友人に薦められた川端康成のある本を探していた。たまたま、本屋による機会があったのでその本があるかと探してみたのだが、残念ながら置いてなかった。仕方がないので代わりと言ってはなんだが、少し川端気分(←どんなだ?)だったこともあり、一冊川端の本を購入した。「古都」である。京都を舞台とした観光案内書とも言えるほど、京都の名所、旧跡のオンパレードである。下手なガイドブックよりも「そうだ、京都行こう!」な気分にさせられた(笑)。
読み終わって感慨深いのは、川端の美意識、その見識の広さと深さである。舌を巻く。話の筋は、京都の中心部の問屋の娘として何不自由なく生まれ育った千恵美が、実は捨て子で、生き別れになっていた双子の姉妹に祇園祭の最中に偶然出会い、交流を深めるというただそれだけの話である。が、それを読み切らせてしまう力量がやはり川端作品にはある。
冒頭の、庭に植えられた大木の上下二ヶ所の洞に咲くそれぞれの菫。
「どうしてそんな所に、毎年健気に咲くのだろうか。二つの菫は出会うことがあるのだろうか。」
千恵美がその菫を眺め、美しさとその孤独を思う下りは、後の双子の話への伏線となる。冒頭に描かれた菫の美しさは可憐で凛としていて非常に印象的である。読者の心にしっかりと刻まれる。
キリシタン燈籠の話にも驚いた。全くこれに関係なく先に読んだ本で、たまたまそのキリシタン燈籠のことが書かれていたのだ。2-3日中に二度もキリシタン燈籠の話を聞くというのも、そうそうあることではないと思う。そういったものがある事を知らなかったので興味が湧くと同時に、地中に隠されたマリア像或いはキリスト像をあえて「掘り起こさない」という美学に、うんうんと深く頷いた。何も表に出すだけが全てではない。秘してこそ華、というのはやはり究極な日本的美学かと思う。
双子の片割れ苗子に、ほの紅く灯った提灯と喧騒の中で偶然に出会うシーンも美しい。京都の祇園は宵山の少し前に訪れて鉾は見かけたことがある。街中を灯す提灯の薄紅い光、というものはたまらなく美しい。都会の夜のネオンとはまた別格の美しさであった。これは暗闇を、影を楽しむ為の演出とも言える。
苗子の気立ての美しさは、彼女の住む北山杉の生育する辺りの描写からも窺える。すっくと伸びた青い杉、苦労を苦労と思わず懸命に働き、どこまでも深い愛情を千恵美に注ぐ。雨や寒さで煙った冷たい空気の中に、北山杉が青く立上るような情景は清涼感が漂う。残念ながら京都の、このおそらく嵐山を過ぎた先にあると思われる地域には、足を伸ばした事はないのだが、機会があれば是非行ってみたい。
また、作中に登場する男たちも魅力的だ。千恵美への恋心を織物に込める秀男。決して表には出さないけれど、好いた女のために極上の帯をあげたいと思う心にはほだされる。こんな風に思われてみたいものだ。ヘタしたらストーカーであるが、そうはならないのが川端作品の美しさである。織りに思いを込める男。いいではないか、真っ直ぐで。しかも、パウル・クレーの抽象画を模した帯。一体全体どんな帯だろうかと思うではないか。
さらに、千恵美がおそらくは後に心惹かれていくことになる幼馴染の兄、竜助も、真っ直ぐで肝の座った感じがして気持ちがいい。お嬢様育ちで何もできないと思っている千恵美に、傾く実家の経営を手伝う為「お店に出てみはったらええ。」と諭す。(←ここで、標準語で「お店の手伝いしてみたら?」では興醒めである(笑))その上で、必要な時はいつでも手助けできるよう、後からしっかりと見守っている男気のある男だ。こちらも捨てがたい(笑)。個人的には竜助を選んでしまうだろうなぁ、私(笑)。
森嘉の湯豆腐が出てくるわ、南禅寺の三門が出てくるわ、仁和寺前のお茶屋の話が出てくるわ。お茶屋には前回立ち寄ろうかと思っていたくらいだったのでこの描写を読んで悔しい思いをした。青蓮院の大楠も話に出てくる。昨年の霜月にこの寺を訪れた際、夜の闇にライトアップされた楠は異様な重量感を持って私の眼に映った。しかも、4本あるうちの一番外側が一番良いと川端は言う。それが最も古い老木で、印象に残ったのもやはりその外側の木だった。非常に品のいい香が焚かれていたのを覚えている。寺独自の香だそうだが、買ってこなかったことを実は今でも悔やんでいるくらいだ。
唯一川端で惜しむらくは、私には結末がやや唐突で尻切れトンボに思えるところだろうか。あら、これで終わり?とつい思ってしまう。またそこが上手さであることは百も承知ではあるのだが。千恵美にしても苗子にしても、また取り巻く登場人物のほとんどがその性質において「美しすぎる」という点も、やや嘘臭いとは思う(笑)。人間そんな美しい性質ばかりでは生きていかれへんえ?とでも突っ込みたくなるぐらいだ。が、この手の地域ガイドとでも言うべき作品においては、これで良いのかもとも思う。川端だから、これで良いのだ。(←強引やな)
全編に渡る、京言葉。京都人の言葉の優しさ=性質の良さ、では全然、全くないからこそ(笑)京ことばというものはまったくもってくせ者なオブラートである(笑)。でもまぁ、女にこんな風に言われたら蕩けちゃうよねぇ(笑)(と言うのを当然分かってやっているところが京女の抜け目なさ(笑))。案外、京男はキツイ京女に慣れているから拾い物なのかもしれない。方言好きには堪らない文章。
川端が睡眠薬でラリった状態で書いたという本作は、なるほど夢物語のような風合いをもつ。京都の情景、移り行く四季の美しさ、そして北山杉の煙る霧の中に霞むような青い影は、東山魁夷の日本画の世界のようだ。
嗚呼、森嘉の湯豆腐が食べてみたい。(←そんなオチかよ。)
読み終わって感慨深いのは、川端の美意識、その見識の広さと深さである。舌を巻く。話の筋は、京都の中心部の問屋の娘として何不自由なく生まれ育った千恵美が、実は捨て子で、生き別れになっていた双子の姉妹に祇園祭の最中に偶然出会い、交流を深めるというただそれだけの話である。が、それを読み切らせてしまう力量がやはり川端作品にはある。
冒頭の、庭に植えられた大木の上下二ヶ所の洞に咲くそれぞれの菫。
「どうしてそんな所に、毎年健気に咲くのだろうか。二つの菫は出会うことがあるのだろうか。」
千恵美がその菫を眺め、美しさとその孤独を思う下りは、後の双子の話への伏線となる。冒頭に描かれた菫の美しさは可憐で凛としていて非常に印象的である。読者の心にしっかりと刻まれる。
キリシタン燈籠の話にも驚いた。全くこれに関係なく先に読んだ本で、たまたまそのキリシタン燈籠のことが書かれていたのだ。2-3日中に二度もキリシタン燈籠の話を聞くというのも、そうそうあることではないと思う。そういったものがある事を知らなかったので興味が湧くと同時に、地中に隠されたマリア像或いはキリスト像をあえて「掘り起こさない」という美学に、うんうんと深く頷いた。何も表に出すだけが全てではない。秘してこそ華、というのはやはり究極な日本的美学かと思う。
双子の片割れ苗子に、ほの紅く灯った提灯と喧騒の中で偶然に出会うシーンも美しい。京都の祇園は宵山の少し前に訪れて鉾は見かけたことがある。街中を灯す提灯の薄紅い光、というものはたまらなく美しい。都会の夜のネオンとはまた別格の美しさであった。これは暗闇を、影を楽しむ為の演出とも言える。
苗子の気立ての美しさは、彼女の住む北山杉の生育する辺りの描写からも窺える。すっくと伸びた青い杉、苦労を苦労と思わず懸命に働き、どこまでも深い愛情を千恵美に注ぐ。雨や寒さで煙った冷たい空気の中に、北山杉が青く立上るような情景は清涼感が漂う。残念ながら京都の、このおそらく嵐山を過ぎた先にあると思われる地域には、足を伸ばした事はないのだが、機会があれば是非行ってみたい。
また、作中に登場する男たちも魅力的だ。千恵美への恋心を織物に込める秀男。決して表には出さないけれど、好いた女のために極上の帯をあげたいと思う心にはほだされる。こんな風に思われてみたいものだ。ヘタしたらストーカーであるが、そうはならないのが川端作品の美しさである。織りに思いを込める男。いいではないか、真っ直ぐで。しかも、パウル・クレーの抽象画を模した帯。一体全体どんな帯だろうかと思うではないか。
さらに、千恵美がおそらくは後に心惹かれていくことになる幼馴染の兄、竜助も、真っ直ぐで肝の座った感じがして気持ちがいい。お嬢様育ちで何もできないと思っている千恵美に、傾く実家の経営を手伝う為「お店に出てみはったらええ。」と諭す。(←ここで、標準語で「お店の手伝いしてみたら?」では興醒めである(笑))その上で、必要な時はいつでも手助けできるよう、後からしっかりと見守っている男気のある男だ。こちらも捨てがたい(笑)。個人的には竜助を選んでしまうだろうなぁ、私(笑)。
森嘉の湯豆腐が出てくるわ、南禅寺の三門が出てくるわ、仁和寺前のお茶屋の話が出てくるわ。お茶屋には前回立ち寄ろうかと思っていたくらいだったのでこの描写を読んで悔しい思いをした。青蓮院の大楠も話に出てくる。昨年の霜月にこの寺を訪れた際、夜の闇にライトアップされた楠は異様な重量感を持って私の眼に映った。しかも、4本あるうちの一番外側が一番良いと川端は言う。それが最も古い老木で、印象に残ったのもやはりその外側の木だった。非常に品のいい香が焚かれていたのを覚えている。寺独自の香だそうだが、買ってこなかったことを実は今でも悔やんでいるくらいだ。
唯一川端で惜しむらくは、私には結末がやや唐突で尻切れトンボに思えるところだろうか。あら、これで終わり?とつい思ってしまう。またそこが上手さであることは百も承知ではあるのだが。千恵美にしても苗子にしても、また取り巻く登場人物のほとんどがその性質において「美しすぎる」という点も、やや嘘臭いとは思う(笑)。人間そんな美しい性質ばかりでは生きていかれへんえ?とでも突っ込みたくなるぐらいだ。が、この手の地域ガイドとでも言うべき作品においては、これで良いのかもとも思う。川端だから、これで良いのだ。(←強引やな)
全編に渡る、京言葉。京都人の言葉の優しさ=性質の良さ、では全然、全くないからこそ(笑)京ことばというものはまったくもってくせ者なオブラートである(笑)。でもまぁ、女にこんな風に言われたら蕩けちゃうよねぇ(笑)(と言うのを当然分かってやっているところが京女の抜け目なさ(笑))。案外、京男はキツイ京女に慣れているから拾い物なのかもしれない。方言好きには堪らない文章。
川端が睡眠薬でラリった状態で書いたという本作は、なるほど夢物語のような風合いをもつ。京都の情景、移り行く四季の美しさ、そして北山杉の煙る霧の中に霞むような青い影は、東山魁夷の日本画の世界のようだ。
嗚呼、森嘉の湯豆腐が食べてみたい。(←そんなオチかよ。)