疑問に思ってしまう。実際、彼が尊厳死を求める活動を行なっている間、家族はメディアなどで「家族の愛情が足りないからだ」と叩かれる。日々、24時間介護をしなければならない状況というのは、介護をした者でなければ分からないだろう。される方もつらいが、する方も肉体的にも精神的にも、辛い。偶然の事故とは映画を観ている限りでは思われず、自ら招いた結果にも思える。が、家族は選択の余地なく介護をしている。「死ぬなんて冗談じゃない」と怒る兄の気持ちも分からないでもない。

ラモンは尊厳死を勝ち取るために協力してくれた弁護士の女性に恋心を抱く。弁護士のフリアもまた不治の病に侵され体の自由がいずれ利かなくなり、認知障害も出てしまう運命にある。それゆえ彼女はラモンが尊厳死を望む気持ちが分かるし、彼女自身も死を選ぶことを望んでいる。彼女は既婚だが、次第に精神的にラモンを愛するようになる。ベッドの上に置かれたフリアの手。ラモンからほんの数十センチしか離れていない。けれどもラモンにはその距離が「永遠」ほど遠い。決して自力で彼女に触れることはできない。その距離を決して縮められないことが、彼が死を望む理由である。

確かに。自力では触れられない。
だが、ラモンは口はきける。「触れてくれ」と少なくとも意思表示することはできる。相手にその気持ちがあれば、触れてもらうことはできる。それを肌で「感じる」ことは麻痺しているのでできないが、相手が自分の意思で触れてくれているということは、視覚で確認できる。無論自分から触れたい。触れたいだろう。ましてや、男だ。それもスペインの。

だが、目的が「触れる」ということであるのであれば、主体が誰であろうと、必ずしも全く叶わないというわけではない。可能性は残されている。現実として体が動かないのであれば、残された方法から目的を果たすという選択も可能なのではないのか?愛するフリアから触れられたという事実は、彼の内に何も呼び起こさないのだろうか。たとえばそのことは、彼に生きる喜びを与える力にはならないのだろうか。

どうしても死にたい、というなら、個人的には私はそれも良しだと考える。尊厳死があっても良いと思う。だが、遺族の立場から見れば、それは実に耐え難い、あまりに「堪らない」選択でもある。最善を尽くして、尽くして、それでも尚、死にたいと言われ、愛する家族が死を選んでしまう。遺族は生きている間、決してそのことを忘れることはできないだろうし、一生死ぬまで暗い影を背負っていくだろう。やりきれない。

本当に偶然の事故で、障害を負ってしまった人間ならばいざ知らず、半ば自殺しようとして失敗した男の半生につきあって、家族の面々は30年近く彼等自身、大変に不自由な生活を強いられている。単純にラモンが自殺すれば彼らが「楽になれる」という類の話ではないだろうと思う。

確かにラモンにとっての死は自由に生きる権利のひとつである。自己の幸せを最優先に望むのであれば、彼は死ぬことによってのみ、幸福になれる。OK。だが、映画で理解できないのは、彼は自分が死にたい理由は声高に主張するけれども、遺される家族に対しての配慮、遺される彼らのことを思った上で「尊厳死」を望むか否かということへの葛藤などが一切描かれていない点である。これがないから、どうにもラモンに共感ができない。主張がぶれないことは良いが、自分のことしか徹頭徹尾考えていないように映る。迷惑をかけたくないとは言っているが、彼が死を選ぶことだって充分に家族に「迷惑」を当然かけるということを彼が把握していることが示されていない。

弁護士のフリアも理解できない。一緒に死ぬことを約束し、精神的にラモンと愛し合っているはずなのに、いざ実行する段となると怖くなって尻込みする。それは、分かる。当然だろう。だが、彼女からの提案で自分が死ぬ前にラモンの自殺を幇助するという約束をしたのに、それを反故にするうえ、その断りのために彼の元へ足を向けることすらしない。これは、理解しがたい。礼儀に反する。深い愛で結ばれていたのなら尚更、彼女は面と向かって「やはり私にはできない」と断りに行くべきである。後で泣くシーンが挿入されているが、泣き崩れる彼女を支えるのは夫である。このアマ、と思わずにはいられない。できないなら最初から「やる」なんて言うな。

答えなんて、当然あるはずもない映画である。
ネタ的に物議を醸し続けるだろう。

よく構成された映画だとは思うが、特別感動はなかった。
この映画を観て、何を思ったらいいのかも分からない。
なんというか、すべてが「きれいごと」すぎるように感ぜられてしまうのだ。
もっと、もっと泥沼だろう。
その泥臭さが、この映画には足りない。

死にたいという人は死なせてやったらよかろうとは思う。それがその人の選んだ幸せの形であるならば。
そのことで罪の意識を残された者が感じる必要もない。(無理に違いないが)

基本的に生物は、生きる意志が強いものが生き残ればいい。
死にたいというものを無理に生かしても、誰も幸せにはなれない。
けれども、死を選ぶものはその選択によって、かなり高い確率で、自らが絶望した人生に匹敵するほど、遺された人々の人生を「台無し」にする覚悟もしなければならない。個人の「権利」というものは、拡大すれば当然衝突する。彼の尊厳死への権利は、家族の今後人として平和に生活を送る権利を侵害して、初めて成り立つのである。それをラモンが理解した上でそれでもなおと望むなら、そうすればよいと私は思う。その覚悟が、この映画の描き方からでは、見受けられない。

私はこの映画を観て、自らが絶望したその人生の重荷を、他者に転嫁して自分だけ楽になろうとするのかという疑問が残った。尊厳死を権利として、正当なものとして望むのであれば、ラモンはなぜ家族全員が快く見送ってくれるよう説得しないのか。そしてせめてもの今までの御礼として、彼の死を看取る機会を家族に与えないのか。「権利」だから尊厳死を望む彼の主張は分かるが、それまで自分達の人生を犠牲にしてまで、丁重に介護してくれていた家族に対しての配慮がおきざりにされてしまっている気がした。

アートだチン♪

2009-05-22 | Weblog
ゆ、ゆるいです…。
というか。ゆるいを通り抜けて、「脱力」した(笑)。

某TV番組をちらっと見ていたら、東京23区の各々のPRキャラとでもいうのであろうか。そういった類のキャラの紹介がされていた。たまたま放映されていたのが足立区の「アダチン」。愛玩犬の狆(ちん)らしい。なぜ足立区と狆の関連があるのか、よく分からないけど…。

アダチンのテーマ

得意なものは「アート」らしい。
芸術以外は「わからんチン!」と豪語している。

うーん(苦笑)。
頑張っているなぁ…。

アダチン。(笑)
『いろんな意味』で、凄いレベルだと思う(爆)。


P.S. 間違ってもアダチングッズは、要りません。(←宣言)






それなり

2009-05-22 | Weblog
結果としては、それなり、ということである。

最近ちょっと話題になっていた海外の安い通販洋品店で、試しに服を買ってみた。
一般的に日本で安いとされている店の値段から思っても、かなり安い。
その中で買ったものも、かなり安いお値段のものばかりである。一番安いものの品質を見れば、大体全体の質が分かる(笑)。

誤って、同じ色の同じ型のシャツを二枚も申し込んでしまうというヘマまでやった(笑)。注文した後、あ、二枚もいらないだろー、と思ったのだが、急遽枚数を変更できる手段が記されていなかったし、わざわざ電話連絡して変更するのも面倒くさく、ま、あっても困りはしないだろーくらいのものだったので、そのまま購入。

感想としては、ま、思った通り、値段相応だね、ということでありんす。
通常、通販ではそれぞれの衣類をビニール袋などに個別に入れて、綺麗な状態で送ってくれるのであるが、ここは、T-シャツ類は十把ひとからげに、薄い紙で包んだのみである。物によっては個別の袋に入っているものもあるようだが、基準が分かりません(笑)。T-シャツであるとは言っても、送ってきた状態で皺くちゃになっているので(笑)、ん~。これをそのまま着れるのかねぇ、という感じではある。縫製も当然、値段なりのかなり大ざっぱな縫製である。(まぁ、それは覚悟はしていたが)生地もまぁ、透けるように薄い。まぁ、夏場だから、かえって涼しくていいのかも分からんが。

徹底的にコストを削減しているんだなぁと分かる。
送ってくる袋にはもともと緩衝材の「プチプチ」が内臓されているので、さほど大量でなければ箱は必要なく、ビニール袋一つで数点は送れる。なるほどなぁ。

基本的に外国向けのデザインなので、実はワタクシは割とデザイン的に好きなものもあるのだが、如何せんやはり値段なりの代物であった。
ま、「一夏もの」と覚悟するならば、宜しいか。

着そうもないワンピースなんて、買っちまったよ。(白地に赤い花柄だってよ)
こういうのを、魔が差したというんだろうな(笑)。
たぶん、ワンピースとしては、着れない(丈が短すぎる!→当然チュニク扱い)

でも、すこし晴れやかな気分になれた(笑)。
まるで女の子みたい♪(←…?)


落胆

2009-05-17 | Weblog

嗚呼。
映画館へ足を運ぶこともなくなって、幾久しい。理由は簡単。値段が高いから。
ちょっと見てみようか?という気持ちで足を運べなくなった。

どうしても。今、見たい。
そして確実に「外さない」と確信できるものでなければ2000円も払いたくない。

ちらっと映画館のサイトを覗いていたら、愕然としてしまった。
日比谷にあったシャンテ・シネがTOHO系に変わっていた。

がーん。

TOHO系の映画なんて、どこのシネコンでも見れるものばかり。
チョイスも面白くない。
ワタクシは完全にミニシアター系を好む人間なので、「話題の超大作」とかにはまず食指が動かない。そんな中でも、シャンテ・シネのチョイスには、一目を置いていたのだ。映画を調べないでふいに足を運んでも、なにかしら見たい気になる映画が上映されている数少ない良き映画館だったのに…。後にできた向かい側の渋い珈琲屋も気に入っていた。

高校生の頃は、学校帰りに寄ったり(という距離ではないが)したのだ。ここで確か「ベルリン天使の詩」を見た。席が埋まっていて通路に座って見た。さほど面白いとは思わなかった。当時の私には、よく理解ができなかった。数々の映画をここで見たのに。あー。シャンテ・シネはなくなってしまったのか。建物はそのままでも。TOHO系の映画を上映するのでは、全く意味がない。

時代ってやつか。
映画は右肩下がりの産業だものね、今や。
だが、悲しい。

小さくても温かく、本当に上質な映画を選び、そうっと手のひらで慈しむように上映していた映画館であった。
数々の思い出をありがとう。


君の歌声は、消えた。



同じ三時間でも・・・

2009-05-17 | Films
こちらは駄作でした。
ダ・ビンチ・コード。
一時話題になっていたし、TVでやっていたので、見てみたのですが。

うーむ。

三時間もかけなくても、というような内容と展開。

大体キリスト教関連の謎物とかもう使い果たされたような内容であるし、キリスト教や世界史の背景がない人は、見てもサッパリ分からんだろう。これだったらショーン・コネリーの出ている「薔薇の名前」とかの方が、趣があって良かったと思うぞ。原作はひょっとしたら面白いのかもしれないが、映画化している限りは、映画単独で観客を納得させるだけの内容が必要。

結末もお粗末だなぁ。
っていうか、お宝の「聖杯」自体にワタクシ興味がないし、別にどうでもいいよとか思っちゃっているあたりで、そもそも情熱が足りない。秘密結社とかそういうノリも聞き飽きましたねぇ。

3時間、実に退屈でした。
展開もほとんど読めたし、ほぼ結末も途中から読めてしまったし。

これで三時間ならば、絶対ゴッドファーザーの方がお薦めだわ。

ダビンチは意味のない三時間。
ゴッドファーザーは意味のある三時間。

時間を無駄にしてしまいました。るるる。



The Godfather

2009-05-17 | Films
あんた、今更何言ってくれちゃってるの?という話ではある。
が。
ががが。

今更ながら、Godfather PartIを見た。
(イタリアの香水の話なんかしたので、イタリアモードになっちゃったんでしょうねぇ、ワタクシ(笑))

長いね。長いよ。
一本で通常の二本分の長さの映画だもの。

いやー。
見事である。
お見事。

勿論名前は知っていたのだが、なにしろ連作物の映画というのが余り好きじゃない。だって、大体続ければ続けるほど、ダメになっていくだろう(笑)次作を念頭においての映画の作り方というのも、嫌いだ。そういう「逃げ場」を製作側が最初から作っている時点で、一作品としての集中度が格段に下がってしまう。もともと連作でないと描けないという構想があるのなら別である。だが、とってつけたようにパートIIとか作っちゃうのは、いただけない。

イタリアン・マフィアの話というのは知っていたが、まー、ドンパチものだろうと高を括って今まで見ることをしなかった。PartII PartIIIの出来は知らないのだが、たぶんこの最初の作品の出来が一番いいのじゃないだろうかという気がする。(あといくら撮っても、似たようなもんだろ)

イタリア系アメリカ人のマフィアファミリーの三男に生れたアル・パチーノの演ずるマイケルが、父が抗争で撃たれ病身になり、あとを継ぐ形になった長兄も抗争で失い、堅気の道を捨てていっぱしのコルレオーネ家のドンになっていくまでの姿を描いた作品である。この当時、アル・パチーノはデビューして数年で、それほどの名声も得ていなかっただろうが、まぁ、彼の演じるマイケルは素晴らしい。彼のためにあるような役ですなぁ。

物静かな堅気の軍人上がりの青年から、少しずつ「ファミリー」のためにドンとなることを自覚して、目つき、振る舞いまで洗練されたものに変わっていくその存在感の凄さ。小柄な彼であるのに、映画が進むにつれ、「ドン」の顔に変貌していく。なんと言ってもその「目の光」が堪らない。冷徹でありながら、すべてはファミリーのため。

ワタクシはかなり年をとったアル・パチーノしか知らなかったのだが、この若いアル・パチーノは、マフィア街道をつっぱしていく若鮎のような清々しさ、シャープな力強さに満ち溢れている。たまらんねぇ、このアル・パチーノは。

また、父親役のマーロン・ブロンドがこれまた良い。「人」としての温もり、長としての家族への深い愛情、も描き出しながら、敵にたいしての冷酷さ、厳格さ。いい味出してますなぁ。病身になって半引退のような形になってからのブロンドが、実に良い。この父親像がなければ、若鮎のようなマイケルの勢いや若々しい美しさが際立たない。

「ドン」となることを覚悟したマイケルと父親が二人で庭で話すシーンが良い。
「お前だけは堅気にしたかった。いつだって操られる側にいた私だが、お前には『操る側』になって欲しかった。議員や、知事に…」
父親としての深い愛情が感じられ、また、人間の悲哀が浮き彫りにされるシーンである。自分の人生を後悔しているわけではないが、お気に入りの息子には、真っ当な道で権力を握って欲しかった、と。そうしたセンチメンタルな気持ちがある反面、次の瞬間には切り替えて「ドン」としての哲学を教えるそのシビアさ。この時の父の助言が、後々マイケルの命を救うことにもなる。

孫と家庭菜園で遊ぶブロンドのシーン。このシーンが始まった時点で、私は、あぁ、ブロンドが死ぬなと分かってしまった。とても幸せな、長閑なシーンなのだ。かわいらしい孫がトマトに水を撒いている。おじいちゃんと追いかけっこをして遊ぶ。暑い、夏の陽射しの中で、ブロンドが倒れてゆく。幼い孫にはそれが分からない。鬼役のおじいちゃんがふざけて倒れた真似をしているのだと思って、しばらく遊ぼうとする。たまんないね。泣きました。だって、もう、死ぬのはこのシーンの初めに既に知っていたんだもの(笑)。泣いたのは、哀しいというよりも、幸せに思えたからだろう。マフィアのドンとして生きながら、最後に孫と遊びながら死んでいく。望みうる限り、最高の死に方だろう。天晴、ブロンド。

そして、エンディングシーン。これもまた、いい。
マイケルが敵をほぼ全滅させた後、「それらの殺人を指示したのはあなたなのか?」と妻に詰め寄られる。マイケルの気持ちを思えば、「それを問うな」と妻に声をかけたくなる。少なくとも今の彼に、それを問うてくれるな、と。また、妻の立場としては、愛する人を信じたいという真っ直ぐな思いから出た言葉なのだ。これを聞かずにはおれない。苛立ったマイケルは、それでも「生涯で一度だけ。一度だけだ。私の『ビジネス』について質問を許そう」と妻に言い、やはり妻は「それは本当なの?」と問い返す。

さぁ、なんと答えるのか。

実に、見事な「答え」です。
うっわぁ、こんちきしょうと思いました(笑)。
このアル・パチーノには。

私が妻だったら、地獄の果てまでこの男と歩みますね(笑)。

最後の彼女の表情といい、カメラワークといい、絶妙。




Fiori de Capri

2009-05-14 | Weblog
先日、イタリアの白ワインの話をした時に、イタリアは「青の洞窟」(パスタでありますね、そんな名前の。抜けるような、透明感のあるブルーの海色。これは光の屈折の加減でそう見えるのですが)で有名なカプリ島の香水店の話をした。

ちょっと気になったので調べてみたら、意外に簡単に見つかった。
Carthusia(カルトゥージア)という香水店である。(リンクは日本の代理店だけど)

10年近く前の話なので、自分がどの香水を買ったのか覚えていないのだけれど、たぶんFiori de Capriでなかったか、と。なんというか、名前からワタクシが買いそうな(笑)。おそらくイタリア語で「カプリの花」というような意味であるかと思う。(イタリア語できないけど、勘で)

日本で買うと高いねー?ちょっとたまげた。
現地で買ったときは、ここまで高くなかったと思う。たぶん4-5000円で30mlくらいは買えたんじゃないかと。なんたってワタクシが買えたんだから。(笑)

本物の、花の香なんです。
ワタクシは香水はなかなか合うものがなくて、それほど常につけているわけでもないけれど、余りにキツイ匂いはダメなの。けれどもCarthusiaの香水は、とても「自然」な花の香なのである。けど、この値段ではちょっと「試しに」と買える値段ではないし、もっとお手頃なものでもいくらも良い香水があると思うので、敢えて今買うことはお薦めしない。

ただ、もし、イタリア南部に行って、(ことにカプリ島は新婚旅行などには良いところである。高級ブティックが揃ってハイソな感じがあるが、ロマンティックでのんびりしたリゾート地で、もしスキューバなんかをやるなら、たぶん素晴らしい場所なんじゃないかしら?ブーゲンビリアがとにかく鮮やかに目に映る)カプリ島による機会があったら、特に女性には是非このカルトゥージア香水店に立ち寄ることをお勧めする。(っていうか、日本人ならたぶん「絶対に」立ち寄る(笑)当時でも既に日本人客は多いと見えて、日本語の説明リーフレットまで用意されていた)

ここの香水は2002年頃までカプリ島から門外不出だったそうである。
ワタクシがイタリアに行ったのは、たぶんそれより前だったろうなぁ。

カプリ辺りでは「レモンチェッロ」というレモンのリキュールも有名。
アルコール度は結構高いのだが、とにかく甘い。サイダーなんかで割ったらいいのかも。カプリ島はレモンの産地なので、とても大振りで健やかなレモンが育っているのである。

もし、どこかこの夏、海外旅行をご検討中でしたら。
カプリ島なんかもお勧めです。
(お金持ちに限る。そして「青の洞窟」では必ずボラれるけど(笑))



前のめり

2009-05-13 | Weblog
ふと鳥繋がりで気になって、調べてみた。
近所に小鳥がいる。

そう言うと、まぁ、随分と「大ざっぱ」過ぎるか。ちょっと気になる鳥がいる。
雀をちょっと大きくしたくらいの大きさで、背が黒く、腹は白目。尻尾が長い。その長い尻尾がピコンピコンと上下しながら、「とててて」という感じで歩く。

なぜこの鳥が気になるか。
道を歩いていると、時折この鳥がワタクシの前にやってきて、止まる。まぁ、生きて歩いていれば、道端で鳥に出会うこと自体なんてことはない。そんなことも、あるだろう。だが、この鳥は「人生、前のめり」なのである。

私の数メートル先に鳥がいるとする。
私は歩く。
当然距離が縮まる。なので、鳥は前へ逃げる。数メートル。

私は更に歩く。(なんたってそちらへ向かっているのだから仕方がない)
鳥は前へ逃げる。数メートル。

とまあ、これの繰りかえしなわけである。
思わず「アキレスと亀」かよ、と突っ込みたくなる。
私はそちらへ進むのだから、お前は飛べるんだし、怖いならどうして私を飛び越して、いっそ後ろへ逃げないのだろうかと思ってしまうのだ。その方が安心して、しばらく餌を探したりできそうなものなのに。

必ず、前へ。数メートル、なのだ(笑)。

そんなわけなので、こやつの名前はなんだろうかね?と思ってヤマアラシに聞いてみたら、尻尾がピコンピコンの描写によって、
「それはセキレイじゃないか?」とのことだった。

セキレイ(鶺鴒)って漢字が難しいので、なんだかもっと綺麗な高尚な鳥を思い描いていた(笑)。こんな道端にいるものなんだ。割と水辺にいる印象があったのだが、調べてみると実際セキレイは水辺にいる鳥らしいので、おそらくそうじゃないかと思う。見たのはハクセキレイの♂の夏毛の奴かのぅ?

星飛馬のごとく。(←古いな)
人生、前のめりな鳥(笑)。
セキレイ。

分かってすっきり。
また会ったら、「アキレスと亀ごっこ」をしような(笑)。