Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

夏、開幕。

2006-07-31 | Weblog
また宅急便が届いた。父が受け取ってくれて「Hさんって知ってる?」と言うので、「知ってるよ。」と答える。寝ているベッドの脇に小さな小包が置かれた。H嬢は今、イギリスで勉強している。私と同じ大学、同じ寮、学科は別だけど。もうすぐ修士論文の締め切りがくるはずなので、彼女も大変な時だろうに、よく忘れずにいてくれるなぁと感心する。嬉し、悲しの誕生日なのだ、明日は。でもまぁ、もはや、嬉しい<悲しい、だろうなぁ(苦笑)

彼女が勉強の合間に聞いているというCDを贈ってくれた。こういう時ネットショッピングって便利だよなぁと思う。クレジットカードさえあれば、海外にいても日本へ配送ができる。海外から送ると送料がばかにならないので、これはなかなかありがたいシステムなのである。

InstrumentalのPiano Ballads。彼女はピアノをやる人なので、音楽に造詣が深い。私は音楽の方はからきしだから、よく分からないのだけど(笑)、聞いてみたらなるほどなーという感じだった。癒し系。

丁度バイトで翻訳を来月末までに一本仕上げなくてはいけないので、これを聞きながら少し頑張るかと思う。

関東の梅雨も明けた。久しぶりに青空が続いているのに、外に出られないのは残念だが、部屋の中を心地良い風が通り過ぎていく。
ベランダにはためく洗濯物。
向かいの団地の階段を、少年野球の赤いユニフォームを来た少年が上がっていく。

本格的な暑い夏が、やってくる。

一生、眠っとけ!

2006-07-31 | Weblog
山本文緒の「眠れるラプンツェル」を読む。友人がくれると言うのでもらったのだが、正直作家名を聞いた時点で、んにやぁ~、という気分だった。以前自分で彼女の「プラナリア」を買ったことがある。基本的に私は女性作家のものは余り読まない。別に女性だから嫌っているというわけではないのだが、総じて読後感に今一つの物足りなさを感じることが多いからだ。向田邦子は別。川上弘美も作品によって当たりはずれがあるけれど、大筋好きだ。でも、考えてみると、二人とも余り「女臭さ」のない作家であるような気がする。

プラナリアを買ったのは、私がプラナリアという生物をこよなく愛しているからだ(笑)。扁形動物。怖ろしいほどの生命力を持つ小さな生き物。生物の時間に習って以来、とんでもなく私はこの生物のファンだったので正直この作品を本屋で見つけた時は悔しい、取られた、という気持ちがしたものだった。しかも話が事の他つまらないのだから、尚更腹立たしいではないか。こんなしょうもない作品にプラナリアを使うな。

二作読んだだけでこう結論付けるのもどうかと思うが、とりあえずこれ以上彼女に私は印税をあげたくはないと思う(笑)。読めない文章を書く作家ではない。むしろさらさらと、重みのない文章を書くので読みやすい。何しろ貰ったその日に読み終えてしまったくらいだから。

だが、何と言うのか、山本氏の書く物語の主人公というのは「腑抜け」が多い。現代の世相を反映しているということでは、時代を捉えている作家なのかもしれない。私は読んだ限りにおいては、共感できる女主人公が一人もいない。むしろ、不愉快で絶対に知り合いになりたくないタイプの女ばかりである。

作中の主人公はいきなり普段家に帰ることもない夫が連れ帰ってきた猫をおしつけられる。猫なんて欲しくないのに、そう思いながら仕方なしにペットフードや関連用品を買いに行く。それが重いと言って今度は夫のことを恨めしく思ったりする。嫌なら、最初から断ればいいではないか。

近所づきあいにしてもそうだ。周りの主婦をうざったいと思いながら、どちらつかずの対応をするから、色々と面倒なことを押し付けられたりする。何よりも許しがたかったのは、精神的に行き詰って(猫を飼ってはいけないと言われていたマンションで猫を飼っていたことがバレ)猫を八階のベランダから突き落とすことである。(どうやったらそういう発想が出るんだよ?貴様。)

あとで我に返って、ごめんね、許してね(幸い猫は酷い怪我もなく助かった)と主人公は言う。あほか、己は。飛び降りるなら、てめぇが飛び降りろと思う。

鬱でもなんでもいい。そういう症状になることはある。やりたいことも見つからなくて、無気力でいることもある。私だって人の事は言えないからそれくらいは分かる。が、どうしてこの人の作品にでてくる女たちは、そういうこと全てをいつも誰か周りのせいにするんだろうか?自分が選んでそうしていることであるのに。

この作品をくれた友人のことを思った。彼女はきっと「すごい分かる」とか思ってこの作品を読んでいたのだろうか。随分と幸せだなと思う。落とされる猫の身になってみろよ。猫こそ選んでそこにいるのじゃないんだから。何の責任もないじゃないか。

だ~めだ~。山本文緒はもう勘弁してもらいたい。不愉快なだけだし、読んだ後得るものも、何もない。

基本的に女性作家の恋愛系ゾーンなどには、全く縁がない。今更人様の恋愛話を読まなくても、現実でうんざりするような思いはたくさんしているんだから(苦笑)。

山本文緒さん、もそっと中身のある話、書いてください。私の時間が勿体無い(笑)。
大体、何が「ラプンツェル」だよ、いい年の大人が(笑)。


木馬の騎手

2006-07-31 | Weblog

古本屋で150円で買った本を読む。全く知らない作家だったが、本のタイトルに魅かれて購入した。三浦哲郎の「木馬の騎手」という本だ。

お買い得であったと思う。手放しに良い書き手だと思う。読み終わってからネットで少し彼のことを調べたら、どうやら彼は青森の出身であるということが分かった。作品の所々に東北の方言が出てくる。私は方言がとても好きである。同じ内容の事を言うのでも、その土地に生まれた人が方言を使って表現した場合、最も表したいことに「近い」気がするからだ。

彼が方言を使うことによって、作品に深みと円やかさが出る。(←酒かよ(笑))こんな良い作家を今まで知らないでいたのだなぁと思う。ここの所、何しろ読む作品が明治~昭和初期ぐらいのものが多かったので、友人には「随分と厭世的ですね」と言われたがそうなんだろうか?

私は一昔前の、着物が日常着として描かれる風景がこの上なく好きなのだ。厭世的だろうがなんだろうが、好きなもんは好きなんだから仕方がない(笑)。現代の話を読んでも、なぜだか全く色気を感じないのだ。多分そこにはほとんど想像の余地が残っていないからなのだろう。

現代の生活の匂いというものは、おおよそ推察が利く。だから、ちょっとつまらない。それが一昔前になると、分かっているようで実は分かっていない。知らないことがたくさんある。家の造りにしろ、着物の肌触りにしろ、生活スタイルにしろ、どこか「きっとこういうことなんだろうなぁ」と頭の中で思い描くことしかできない。それがかえって私の場合、五感を冴えさせ、よりvividに作品の世界を感じることができるようになるのかもしれなかった。

三浦氏の作品は短編集である。子供たちの目線を通じて描かれた世界。確かに子供の視点だから大人とは見えているものが違う。けれども視点は低くても、彼らなりにしっかりと世界を捉えている。私は短編が上手い作家というのをとても尊敬している。短編が書ければ、長編も書く事は可能なのではないかと思っている。それぞれ良さはあるけれど、短編小説というのは実は非常に難しい。非常に、非常に、難しいと思う。短いページ数で、必要な場面を作り、盛り上がりを作り、そして余韻まで残さねばならない。

三浦氏の今回の作品は、子供を主人公とすることによって、大人の私達には実際はどんなことが起こっているのかということが行間から分かる。子供たちは大人の世界が分からず、それでも目の前に広がる光景を一心に眺めているのだけれど、読んでいる私には子供を取り巻く大人の世界までがきちんと読み取れる。そこになんともいえない悲哀が残る。

時に子供たちの過去であったり、未来であったりが垣間見え、これから子供たちが向き合っていかなければならない世界が見えてしまう。作中の大人たちの台詞からもまた、大人ならではの悲哀が読み取れる。

実に上質な短編集。
内容的には切ない作品が多い。しんとした夜の闇のような静謐さを持つ。それでいて寒いばかりかというとそんなことはなく、時折星明りが瞬くような穏やかさを感じさせる。

物語を書くということは、こういうことなのだと思わせられた作家だった。


優しくない私

2006-07-30 | Weblog
「ぽっちりは、優しいね。」友人が電話の向こうで静かに言った。まるで違う。そう言ってくれるあなたの優しさの方が私には痛い。私は少しも優しくはない。

優しいのであれば、わざわざ電話して今日会って来た別の女友達の愚痴など言いはしないだろう。そっと自分だけの胸に秘めておく事もできるはずだ。優しいのならば、自分は今日会った友人にその場で自分はそうは思わない、それはおかしいんじゃないか、とはっきり伝えることもできたはずだ。でも、私はそうはしなかった。私は、さも彼女の事を理解しているような素振りをして、ふんふんと話を聞きながら、いいかげん大人になれよ、他に話すことはないのか?そう思って内心イライラしていたのだった。


遅めのランチを女友達と食べていた。彼女と話をしていても、少しも楽しくはなかった。彼女の知っていることも多いだろうが、それは大抵私が興味を持つことではない。楽しいと思えない相手に時間を費やすことは正直かなり苦痛である。ここのところ彼女はいつも同じ内容の話を繰り返すので、少々閉口している。

彼女の話を聞きながら、なぜこの人はこうも頑なな狭まった物の見方をするのだろうと思っていた。何かのテーマについて話しても、ことごとく共通項が見出せない。私にとっては「さほど重要でない、どうでもいいようなこと」に彼女は非常に固執して自ら世界を狭めてしまうように見える。些細なことに捉われ過ぎて、もっと本質の大切なことの方を見落としてしまうのではないか。せっかくチャンスは目の前にあるのに。別の見方もしようとすればできるのに。それができたら随分と自分が楽になるのだろうのに。

そして、自分の世界に留まっているのは自分自身の選択に他ならないのに、自分が狭い世界に留まっている苦しみから逃れられないのを、いつも自分ではない別の誰かのせいにしているように思える。胸糞悪い。自分で選んでそうしているのなら、それに納得しろよと思う。それが嫌なら、まず自分が変われよ。周りがどうこうしてくれない、自分は精神的な病を抱えるだけの理由があって不幸不幸で他人にはどうにもできないのだ、と泣き言を吐く前に。

あなたは好きで不幸な状態でいるんだから、それ自体は別に不幸なことでもなんでもない。あなたは、ただ自分が不幸であると思うことが好きなだけなんだ、ということを認めて欲しい。

彼女は確かに恵まれてはいない幼年時代を送っていたようで、自分の過去を汚点とし、自分のせいで周りの人も不幸にしたのだと信じている。しかし、自分の影響力をそこまで過大評価しないで欲しいと思う。皆、自己防衛はする。皆ある程度は付き合ってくれたかもしれないが、それ以上はダメだと思って一線を引いているだろう。私だってその一人だ。だからこそ、いつまでも同じ場所を巡り巡っているのではないか。いくら相手を変えても同じだよ。

それに人は多かれ少なかれ、皆それぞれの重荷を背負っている。笑っている人に悩みがないわけがないではないか。皆重荷を背負いながらも、それでも笑おうとしている。自分の不幸だけが、世界で一番重い不幸だなどと思って欲しくない。彼女の悩みが辛くないと思っているのではない。けれども、正直私から見れば彼女はただ周りに甘えているだけに見える。甘えられる相手がいることは、実は結構幸せなことだ。

きっと彼女は既に分かっている。分かっているのに、自分を変えないのだ。なぜならそんな自分が彼女は誰よりも好きだからだ。自分を変えられるのは、自分だけだ。それほど他人に受けいれられることを切望しているのならば、まず自分が懐を開いて相手を受け入れる必要があるということが、なぜ分からないのだろう。それが分かっていてできないのなら、仕方ない。今の状態を受容するしかないではないか。

3時間。私は反対意見を述べたくなる気持ちを抑えながら、彼女の相手をした。何しろそれもあと一ヶ月の辛抱で(笑)、後は彼女は別の人を探さねばならない。今私にできる事は、しかもこちらも体調が万全なわけではないから、ただ付き合って聞く、それが精一杯なのだ。それ以上のことは、できない。

けれども「私」が聞いている、という事実が、彼女にはなんの変化ももたらさないということはとても哀しい事だ。私の愛情が垂れ流されている気にもなる。それでも、今の私にはそれしかできないから、そうしている。彼女の気持ちが分からないわけでもないので、話すことで少しでも楽になるのならばいいとは思う。けれども実際はどうなんだろうか。

彼女が他人の意見に耳を貸すような余裕のある人ならば、おそらく私は彼女の意見に同意しないということを伝えたろう。しかし、彼女は実は何も聞いていない。誰に話しても同じだし、聞いてくれるなら壁に話したっていいのだ。だから私は本当の私を敢えて伝えない。異なる意見を言えば、多分自分を否定されたとしか受け取らないだろう。

電話口で友人が言ったような「優しさ」は私には、ない。プロでもないので、彼女を導くことも適切なアドバイスを与えることもできない。ただ、観察するだけだ。水鏡でも覗き込むように。良い方向に行けばよいがとは思うが、たとえ悪い方向に行ったとしても、私にはどうすることもできない。私にできる事はここまでだ。彼女のような振る舞いに自分がならないようにとの戒めも込めて、半ば諦めて残りの時間を見守るだけだ。少なくとも知り合いになった以上、彼女を見送る地点までは責任があるだろう。そこから先は、私の管轄ではない。

実は少しも、私は優しくはない。


半田さん

2006-07-28 | Weblog

変なところにひっかかってしまって昨夜から一睡もしていないにも関わらず、既に時刻は午前2時過ぎ。

ハンダの語源。いくつか調べてみたのだが、これというモノが見当たらない。「ハンダづけしたものですよ」という意味の中国からという説や、福島にある錫山の名前が「半田山」だったから、とか。はたまた、マレーシア近くの錫産地BANDA諸島から来ているとか。

中国語説はちょっと怪しい。もっと怪しい私の中国語知識を総動員して考えてみるけど、金早的という字ではfandaという音になるかぁ?daは合ってるだろうけど。

何気に身近にある不思議ちゃん発見。
悔しいけど、ネット検索だけでは分からない。
これが論文ネタだったら、ここからが面白いとこなんだろうけど。そこまで調べる気力はなし(笑)。

半田さんだよ、きっと。(←いつの時代の人やねん?)


父神様

2006-07-28 | Weblog

先日、神の食事、なんてシリアスに語っていたのに。
万能の父神様の御意思は、それはそれは容赦のないものでした。

最後の審判。

その名も・・・

「蟻の○コロリ」

可哀想になぁ。(←お前も罪人じゃ)フェロモン誘導とかして、別の場所に連れて行けたらいいのにねぇ。約束の地?紅海渡ってく?

確かに今日は一匹も見ていない。
クッキーで餌付けできなくなると思うと、それはそれで少し物足りなかったりする。
どうか、安らかに眠ってくれ。(まぁ、いつか私の屍も蟻に食われるのかもしれんて。プラマイ、ゼロ?)

ふと「働き蟻って♀オンリーだっけ?」という疑問を確認したくて、ググってみる。

wikipedia:蟻

なんだかたくさん情報がありすぎて、性別探すのに手間取ってしまった。♀のみ。その他諸々気になる情報がたくさんでているのだが、収拾がつかなくなりそうなので筆を置く。なんで最近私はこんなに蟻に関心があるんだろう?←視線が低いからだよ。下ばっかみてるから気づくんだろうて。苦笑 確かに。


くるくる、廻って参上!

2006-07-26 | Weblog
ピンポーン♪
「宅急便です。」

あぁ、お向かいの家に宅急便が届いたのだなと思っていたら、そのまま家にもやってきた。

ピンポーン♪

父が荷物を受け取り、差出人を見て「何?」と聞く。彼が手にした小さな箱を見て、思わず笑ってしまった。あぁ、来た来た。例のキューピーちゃんグッズである。

箱を開けてみると手の平に乗るほどの小ぶりのオルゴールに、一回り小さめの団扇、そして二個のフリースっぽいたらこキーホルダー。最初の2点が予想よりも小ぶりであったのに比べ、なぜかキーホルダーが予想以上に「でか」かった。体長10cmくらいある、たらこ。か、かわいいと言えばかわいいが、不気味といえば不気味。

小ぶりのオルゴールは例のたらこソングを歌いながら、8体のチビたらこがくるくる廻っている。テーブルの上で廻るたらこ群を、猫がじっと眺めている。催眠?

父はことのほかお気に召したようだ。
「ハナ(孫)ちゃんが喜ぶだろうなー♪」

・・・。喜ぶか?たらこで?
って云うか、一応あなたに買ったんですけど?

果たして、父はたらこキーホルダーをつけてくれるのだろうか?

私は、とりあえず明日リュックにつけて出かけてみようと思うが。(誰か止めてください涙


ネオ・サイクル

2006-07-26 | Weblog
野暮用で電車に乗り、出かけた。梅雨の長雨続きでほとほとうんざりしていた折の貴重な晴れ間である。TVのニュースでは十何日ぶりの晴れだと予報士が告げていた。昨夜も例のごとく余り寝ておらず、ようやく寝入った所で起きたので胃の入り口辺りがきゅうと痛い。野暮用は今月中には始末してしまわないと後で困るので、諦めてのっそりと起き上がった。

支度をして外に出ると、さすがに久しぶりの日光に目がくらんだ。熱気がアスファルトからむぅと立上ってくる。道路の端にかすかに残る街路樹の木陰に隠れるようにしてバス停まで向かう。途中、低空飛行してきたカラスにぶち当たりそうになる。狙うな。

外出だというのでブラジャーをつけてきたが、これが良くない。これだけで胸が苦しくなってくる。外したら少し楽になるだろうと思いつつ、昼間なのに結構人がいる駅のホームでまさかブラジャーをおもむろに外すわけにもいかない。なるべく深呼吸をして気持ちを落ち着けて、やってきた電車に影のように滑り込んだ。

駅を降り、駅前の商店街の本屋の角から脇道に入る。その場所へ行くのは初めてではないが、以前は人の車で運ばれたので自力で行くのは初めての道だった。出かける前に地図は確認してきたのだが、飲み屋やらスナックが所狭しと立ち並んでいるかなり場末な裏通りである。うだるような暑さの中を電車の線路沿いに歩く。所々雑草が花をつけており、ゆらゆらと風に揺れている。

用事を手早く済ませ、また行った道を戻ってくる。工事中の場所が多く、ヘルメットをつけユニフォームを着て交通整理に当たっている警備員の顔からは汗が迸っている。そしてまた、空き地の辺りまで戻ってきた。久しぶりに日光に照らされて、緑が濃く輝いている。それがたとえ雑草でも、そこに緑があるというだけでほっとした。

空き地と言ってもさほど広いわけではない。小ぶりの商店が一軒立つ程の3間四方くらいの空き地である。目に付いた一つの空き地には角々に杭が打ち込んであって、紐で周りが囲まれていた。「私有地につき、駐車ご遠慮ください」というような立て看板がいくつかある。その先にもう一つ看板が立っていて、板の上に更に何か紙が貼ってある。つい、引き寄せられるようにその文字を追ってしまった。
「火災の為、一時休業しております。---」

そうか。流行らないから閉店という理由よりもなんだか余計に切ない感じがした。流行らない上に、火災で店舗が焼失までしたのか。こんな狭い所で火事があったら大変だったろうな。つきましては以下、お決まりの云々が書かれている文面を読み、最後に記された店名までたどり着いた。
「------ ネオ・サイクル」

自転車屋さん?

何かが頭の隅を掠めた。この自転車屋の名前には覚えがある。そして遠い昔の記憶が蘇ってきた。10年近く前のことだ。私はこの自転車屋に立ち寄ったことがあった。理由は思い出せなかったが、何かの用事でこの自転車屋に来て、そこでYouth Hostelが利用できるように会員登録をしたのだった。その時店のオヤジさんといくらか言葉を交わしたことを思い出した。いかにも流行っていない自転車屋であった。商売というよりはほとんど趣味に毛の生えた程度で商っている風情の。薄暗い、誇り臭いような店内には幾つか自転車が並べられ、時折パンクの修理にやってくる地元の人がいる他はさほど往来のない、そうした雰囲気の店だった。

あの店が焼けてしまったのか。

奇妙な感慨が胸に残った。初めて通った道だと思っていたが、10年も前に一度は来たことがあった道。この看板に目を留めなければ、このネオ・サイクルという店名を目にしなければ、おそらく気付きもせずに通り過ぎてしまったろう。

帰り道の電車の中でも考え続けていた。確かにあの自転車屋さんには寄ったことがあるのだが、何の用事で寄ったか思い出せない。電車で行かなければならないような場所にあるのに、自転車に関することで出向いたとも思えない。仮に、自転車のことであったとしても、わざわざ何もあの店でなければ分からないことなんて、記憶に残る店の風情を思い返してみるにつけ有り得ない感じがする。

考えても思い出せないので、一つ溜息をついて車内に目を向けた。たまたま私の座った席の斜め向かいに腰掛けている女の子が視界に入った。思わず吹き出しそうになる。あろうことか、彼女は右足を左足の上に斜めに組んで、8割方席の埋まっている車内で足の小指にバンドエイドを巻いているのだった。

分からないではない。彼女が履いていたのは緑色の、すっぽんの頭のように先の尖ったローヒールで、いかにも足が痛くなりそうなデザインの靴。しかしなぁ・・。隣の人を蹴らんばかりに足を突き出してバンソーコですか。行儀が悪い云々以前に、この分かりやすい「恥じらいの無さ」に呆れを通り越し、むしろ笑いが出そうだった。このまま見ていると絶対に笑い出す確信があったので、急いでつり革広告に意識を飛ばす。

なんだかなぁ。そう思っていたら、ふいに記憶が蘇ってきた。ネオ・サイクルに行った理由がいきなり湧いてきたのである。

ユース・ホステルだ。そう、ユース・ホステル。丁度初めて海外に行く前のことで、旅行もおそらくするだろうからユースの会員登録をあらかじめしてから行こうと思ったのだ。一番近辺で登録を扱っているのがあのネオ・サイクルしかなかったのである。そして、あの店の主人は自転車の用事でもないのにやってきた私に、とても親切に応対してくれたのだった。最初に思い出したのはユース・ホステルのことだったが、当然と言えば当然だ。何しろ「それ」が訪れた目的だったのだから。

今更分かった新事実に、せっかく一度はつり革広告に飛ばした意識が戻ってきてしまい、またまた車内で笑いを堪えるのに苦労した。

神の食事

2006-07-25 | Weblog

若い時はそんな話は嘘だと思っていた。実感がなかった。寝て起きた後、顔についた枕の跡がなかなか消えないなんて。30歳を半ば過ぎてから、その話は本当だなぁと洗面所の鏡を見ながら思っている。顔についた枕の跡はなかなか消えない。肌がそう簡単には戻らないらしい。ほうっ、と一つ溜息をつく。年ってのは取っていくものなんだなぁ。

朝食とも昼食ともおやつともつかない食事を取る。キャビネットの中にウェッジウッドのティーバッグの箱がある。姉からお土産に貰った物だが、ずっとそれをティーバッグだと思っていた。野苺のマークのついた箱をよく見ると、どうやら苺味のクッキーらしい。朝食代わりにすることにした。クッキーのパッケージを開けると予想外だった。ジャム状のものが中央に乗っているクッキーの一種を想像していたのだが、見た目はあくまでプレーン。ふぅん。してやられた気分である。じゃ、味が苺味なのか。

小さめのクッキーを皿に5つ並べて、ちょっと足りないかなぁと思って7つに増やした。箱を見るとプラスチックのケースにあと数枚残っている。面倒くさくなって、全部皿に出した。手っ取り早くルイボスティーを淹れる。ミルクを少しいれて、ミルクティーを作る。クッキーと紅茶で食事。

随分古いクッキーだったのですこししけっていた。しかし、味はちゃんと野苺の風味がする。紅茶に浸しながらクッキーを食べる。クッキーの滓がぽろぽろとこぼれる。ソファがあるのだが、いつも面倒くさくてソファによっかかるようにして床に座ってしまう。

目を絨毯に落す。絨毯の上には、たくさんの蟻が這っている。曇りがちの湿った天候だと余計に蟻がでるのだ。団地住まいなのに全くどこからこれらの蟻はやってくるのかと思うのだが、多分ベランダの植木やらからやってくるのだろう。今ではすっかり絨毯は蟻の通行路になってしまって、床に座っていると時々チクリ、と刺される。畜生め。

一匹の蟻が目に入った。目の前にクッキーの滓を落としてみる。奴は見事に見つけた。落とした3mmくらいのクッキーの小さなカケラから大半を一気に顎で掴んでせっせと歩き出した。えっちら、おっちら。クッキーが絨毯を渡っていく。遠目には小さなクッキーに足が生えてひとりでに歩きだしているように見える。そのうち「クッキー頭」になった蟻は絨毯の果てに消え、視界から消えた。

そして、思い立ったようにそこいらを這っている11匹の蟻をおもむろに私は指でつぶした。もがいて、くるくると転がる蟻を見つめながら、私は犯した罪の重さにも落胆しなかった。ぼんやりと、あのクッキーが養えるのは果たして何匹だろうかと思いを巡らせた。

まるで神のようだった。


Virgin Voice

2006-07-24 | Weblog
まだ映画も見ていないのに、「ゲド戦記」のCDを買った。

近頃映画のCMが流されているがそこで聞いた声に魅かれて。声量はないけれど、高音部で掠れる吐息のような声が心地良い。掠れていながらも声の焦点はきちんと一点に定まっている。雲の中を飛んでいて雲間に一点の青空を見つけ、そこに向かって全速力で飛んでいこうとしているような。そういうきつくはない、爽快さがある。

歌っている手嶌さんはこのCDがデビューソングらしいので、本当に彼女のVirgin Voiceなのだろう。確かに「ゲド戦記」というファンタジーの雰囲気に彼女の声は似合っている。スタッフが彼女の声を聞いて鳥肌が立ったと言っているが、なるほどと思う。この映画のための声という感じだ。

中世欧州の宗教音楽に似たような曲もある。昔付き合っていた人が、そういう音楽が好きで買いそろえていたので懐かしく思った。作曲は全て谷山浩子。昔、この人のラジオ番組を聞いていた。(←時代が分かるなぁ(笑))「猫森集会」という話だったと思う。音楽と朗読と。話の内容は余り思い出せないが、彼女らしい幻想的な話だった。

惜しむらくは、そうさなぁ。宮崎吾郎ちゃん、作詞を担当しているようなのだが、余り上手くないんですな(笑)。伝えたい事のイメージは何となく分かるのだけど、言葉にその言葉以上の膨らみを持たすことができていない。作詞家としてはちょっとダメだと思う(笑)。どうしてプロの作詞家さんとかにお願いしなかったのだろうか。歌詞としての言葉の使い方がちょっとずさんな感じがする。

確かに彼女の声は掘り出し物だったのではないかと思うけど、歌の方は、歌詞がもうちょっと練られていたならさらに奥行きのある、洗練された感じになっていたのではないかなと思う。彼女のVirgin Voiceも今回だけで、こなされていくうちにきっと変わっていってしまうだろうから、旬の素材を存分に調理して欲しかったという意味でちょっと惜しいなと思わせられる「ゲド戦記歌集」であった。

ま、吾郎ちゃんも偉大な親の影で大変ではある。

で。
私、果たして映画見るんだろうか?(笑)

追伸:何度かBGMとして繰り返し聞いていると、歌詞なんかどうでもいいか、という気になってきた(笑)。



たらこの中で笑う

2006-07-22 | Weblog
父が呪いにかかっている。結構前からonairされているキューピーの「たらこスパゲティー」CMにわらわらわらわらと出てくる、例のアレだ。

確かに頭にこべりついてしまう音と、なんと言ってもたらこの中にキューピーちゃんがいるという結構おぞましいコンセプトのあの人形。にへらにへらとやつらはたらこの中で笑っている。

あのCMがかかる度に父から催促がかかる。

「あの、たらこ(の人形)は売っていないのか?」

や。売っているとは思うけれど、探してまでは欲しくないぞとなんとなく思う。出先で偶然出会ったらご愛嬌で買ってしまうこともあるかもしれないが。探したくないぞ~、と思っていたのに先ほど出来心でネットで検索してしまった。見つけました。↓

キューピーたらこ

キーホルダーとか、オルゴールとか色々あるんだな。一番使いそうなのは団扇だけど。
ちなみにさらに調べてみたら、あのたらこのCD、9月に発売されるのですね。いや、かってどうするんだよ、俺(笑)。

買ってあげるべきか否か、サイトの前でしばし迷う。
頭の中には「たらこソング」がぐるぐると回っている。

追伸:Kohsinちゃんのコメントにほだされて、色々goods只今買っちゃいました。もうっ。まだ彼の誕生日には間があるのに(笑)。(誕生日プレゼントがたらこgoodsってそれもどうよって思いますが(笑))




猫に膏薬

2006-07-22 | Weblog

珍しく私にしては早起きしているのは、ひとえに家の猫さんのおかげによるもの。先月は突然耳が腫れあがってひょーっ、ってなくらい不気味になっていたのだが、現在は小康状態。腫れは引いたが、耳は片方よれよれになってちぢれ耳猫になってしまった。まぁ、しょうがない。切られるよりは捩れていた方がまだ楽だろう。

少し症状が落ち着いたかと思ったら、今度は顎の辺りにできものができてしまった。先日流血していたので、今朝方病院に連れて行った。待つのが嫌だし遅くなると混んでしまうから、一番乗りで行ってきた。

そのため私はほぼ貫徹。じぇんじぇん昨夜寝ていないので、かなりげろりんこ。

猫ちんはどうやら「猫にきび」らしい。確かにこの前潰れた時、膿みたいなのが出ていたような気も。お薬もらって終わり。ものの5分程度の診療。これで5000円ですから。痛いです。まぁ、治ってくれるといいなぁ。

しかし、キャリーに入れて連れて行くのは一苦労。日頃外に出ない猫だから、もう超興奮状態。喉が枯れるのではないかと思うほど声を張り上げて鳴く、鳴く、鳴きまくる。しかも図体もでかく、一般猫用のキャリーでは頭から入ったら中で向きが変えられない(笑)。哀れだなぁ、お前。7kgくらいあるので、肩を痛めている私が片手で運ぶにゃぁ、結構ご苦労です。痛いし。もう。鳴くなよ。子供をどなりつけたくなる親の気持ちがちょっと分かる。

家に帰ってきたら、すっかりケロッとして顔舐めたりしてますからね。ほんとにもうっ。親の心、子知らず。

わたしゃ、もう一回寝るぞ。
このままだと何かよからぬものが内臓から出てきちゃいそうだ。ぐげっ。(笑)

薄曇の、少し肌寒いような週末の朝。


融ける

2006-07-21 | Weblog

また、雨が降ってきた。明日はさらに酷くなるそうだ。土石流が発生したとのことなので安否を気遣って長野に住む友人に電話をした。

「(事故の場所は)近くではありますが、大丈夫です。」

なぜだか話はそんなことよりも、年末近くに予定しているインド旅行の話になる(笑)。


雨が地面を穿つ音が響いてくる。ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃと。あとどれほど降ったら止むのだろう。そう、雨も悪くない。旅先で、離れの部屋のような山奥で、雨の降る音を聞いていられるのなら。雨音は一層静かさを増す。好きな男と二人だけなら、閉じ込められて聞く雨の音も愛しいというものだ。

今日はなんだか薄ら寒かった。余りに寒いので途中で薄地の浴衣に着替えた。浴衣と言っても、決してちゃんと着ているわけではない。寝巻き代わりに来ているので、帯なども締めず腰紐だけでフラフラしている。アンティークの浴衣で丈が短いからこんな風に着る以外ないのだ(笑)。

それでも寒くて、今度はお酒を飲んでみる。田舎から送ってきた大吟醸。冷酒が好きだ。量は決して飲めないが、一人で静かに飲むのが好きだ。大勢でわいわいと、そういう酒はとにかく苦手。お酒がなくてもそういう席が苦手。私は大勢でわいわいしている席でも、そのうち一人そっと席を離れ、外で煙草を吹かしてしまうようなタイプだ。ダメだなと思いながらも馴染めない。わいわい騒ぐことが嫌いなのだ。楽しんで欲しいと思うし、人がそうするのを止めようとは思わないけど、自分は異質の人間だと思う。あぁ、ドラッグがあれば、話は別かもしれない(笑)。

先日、数年前になるか。旅先で会った男の子からメールが来た。先月彼氏と別れたという話をしたら、「その彼はぽっちりを受け止められる器じゃなかったんだよ。」と言われてしまった。まぁ、客観的に見なくても、別れを告げられるということはそういうことでしょう?(笑)年下の僕に諭されちゃっているなんて、女が廃る。

ひとり。
雨の音を聞きながら、静かな夜に融けていく。
インドの雨はどんなだろうか?


Hazan

2006-07-19 | Films

相変わらず雨が降り続いている。各地で被害が出始め、起きる度に外を見るまでもなく「雨だなぁ」と予測がきくのにもほとほと閉口する。まるでこれでは秋口のイギリスにいるみたいだ。天気を図る必要はない。雨か薄曇に決まっている。

「Hazan」という映画を見た。陶芸家の板谷波山を描いた作品。もともと芸大の彫刻科を出て教師をし、生活も安定していた波山が突如陶芸家になりたいと言い出す。家庭も子供もある。それを告げられた妻を南果歩が演じているが、この妻がなかなかすごい。生活が困窮することが分かっているのに、文句一つ言わず反対もしない。ただ、子供のことだけは泣かさないでくれと頼むだけだ。

家屋敷も売り払い、窯を自宅にしつらえ、食うにも困るようになりながらも波山は生活の全てを陶芸に捧げる。初めて窯に火入れをした際には、薪が足りなくなってしまう。近所の農家から妻が廃材をもらってくるがそれでも足りず、そこで火が落ちてしまったら全て作品がダメになってしまう。妻の決意が凄い。家の雨戸まで叩き壊して窯にくべるのだ。

分からない。陶芸の道を進むなら、家族と縁を切る方法もあったのではないか。妻子もちの男が30過ぎて夢を見る。本人はいいが、付き合わされる家族はたまらない。妻は意地でもそうは言わないし、むしろ「茶碗にたとえ米が入っていなくても、立派な茶碗がいい」と借金の取りたてに来た米屋にも啖呵を切るほどだ。

だが、私ならできないだろうと思う。自分の夢を追うならば、誰も道連れにはできない。自分だけならば好きな道での苦労なら甘んじて受けようと思うが、家族はその夢に付き合う義理はない。こういう所で、私はとても個人主義なのかもしれない。

映画の作品中に出てきた磁器が、おそらく波山の作品だろうと思う。よくは知らないが、彼は後々有名になり文化勲章も得たような人物だ。どこか西洋的な匂いがある。ガレなどにも影響を受けたのだろうから、さもありなんかもしれない。確かに西洋的なスタイルが日本の陶芸に入ってきたという点では功労が多いのかもしれないが、やはり私は日本の陶芸に関しては「わびさび」が好きだなぁと思ってしまう。波山のデザインは私にはやや華美すぎる。

一点、気になったことがあった。助手をしていた青年が波山の家を去る時に、自分の総決算としての作品を彼に残していく。玄関先で挨拶して、自分の作品を波山に渡す。立って、である。仮にも陶芸を生業としている人達が、立って手渡しで茶碗のやりとりなぞするだろうか?と思う。茶道で茶碗を拝見する時も、決して肘の高さより高くあげて見たりはしないものだ。落として割ってはいけないから、万が一落としても大事無いようにできるだけ前かがみに姿勢を低くしてみるものである。

青年は、彼の祖先は実は大陸からやってきたのだと告げる。島津が朝鮮人の陶工をお抱えにしていたように、彼の祖先もそうした技術者として渡ってきたのだろう。波山の元を去る際に、自分が日本人ではない、ということを伝える。そして自分のここで学んだ事の集大成として茶碗を残していく。そういう茶碗を渡す時に、立って、袱紗を開いてほいと渡すであろうか?人の人生を狂わせるほどの陶芸の魅力を知っている二人が、である。この場面だけは、どうしても私は納得がいかなかった。

波山は茨城の出身である。筑波山からその雅号を思いついたらしい。映画を見終わった後で、ネットで調べてみたら茨城に波山の記念館があるようだ。作品にそれほどほれ込んでいるわけではないのだけれど、ちょっと見てみたい気もする。西洋風のデザインの和風陶磁器。

茨城にいる友人に聞いてみたら、当たり前のことのように知っていた。記念館まであるよ、と教えてくれた。茨城では常識なんだろうか。


坂道

2006-07-18 | Weblog
長年の友人のT子と電車に乗っていた。年を取ると時間が経つのが早い。つい先日会ったような気がしても、いつの間にか数年経ってしまっていたりする。

思い出話がぽつぽつと出る。今のT子と私では、思い出話をするより他ない。学校で毎日会っていた頃とは違って、共通の話題はそれほど多くはなくなった。珍しくワンピースなどを着てきてしまった。着ようと思っていた機会を逃してそのまま手付かずになっていた白いワンピース。普段なら絶対に買わないような代物だ。でも今着ないときっとずっと着ない。

滅多に着ないワンピースなどを着てしまったので、足もスニーカーというわけにはいかなくなった。履きなれないサンダルが足に食い込んできてかなり痛い。電車で立って帰るのが苦痛だ。話を続けながらも、どこか座れないかなぁなどと意識の片隅で思う。三つ並んでいるつり革の内、私の右手に下がっている一本を持とうと手を伸ばす。が、ひどく持ち手が汚れていることに気付く。泥のようなものがついている。仕方がないので真ん中のつり革を掴んだ。

電車が川を渡る。夜の暗い川。対岸に家々の灯がともっていた。

T子が大学生の頃、私は時々彼女に会いに大学まで行ったことがある。彼女は学生であり研究生でもあって、白衣を着て働いていた。玄関口で待っているとT子が白衣のままやってくる。

「ちょっと待ってて。」

そう言って医局に戻る。仕事を終え私服に着替えて出てきた彼女と連れ立って、学校前の細い坂道を駅の方へ向かって歩いていた。

そして、その細い坂道の途中で誰かがT子の肩をぽんっ、と叩いて「お先っ!」と爽やかに走り過ぎていった。私は何故だかその時の印象をよく覚えている。T子に聞くと、同級生のI君だ、と言った。なんのことはない別段感情も籠っていない説明であったにも拘らず、私はなんとなくT子が彼に魅かれていることをその時感じたのだった。

I君の顔はよく覚えていない。何を着ていたかも覚えていない。余りに一瞬のことだったから。ただ、その後度々話に聞くことになるI君のことで私自身が知っていることと言えば、この時の肩を叩いて走り去っていった印象しかないのである。それが、もうひょっとすると10年近く経っているはずであろうのに、鮮明な印象を残している。

電車が川を渡る。私はふとその時の事を思い出してT子に話した。

「昔、T子と大学で待ち合わせしたときさぁ、帰り道にI君がT子の肩を叩いて、爽やかに先に帰っていったことあったでしょう?なんでか知らないけど、私今でもそれ、覚えているんだよね。」

「そんなこと、あったっけ?」

そう言ってT子は隣のつり革につかまりながら身もだえしつつ、苦笑いする。

「あたたぁ。それって多分彼と付き合う前のことだよ。別れる間際の頃なんて『爽やか』」とは程遠かったから。」

T子はまだ一人で苦笑いしている。T子は本当にI君のことを好きだったろう。聞いていて恋人らしい何もしてくれない人だったと記憶している。デートしたり、誕生日のお祝いをしたり、そういうイベントらしいことは何もしない人だったし、1ヶ月近く連絡がないことも普通だった。週に一度程度の連絡でも、T子は文句一つ言わず付き合っていた。聞くたびに思ったものだ。私なら続かない。何の為に付き合っているのか分からない、と。

もう別れて5年ほど経つだろうか。I君と別れて数日後、T子は母親を突然亡くした。丁度その頃は私が海外にいた時だったので、メールで彼女から訃報を受け電話をした記憶がある。それ以来、T子は快活さを失ってしまった。その後も恋人も作っていないし、作る気も余りないように見える。


電車の揺れに合わせて足を踏ん張ろうとすると、足が痛い。あぁ、だから似合わないものなんて身につけるものじゃないんだと心の中で愚痴る。足が痛いとそれだけで不機嫌になる。

T子は窓の外を眺めながらつぶやく。
「そんなこと、あったよねぇ。」

私は微笑んで、そう傍らでつぶやくT子を見守る。T子は今でもきっとI君を忘れていない。思い続けてもどうなるものでもないし、彼女自身今更どうこうしようという気もないのだろう。ただ、彼女の中にはずっとI君が静かに座り続け、黙って一人煙草を吹かし続けているように思う。

そして、私はT子を思うたびに、あの日坂道で私達を追い抜いていったI君を思い出す。T子が忘れてしまったという爽やかな彼の姿を、私はなぜか必ず思い出すのだ。