Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

二輪の菫

2006-09-30 | Books
友人に薦められた川端康成のある本を探していた。たまたま、本屋による機会があったのでその本があるかと探してみたのだが、残念ながら置いてなかった。仕方がないので代わりと言ってはなんだが、少し川端気分(←どんなだ?)だったこともあり、一冊川端の本を購入した。「古都」である。京都を舞台とした観光案内書とも言えるほど、京都の名所、旧跡のオンパレードである。下手なガイドブックよりも「そうだ、京都行こう!」な気分にさせられた(笑)。

読み終わって感慨深いのは、川端の美意識、その見識の広さと深さである。舌を巻く。話の筋は、京都の中心部の問屋の娘として何不自由なく生まれ育った千恵美が、実は捨て子で、生き別れになっていた双子の姉妹に祇園祭の最中に偶然出会い、交流を深めるというただそれだけの話である。が、それを読み切らせてしまう力量がやはり川端作品にはある。

冒頭の、庭に植えられた大木の上下二ヶ所の洞に咲くそれぞれの菫。

「どうしてそんな所に、毎年健気に咲くのだろうか。二つの菫は出会うことがあるのだろうか。」

千恵美がその菫を眺め、美しさとその孤独を思う下りは、後の双子の話への伏線となる。冒頭に描かれた菫の美しさは可憐で凛としていて非常に印象的である。読者の心にしっかりと刻まれる。

キリシタン燈籠の話にも驚いた。全くこれに関係なく先に読んだ本で、たまたまそのキリシタン燈籠のことが書かれていたのだ。2-3日中に二度もキリシタン燈籠の話を聞くというのも、そうそうあることではないと思う。そういったものがある事を知らなかったので興味が湧くと同時に、地中に隠されたマリア像或いはキリスト像をあえて「掘り起こさない」という美学に、うんうんと深く頷いた。何も表に出すだけが全てではない。秘してこそ華、というのはやはり究極な日本的美学かと思う。

双子の片割れ苗子に、ほの紅く灯った提灯と喧騒の中で偶然に出会うシーンも美しい。京都の祇園は宵山の少し前に訪れて鉾は見かけたことがある。街中を灯す提灯の薄紅い光、というものはたまらなく美しい。都会の夜のネオンとはまた別格の美しさであった。これは暗闇を、影を楽しむ為の演出とも言える。

苗子の気立ての美しさは、彼女の住む北山杉の生育する辺りの描写からも窺える。すっくと伸びた青い杉、苦労を苦労と思わず懸命に働き、どこまでも深い愛情を千恵美に注ぐ。雨や寒さで煙った冷たい空気の中に、北山杉が青く立上るような情景は清涼感が漂う。残念ながら京都の、このおそらく嵐山を過ぎた先にあると思われる地域には、足を伸ばした事はないのだが、機会があれば是非行ってみたい。

また、作中に登場する男たちも魅力的だ。千恵美への恋心を織物に込める秀男。決して表には出さないけれど、好いた女のために極上の帯をあげたいと思う心にはほだされる。こんな風に思われてみたいものだ。ヘタしたらストーカーであるが、そうはならないのが川端作品の美しさである。織りに思いを込める男。いいではないか、真っ直ぐで。しかも、パウル・クレーの抽象画を模した帯。一体全体どんな帯だろうかと思うではないか。

さらに、千恵美がおそらくは後に心惹かれていくことになる幼馴染の兄、竜助も、真っ直ぐで肝の座った感じがして気持ちがいい。お嬢様育ちで何もできないと思っている千恵美に、傾く実家の経営を手伝う為「お店に出てみはったらええ。」と諭す。(←ここで、標準語で「お店の手伝いしてみたら?」では興醒めである(笑))その上で、必要な時はいつでも手助けできるよう、後からしっかりと見守っている男気のある男だ。こちらも捨てがたい(笑)。個人的には竜助を選んでしまうだろうなぁ、私(笑)。

森嘉の湯豆腐が出てくるわ、南禅寺の三門が出てくるわ、仁和寺前のお茶屋の話が出てくるわ。お茶屋には前回立ち寄ろうかと思っていたくらいだったのでこの描写を読んで悔しい思いをした。青蓮院の大楠も話に出てくる。昨年の霜月にこの寺を訪れた際、夜の闇にライトアップされた楠は異様な重量感を持って私の眼に映った。しかも、4本あるうちの一番外側が一番良いと川端は言う。それが最も古い老木で、印象に残ったのもやはりその外側の木だった。非常に品のいい香が焚かれていたのを覚えている。寺独自の香だそうだが、買ってこなかったことを実は今でも悔やんでいるくらいだ。

唯一川端で惜しむらくは、私には結末がやや唐突で尻切れトンボに思えるところだろうか。あら、これで終わり?とつい思ってしまう。またそこが上手さであることは百も承知ではあるのだが。千恵美にしても苗子にしても、また取り巻く登場人物のほとんどがその性質において「美しすぎる」という点も、やや嘘臭いとは思う(笑)。人間そんな美しい性質ばかりでは生きていかれへんえ?とでも突っ込みたくなるぐらいだ。が、この手の地域ガイドとでも言うべき作品においては、これで良いのかもとも思う。川端だから、これで良いのだ。(←強引やな)

全編に渡る、京言葉。京都人の言葉の優しさ=性質の良さ、では全然、全くないからこそ(笑)京ことばというものはまったくもってくせ者なオブラートである(笑)。でもまぁ、女にこんな風に言われたら蕩けちゃうよねぇ(笑)(と言うのを当然分かってやっているところが京女の抜け目なさ(笑))。案外、京男はキツイ京女に慣れているから拾い物なのかもしれない。方言好きには堪らない文章。

川端が睡眠薬でラリった状態で書いたという本作は、なるほど夢物語のような風合いをもつ。京都の情景、移り行く四季の美しさ、そして北山杉の煙る霧の中に霞むような青い影は、東山魁夷の日本画の世界のようだ。

嗚呼、森嘉の湯豆腐が食べてみたい。(←そんなオチかよ。)

祇園囃子

2006-09-30 | Films
録画していた溝口健二の「祇園囃子」を見る。モノクロ映画なので、知らない俳優さんたちも多い。気になった女優の一人を「これは誰?」と父に聞くと、「○○じゃないかなぁ?」と言いながら、新聞のTV欄で確認しようとする。いや、録画だから。今放映しているわけじゃないから。そう言っているのに、まだも新聞を見ようとする父が良く分からない(笑)。しかし、やはり世代の差は歴然としたもので、父の口から往年の俳優さんたちの名前がすらすらと出てくることに感心したり、勉強になったりする。年老いた姿しか知らなかった俳優さんが多いので、名前を出されて「ええ゛~~?」と驚くこともしばしばである。

さて、映画であるが、タイトルが示す通り、祇園の花街を舞台にした映画である。小暮美千代扮する芸妓に弟子入りした若い娘を若尾文子が演じている。「おかあさん」には浪花千栄子。まぁ、話の筋というのは割りにありきたりなので大して書かなくてもいいかしらん?と思う。花街にありがちな話だ。(←それだけかよ(笑))

この映画で素晴らしいのは、やはり映像美。溝口監督は、淀川長治に「女を撮らせたら天下一品」と評されていたそうであるが、頷ける。時折女を写し出す暖簾越し、御簾越しと言った演出が女性の有様を際立たせる。暖簾の切れ目の所から、小暮演ずる美代春の座って物思いに耽る様などが映し出されると、視点を否応がなくそこに集中させることができる。自分の見せたいものを見せる為に、観客の視線を無理やり持っていくのではなく、「道を空ける」とでもいうようなカメラワークは乙である。

(話は逸れるが、これを見ていて、先日TVで見ていた武豊騎手の馬に対する姿勢に通じるかもと思った。彼は馬の鼻先を無理やりある方向に持っていくのではなくて、「ほら、こっちの道に行った方がいいよ」というように軽く誘導するのだそうだ。「上手く乗るコツはなんですか?」と聞かれて「馬が何を見ているかを知るだけでも、違うと思いますよ。」と彼は答えた。天才騎手と呼ばれる理由が分かった気がした。馬の目が何を捕らえているか、そんなことは考えたこともなかった。その辺りが私が乗馬が下手だった理由なのかしらん?(笑))

いやいや、映画の話に戻ろう。まだ3作程度しか溝口の作品を見ていないが、小暮美千代はそのどれにも出演している。着物の似合う、非常に艶感のある女優さんだ。だが、そのうち2作ではイライラするくらいウジウジした役を演じているので、彼女の美しいシナが煩わしくなるほどである(笑)。

それにしても、彼女の着物の扱いはべらぼうに上手い。着慣れているからこそ、できる美しい所作の数々。溜息がでる。芸妓なので、着物の着替えのシーンも多い。腰紐を口に咥えたまま、玄関先に来たお使い客をちらっと確認し、そのままするすると帯を結びつつ席についたりする。また、彼女は伊達〆をきちんと縛らない。巻いて胸元に端を挟んでいるだけである。「そんな風に着られるのか」と勉強になった。こういうマネは「苦もなく着物を着る」レベルに達していないと到底できない芸当だ。ちょっと立ち止る立ち姿にしても草履の傾き加減が絶妙だし、どんなに急いで座敷に上がる姿でも足元が乱れる事がない。見事である。

着物の美というのは、実は「足元」なのだ。足捌きができないと着物は美しく着こなせない。昔、お茶のお稽古で「半畳三歩」というものを叩き込まれた。これが自然に(数えないでも)できるようになると、和室で恥をかくことがまずなくなる。(でも京間だと微妙にサイズが違うから難儀である(笑))ありがとう、先生。感謝。

モノクロだから色は分からないが、舞妓や芸妓が着ている着物がどれも美しい。モノクロでも十分美しさが分かる。そして女優達も随分と着物を着慣れている。当時はそれが当たり前だったのだろうが、今では到底こういう映画を撮ることはできないだろうと思う。(例えばNHKの大河ドラマなんて、目も当てられない(笑))

浪花千栄子の迫力も素晴らしい。お客の意に沿う為、美代春は好きでもない男と夜を共にしろと「おかあさん」に説教される。気の進まずにいる美代春に「『好きでもない人と』なんてことは、お金を持ってはる人だけが言えることや。」と一喝する。言うことを聞かないと裏に手を回し、どこの座敷からも干されてしまう。生活する為には時に身体を売ることも致し方ないことなのだ。おかあさんとて、憎くてやっているのではない。面子が潰れたら仕事が立ち行かないのだ。同じ女として美代春の気持ちは分かりすぎるほど分かるのだが、芸者という生き様を選んだ以上、奇麗事では済まないだろう。それは避けられないだろうとも思った。そんなことでグタグタ言っていたら、食べて行けない。客がついてナンボの世界である。

妹分を守る為に客に身体を許した美代春が、翌日あれこれと買い物をして空元気を振り撒く姿は切ない。そうでもしないとやりきれない思いが滲み出る。それでも最後には妹分と連れ立ち、凛とした笑顔で座敷に向かう姿は清々しい。

祇園の風情と女たちの立ち居振る舞いが、見事に美しく描かれた作品であった。



八月の路上に捨てる

2006-09-28 | Books
久しぶりにいい一冊に出逢ったと思えた作品。伊藤たかみの芥川賞受賞作である。流行りものを読む、ということは余り普段はしないのだが、ある日たまたまTVを見ていたら伊藤氏のインタビューが流されていた。非常に落ち着いた語り口で、良く考え、質問に対してワンクッションおいてから静かに丁寧に答える。また、その語り口からも彼の頭の「良さ」が窺えて好感を持った。そこで是非、この作品を読んでみたいと思ったのだ。

インタビューで答えていたのだが、実は伊藤氏は歌手の平井堅と同級生である。確か伊藤氏は兵庫出身と書かれていたような気がしたのだが、平井氏は三重県だったと思う。はて?どこの学校の知り合いだろうかね。本を手に取ってからプロファイルを見て知ったのだが、伊藤氏は早稲田の政治経済学部を出ている。なるほど。賢いわけね。それで文学に走っちゃうのも異端と言えば、異端かもしれない。

話は八月の最終日。今日で仕事を辞めるという先輩女性ドライバーと缶ジュースの補充を主とするルートサービスのバイトをしている30代になったばかりの男、敦。仕事で2tトラックを運転する水城さんとの最後の一日に、明日離婚届を提出するという話をする敦。彼と妻が離婚に至るまでの過程を淡々と、けれども丁寧に描いた作品である。

文体は概して口語体で、やや軽い。現代的と言えばそうなのだが、そうであっても文体の軽い印象は拭えない。それだけに読みやすくはある。できれば、今でなくても良いからそのうち文体にももう少し重み、ないしは風情を持って欲しいという期待も少しある。が、比較的作家の初期段階の文学賞受賞作品としては悪くない質だと思った。

文体の軽さを補うように、静かな語り口で「明日、離婚届を提出する」に至るまでの夫婦の崩壊を淡々と第3者に語る様は、十分な内容的な重さを持つ。伊藤氏自身、離婚経験者であるそうだから、ほぼ実体験にいくらかの脚色を加えたとしても、男が感じたであろう苛立ちや閉塞感はおそらく伊藤氏自身が経験したものではないかと思う。非常にリアリティーのある描写であった。それと同時に、おそらく作家の中で整理が一段落ついたからこそ、精神的にも追い詰められていく妻の様子も一定の距離をおいて冷静に描くことができたのだ。妻だけが悪い、という書き方ではない。無論、夫だけが悪いというのでもない。徐々にすれ違っていく二人の様は、それが冷静に距離をもって眺められているからこそ、どこまでも切なく映る。作中で敦は「浮気」に逃げるわけだが、そこに至るまでの男の心中というものは流石に上手い。だからと言って、別にそれで言い訳をしているわけでもない。ただ、心のどこかで救いを求める気持ちというのは、分かる。(分かるが、それを「正当」とも思わないが(笑))

とりたてて文章が上手い作家なわけでもない。ただ、着眼点がとても素直で、またそこから受けた思いをはしょらずに丁寧に描いている点に好感が持てる。こうした「崩れゆく」関係を丁寧に描くということは、非常に心の痛い作業であると思う。「壊れる」ではなくて「崩れる」だと私は思った。砂山のようにさらさらと崩れていく愛情。

辛い作業をあえて見据えて行うということが作家の本性でもあると思うし、また越えるにはじっと見つめ、受け入れ、乗り越えていく他ないだろうとも思う。伊藤氏にしたら卒業試験のようなものだったのかもしれない、この作品は。その結果、栄えある賞を受賞できたことは不幸中の幸いだったかも。

二人が別れ行く最後の日、思い出の場所を辿るというデートをする。楽しい、穏やかな一日である。その最後の最後に、敦が切符を買おうとすると10円足りない。あとは一万円札しかない。そこで妻がさっと10円を入れてくれるのである。「離婚届を提出してくれるお駄賃。」と言って。「10円かよ、安いな。」と彼は答える。微笑ましいけれど、笑えない二人。馴染んでいた二人だが、今以上に明日から隔たっていく二人。

そうした二人の関係を、切符を買う、10円足りない、というごく些細な日常の情景で描き出したところは見事である。(とは言え、この設定時代が既に陳腐なものとなりつつあるのかもしれない。何しろprepaidカードなどが主流となってきた昨今では、10円足りないという状況も余り起こらなくなってきたかもしれないから(笑)。ややノスタルジックか。まぁ、伊藤氏は私と同世代なので、まだ現金で切符を買うことにも慣れていたせいかもしれない(笑)。

この10円を巡る挿話は単行本の帯にも印刷されている。単行本を買ったこと自体、私にはひどく久しぶりのことだったので、帯を取ってカバーを眺めてみた。間抜けである。デザインのバランスを帯が本の下部に収まることを想定して作っているので、帯がなくなると間が抜ける。サイケな街のネガ風景。話の内容に合っているし、またタイトルが非常に魅力的だとも思う。暑い8月の最後の日、という設定は「別れ」に対する空虚感を増幅させる。

大切な人と別れゆく時ほど、世界は変わらずに光り輝いている。


それも魅力のうち

2006-09-28 | Weblog
くせ者度チェックなる心理テストを発見したので、やってみた。

結果は、以下のとおり。

****


毒舌も吐く、イジワル系のクセ者

 あなたにはちょっとイジワルなところがあります。気に入らない人には、何かを聞かれてもワザと教えなかったり、相手が困っていても見てみぬフリをしたり……。そんなあなたは、ちょっとイジワル系のクセ者といえそう。イヤミや毒舌も日常茶飯事なので、相手はあなたと会話するのもイヤかもしれません。マジギレされないように、イジワルもホドホドに。


だってさ。
毒舌は確かですねぇ・・・。大学時代のあだ名「毒舌(ここではあえて「じた」と読む)ぽっちり」

うん。でも、なんつぅか、一種の褒め言葉かな。これでくせ者じゃない、とか結果が出たら、その方がつまらなくて哀しい気がする(笑)。

毒舌は私のチャームポイントの一つですから。(おい)
凹んじゃう人とか、切り替えしできない人は、関わらなくて結構です、って感じ(笑)
あー。だから、嫌われるのか(笑)。

しかも、よく読んでみたらば。「気に入らない人」に対してイジワルするんだから、「普通」じゃないですか、全然(笑)。気に入らない人に愛想良くする方が、かえってあざといべ?私は「イジワル」するんじゃないんですぅ。必要最低限のコミュニケーションに留めるだけ(爆)。

それに気に入らない人って、大抵向こうもそうだから、大して気にならないよね?(笑)
お互い様。



楓の木の下で

2006-09-27 | Weblog
朝。出社前の一服をしていると、雨がようやく乾いたかに見えるコンクリのベンチ部分に小さな青黒い粒がいくつか落ちていた。5mm立方程度の、まるで小さなかぼちゃのように筋ができている粒である。辺りを見回すが、他のベンチに落ちている気配はない。座っている真上が楓の木なので、ひょっとして種なのだろうかと思った。見あげるが、それらしき物体はない。

はて?
分からない。

毛虫の卵だったりしたら嫌だなと思いながら、手を伸ばしてみるとやはり思ったとおり種のように固かった。種か?楓の種なんて見たことがないし、分からないな。

気になったので、二つばかり煙草ケースに入れて会社に持って行った。会社について早速、(どうせさほど急ぎの仕事はなかったし)楓の種をネットで調べてみた。きちんと広場で楓の種類も確認してきたので名前も分かる。

しかし、意外にネットでも楓の「種」というのは出てこないんである。葉の形なんかはよく紹介されているのだがね。結局、確認はできず、そのまま疑問を抱えたまま仕事に取り掛かった。

昼過ぎから物凄い豪雨になったが、終業間際には雨も上がったようである。帰り道に再び広場の楓の木に寄って、あいかわらずベンチに座って煙草を吹かす。朝、固かった残りの種たちはそのままベンチの上にあった。しかし、昼間の大雨のせいでひどくふやけている。

青っぽいぶにゃ、とした物体に変わっている。丁度、ドッグフードを水につけてふやかしたらこんな感じになるだろうと思われる。また、物好きにも私はそのふやけた種を触ってみた(笑)。やはり想像通りのぶにゅ、という感触である。

そこで、疑問が湧いた。
さて、これは一体なんであろうか?
種が水を吸っただけでこんなに柔らかくなるだろうか?

まさか何かの糞じゃあるまいな。
(後生大事に一日煙草ケースに入れて、持ち歩いていたのに(笑))

疑問である。
なんのなのか、とても知りたい。



新鮮

2006-09-26 | Weblog

朝はまだ薄っすらと陽が射していたのに、オフィスにいる間に雨が降り出し、そのうち激しい雨足になった。

仕事が終わって、外の喫煙所で一服と思っても、殴りつけるような雨。一番激しい時に出てきてしまった。それでも木陰で傘をさして、一服しようとするこの喫煙者の意地はなんだろうか。ジーンズの裾びしょ濡れやん。

自宅近くに帰ってきてもまだまだ雨足は弱まらず、帰宅して数時間し、さて、風呂にでも入ろうかと思ったところで物凄い勢いで降ってきた。ごぉぅ~~~っ、というような音。

ウキウキ

途端に父がドタドタと私の部屋に殴りこんできて、
「窓開けてないだろうな!」とのたまわった。

・・・。
流石に窓は開けないでしょうよ。

「バケツをひっくり返したみたいな雨だぞっ!」


いや・・・。
表現としては知っていたが、実際に口に出されたのを聞いたのは初めてであった。
私はたいそう感心してしまった。

感心ついでに雷まで鳴り始めたわい。




ペギーよ、歌え!

2006-09-25 | Weblog
夕食が済んでから、父とTVを見ていた。歌番組か何かの紹介で、父の世代くらいの人が好みそうな層の懐かしの歌手が紹介されていた。何人か顔が映った後、ふいにペギー葉山が映った。

(あ。ペギー葉山だ。)

あいかわらず、そっくりだなぁと思う。

彼女はとても母に似ているのだ。(母が彼女に似ているとも言う。)
化粧の仕方まで似ている。

私は、なんとなく椅子に座ってTVを眺めている父の横顔を見つめた。
ペギー葉山の画像が消えてから、父は静かに視線を一瞬落として、何度か考え込むように瞬きをした。

それはほんの一瞬の出来事だった。けれども、私は父も母を思い出していたのだということが、なんとなく分かってしまった。

もう離婚して15年以上経つ。一緒に暮らした年月の2/3近く、離れて過ごして経ってしまっているにも拘わらず、やはりこういう画像を見ると思い出すのだなと思った。彼らは離婚してから一度も会っていない(はずだ。(笑))何度も母に対して暴力を振るって、母の目の周りがどす黒く痣になっていたこともあった。夜、度々聞かれる泣き叫ぶ母の声や人がどしんと倒れる音。

そういうものに囲まれて、多感な時期を私は過ごした。

そんなことがあった夫婦でも、やはり父は思い出すのだなと私は思った。
一瞬の父の目の動きでそれがわかってしまったからこそ、私は何も見なかったことにした。

そう。
私は、何も見なかったのだ。


ペギーよ、歌え。
高らかに。





墨流し

2006-09-24 | Weblog
家を一歩出ると、金木犀の香りがどこからともなく漂ってきた。甘い、切ない香り。

先日会った元彼から昼過ぎにメールが来ていた。昨夜の逢瀬の帰りしなに、この週末に会いたいと言われ、私は「そんな気分になったら連絡するわ」と返事をしておいた。もっと賢く、週末は予定があるとでも言えば良かったのだが、咄嗟に嘘をつけなかった。

メールには「昨夜久しぶりに会えて良かった。そして、昨夜君に会ったことで、どこかで抱いていた間違ったノスタルジーを払拭する事ができたように思う。明日から日本を去るまでまた忙しくなるから、会うのはまた二年後にしよう。」

私の気持ちを読んだな、と思った。それでも、差し障りなく日本庭園でも散策しても良いかもしれないと思い、(そこにはわだかまったような、やや重い気持ちも確かにあったが。せっかく日本に来ている旧友に良い時間を過ごさせてあげたいとも思っていたから。)いくつか候補を調べていた。あぁ、用なしになったなとほっと肩の荷を降ろすと同時に、その文面を読んだ時、すっと冷たい風が胸元をすり抜けていくような気もした。

なんと遠くまで来てしまったことだろう。
かつては自分の肌よりも近しい存在であったのに。

それでも、これでいいのだと思った。もう何年も会っていなかった昔の恋人に今更何度も会った所で隔たれた距離は戻らない。時は確かに私達の間を通り過ぎていた。そのことを彼も感じたから、こんなメールを送ってきたのだろう。日曜まで待って、何の連絡もないと確認するのが嫌だったのだろうなと思った。とても、彼らしい振る舞いのような気がした。

どこか薄ら寒い気持ちを抱えたまま、気分転換に買い物にでも行こうと出かけた。欲しい物が特にあるわけでもなく、出かけるとお金を使ってしまうからいけないのだが、こんな気分の時はぱぁっと買い物してしまうのもよいと思い直した。

金木犀の香りが辺りに漂っていた。ふと、泣いてしまえたら楽だろうにと思った。

駅前のアウトレットは物凄い人手であった。どうやらこの週末に何か近くでイベントが行われているらしく、普段の週末とは比べ物にならないような人込みで駅前は溢れていた。外国人もいくらかいる。が、どいつもこいつも性的に魅力がないことこの上なかった。いっそのこと火炎放射器で一掃できたらいいのに、と心の中で苦笑した。

見るともなく店を回る。取り立てて必要な物があるわけでもなく、ただぶらぶらと見ているだけである。買いたくないのに買い物に来ている私は少し奇妙だと思う。

行きつけの靴屋に寄った。レンガ色とサーモンピンクの中間色のような靴を見つけた。つま先の部分が扇を開いたように生地を合わせたやや珍妙な形だが、実はなかなかこれが楽な靴である。モスグリーンの似たような形のものとこのレンガ色の両方のサイズを店員に聞いてみたが、さすがアウトレット、サイズは揃っていない。紅い靴の方しかなかったのでそれを試してみた。まぁまぁ良さそうだったのでそれを購入。色が気にいっていたので、使い回しはきかなそうだったが、まぁいいと思った。何となく買い物をして、すっきりしたかったのだ。

ふらふらと店を渡り歩いているうちに、辺りはすっかり暗くなった。日が暮れるのが早くなった。いつのまにか夏は行ってしまった。煙草休憩でベンチに座っていると、二人組みの女の子が通り過ぎた。

「日が暮れるのが早くなったね~。」
「なんだか、寂しいよね~?」
「そう。寂しい~~。」

そうか。あなたたちのような若い娘でも、やはり秋は物寂しいのか。そんなことをふと思う。

いつもよりイベントの人手で混雑したバスに揺られて、最寄のバス停で降りる。降りた途端、金木犀の香りが漂ってきた。前を歩く、ギャル風の女の子のヒールがカツカツと鳴り響く。

金木犀の香りに酔いながら、元彼との時間はまるで「墨流し」のような時間だったと思い返す。水に墨を落すと、ふわっと広がる。曖昧で、捉えどころのない文様を描く。10年以上も前に恋仲だった人との時間は、どこまでも柔らかい膜に包まれたような時間だった。触れようとしても、もはや届かない。届かないという事実を、こうして私達は数年に一回、繰り返し確かめている。確かな時間は、遠い過去のもの。それを真正面から笑って眺めることのできない、私達だったように思う。

一人、風に吹かれて家路を辿った。
辺りに立ち込める甘い香りに涙ぐみたくなるような、そんな宵だった。



価値観の相違

2006-09-23 | Weblog
子供話が続く。

子供の頃、右と左が分からなかった。自分の右と左が分からないということではない。
普遍的な右、左なる価値観が幼い私には分からなかったのだ。自分の左右は分かる。しかし、人と向きあった時、自分の右は「相手の左」になる。自分の左は「相手の右」になる。そういう半ば混乱した状態であるのに、左右を断言して言えるという概念が私には分からなかった。

そして、そのことを大人に説明しようとするのだけれど、大人は私が「右と左」が分からないのだと思ってしまうのである。そうじゃないのに、自分の左右は分かる。けれど私の左右は、別の人の右左かもしれないでしょ?それを簡単に左右と言ってしまってどうして通じるのだろか?という疑問だった。

今でも私は左右を指示する時に、やや混乱する。「向かって左」とか言われても、「誰からだよ?」と思うのである。

しょうがない。
分からない時は、まっすぐ進むに限る(笑)。



さらに幼い頃、混乱した事例に「釣銭」がある。一万円だして、3000円の買い物をしたら、お釣りは7000円である。当たり前である。

だが、私は「一万円を出した人は損をするじゃない」と言って親を困惑させた。お釣りを7000円もらうんだから、少しも損をしていないでしょう、と。これも当時説明をしても理解はされなかったのだが、私は一万円札の価値のことを言っていたように思う。一万円札で支払われた方は、3000円の値段に対して、一万円札を貰い受ける。7000円は釣りとして返さなければならないけれども、次回全く別の機会にその人は一万円札を3000円ではなくて、「一万円」として使えるじゃないか、という妙な論理である。

無論お釣りは支払っているのだから総体的には収支は合っているのだけど、3000円の値段に対して支払われた方は一万円札を入手でき、次回は一万円の価値として使えるじゃないか、と。

やや複雑である。書いていて自分も訳が分からなくなった(笑)。
結局そういうものだと納得して、今はスムーズに買い物もできる。

しかし、この貨幣の価値さえ昨今では危い。紙幣そのものがそのうちなくなって、どんどんvirtualな価値観になっていくようである。数字だけが右が左に動いていくようになる。EdyだのDebitカードだのが、普通になる。携帯サイフとか。

近頃の子供は貨幣価値を勉強するのも難しいかもしれない。
なんせ見えなくなってきているから(笑)。
まだ、手にとって実感できるアナログな時代に生まれて、良かったとしみじみ思う。(笑)

しかし、こう振り返ってみるとワタクシって相当なおバカさんだったのかもしれない(爆)。(そういえば、未だに金勘定は苦手だ。)


素晴らしい誤解

2006-09-23 | Weblog
向田さんの書いたお話の中で、歌の歌詞を取り違えて記憶していたという話が「眠る盃」にある。春高楼の花の宴、巡る盃の「巡る」を向田さんはずっと「眠る」だと思っていたというお話である。

似たような話は掘り出すとたくさんあるものだが、私はとりちがえていないけれど、イメージとして履き違えた覚え方をしている歌としてMy Bonnieがある。

My Bonnie is over the ocean
My Bonnie is over the sea
My Bonnie is over the ocean
Oh bring back my Bonnie to me
Bring back, Bring back~♪

と続くアメリカ民謡だかアイルランド民謡だったかだと思うが、これが私が始めて覚えた英語の歌であった。小学校5年生の時の担任の先生がなかなかイカシタ女性で、まだ英語教育もなかった時代にこの歌をHRか何かの時間に教えてくれたのだった。

子供の時の記憶というものは凄いもので、この歌の歌詞は絶対に忘れない。意味が英語として分かったのは、随分と後だったはずだが、その時は意味も分からず暗記していた。

そしてこのBonnieを聞くと私はなぜだか馬のポニーを思い描いてしまうのである。本当は愛しい女性の名前であり、故郷を思うような歌なのだと思う。が、私のイメージでは船で去っていく(出稼ぎか?)少年が、海の彼方に残してきたポニーを思って歌う、というわけの分からないイメージなのである。

不思議と度々記憶に蘇って、この歌を口ずさんだりしてしまう。当時一生懸命教えてくれた先生の様子、教室の今一つ乗り切っていないクラスメイトの様子と合わせてこの歌を思い出す。あの先生は、子供たちに少しばかりスパイシーな大人の味を教えてくださった先生だった。



もう一つ、まったく歌とは関係ないのだが、勘違いしていた例として「アジの開き」があげられる。よく干物でみるぱかっと開かれた鯵である。

うちはそんなにお金持ちの家庭ではなかったからよく鯵の開きが食卓に上っていた。幼い私はてっきり鯵の開きを、「そういう魚」だと思っていたのである。いや、名前がそうだと思っていたのではなく、あの開かれた形のまま、海の中を泳いでいるのだと思っていたのだ。すごいセンスである、わし。大人となった今では持つべくもないシュールなセンスだ。

カレイやヒラメのように、ああいう平べったい魚で海の中をガンガン泳いでいる姿。

もそっと常識持てよ、とわれながら突っ込みたくなる。
そして、ある日、もう少し大きくなってから、あれは「鯵」という魚を開いたものだと知った時の驚きといったらなかった。小鯵のフライなどもよく食卓には上がっていた。まったくそれは別物だと思っていたのである。本当は普通に、「普通」の魚の形をしているのだと親に教えられても、にわかには信じがたかった。

なんて素敵な勘違いだろう、と今では思う。(笑)
アレがそのまま泳いでいたら、私はぜひ見てみたい。余りに素敵だ(笑)。

大人になるということは、なんと残酷なことだろう。
数々の素敵なファンタジーが泡となって消えて行ってしまうのだ。


目覚めれば、私はただの大人になっている。




秋のせい

2006-09-21 | Books

向田邦子の「眠る盃」を読了。
今朝方まで藤沢周平の「暁のひかり」を読んでいた。よって、寝不足である。
午前中に届いたアマゾンからの宅急便に着物本と、向田とあともう一冊。

さくさくっと着物本を読み、午後は向田に取り掛かる。
今日は夜が長い。
夕飯が早かったのだ。だからそれ以降の時間がたっぷりある。夜長だ、夜長。

ところどころでホロホロと泣きながら、しかも何に泣いているかも良く分からない。
秋のせいかもしれない。くすっと笑い、じぃんと目元が潤みながら向田を読む。

友人にメールで「秋かねぇ?」と尋ねると「めちゃめちゃ、秋だよ」と断言された。
そうか、めちゃめちゃ秋なのか、と繰り返してみる。そういえば、拙宅の階段辺りでどこからともなく金木犀の香りが漂ってきた。そうか、秋なのか。噛み締めながら再び本に目を移した。

不思議なもので、心に残っているはずなのに、読んだ直後に私は彼女の話を忘れてしまう。清涼すぎるのだろうか。(単に若年性痴呆症、という噂もある。)

今度調べてみようとか、食べてみようとか、行ってみようとか。
思っている事はたくさんあるはずなんだのに。

父が相変わらず抜かりなく買ってきてくれたお彼岸のおはぎを食べながら、そうか、秋なのかと当て所もなくつぶやいてみる。

紅い彼岸花の群生が見たいな、とふと思った。




壁が好き

2006-09-21 | Weblog
予定が狂った。
外国人の元彼がやってくるので、気に入っているこじんまりとした日本家屋の料理屋に連れて行ってやろうと思っていたのに、生憎と予約で一杯であった。料理はまずくはないが少々味付けが濃いこともあり、さほど料理自体には感服していない。が、雰囲気のせいか人気があるのだな。まぁ、週末でもあることだし。

さて、困った。
近くの神社の中にも料理屋があるらしいので、そこにも連絡をした。が、一向に繋がらない。繋がらないという時点で客に対する対応がダメだと思うので、とりあえずやめておいた。

以前友人と散歩していた時に見かけた、小道の奥にある料亭風の店を探してみた。うどんすきで有名な店らしい。そんなもんだろと思う程度の感触はあったが、困った事に私は「すき焼き」があまり好きではない。幼少の頃、すき焼きのしらたきを食べ過ぎて、吐いたのだ。それ以来、長いことすき焼きは食べられなかった。今では食べる事はできるが、あえて選択肢があるのであれば、「食べたい」とは思わない。生卵につける、というのも余り好まない。しゃぶしゃぶの方が断然好きである。

牛肉の煮た匂いがあまり好きではない。ので、昨今話題になっている「牛丼」なぞ私は眼もくれない。なくても一向に構わないし、食べたいならそもそも安全な肉で自分で作ればいい。脳味噌ぶよぶよのリスクを負ってまで食べたい代物ではない。

ということで、うどんすきの店も微妙に食指が伸びない。店構えの雰囲気はとてもよかったのだが。それなりの値段(と言っても、普通の飲み会に毛が生えた程度の予算しかないが)を払うのに一度も足を運んだ事のない店を選ばなければならないというのもなかなか辛いものである。相手はまぁ、何でもいいというだろうし、さほど気にしない事は分かっている。特に彼が食べられないものもないはずなので(納豆くらいか。)なんでもいいがせっかくなら和食の方がいいし、どうせなら旨いものの方がいい。なんせ私も付き合わねばならんのだから。(笑)

入った事はないが、コースもあるという小さめの割烹をネットで選んでみた。当たりと出るか、ハズレと出るか。(相手が元彼という時点で、既に十分ハズレだが・・・。(笑))ぐるなびに載っている様じゃダメな気もするけど(笑)。

いっそのこと普段いけないような高級料理店に予約を入れて置けばよかったかしら?(でも私、気取ったのは嫌いである。綺麗過ぎると落ち着かないし、ボーイさんに後で待っていられるのも気になって嫌である。部屋の隅っこにいると落ち着くタイプなのだ。壁が好き。(笑)

いい店だといいなぁ。(しみじみ)
そうすれば、奴のマシンガントークも適当に聞き流して、いい店を知ったということでプラマイゼロになるんだがなぁ(←食べるくらいしか楽しみがない、今回に関しては(笑))。


おいっ!

2006-09-21 | Weblog

ネットショッピング。商品が確定したという確認のメールが来た。
ん?
何か、足りない。
一品、足りないでしょう。

足りないのは、SDカードだった。
そして今回の買い物はそれが買いたいが為の注文だったのだ。
余計な化粧品とかはおまけみたいなもので・・・。

お~い~~~。
それがないと困るでせう、私。
デジカメのSDカードが一番欲しかったんだよぅ。くそっ!

なんだかなぁ。
所詮、ネットショッピングか。ちっ。


あの頃

2006-09-19 | Weblog
思い出してしまった。昔の話。
渋谷駅でのけんか(笑)。

O君と付き合っていた頃の話。その日はデートの約束はしていなかったけれど、用事が済んで帰る間際になって、ふいに寂しくなって彼に会いたくなったのだ。そう、彼は今日何か用事があると言っていたのだ、確か。電話してみると、「今どこ?」と彼は尋ねた。

彼に会いに行くのなら電車で数駅。また、着いたら電話をすると言って切った。

改札をウキウキして出て、彼を探した。彼が気づくより早く、私の方が気付いた。
どくん、と心臓が早鐘を打つのが分かった。

彼の隣にいるのは、職場の後輩の女の子だった。可愛らしくて、おしとやかな素敵な女の子。彼の年に見合うような、若い女の子だった。二人で私に会う為に待っているのだから、浮気じゃないということは分かっていた。頭の片隅では。でもどうしようもない怒りが沸きあがってきて、彼らに気付かれないようにその前を通り過ぎた。

通り過ぎてドキドキした気持ちのまま渋谷駅を出て、物陰に隠れながら(笑)、彼に電話した。

「やっぱり今日は帰るわ。用事って彼女と会うことだったのね?なんでさっき電話した時に彼女と一緒にいること言わないの?」

「はぁ?彼女はただの友達だよ。君に挨拶したいっていうから、一緒に待っていただけじゃないか。今、どこにいるんだよっ?」

ああ、ほんとに彼女には悪いことしたなぁって思っているのだ。今だって。結構懐いてくれていて、彼と私が付き合っていることを知って、挨拶をしようと思ってくれたのだろう。そんなことは、分かっていたのだ。女の子と会うのがダメだと言うのでもない。

彼がそれを一言も私に言っておかなかったことに腹が立ったのだ。友人と会っていると知っていたら、わざわざ渋谷にまで出てきて呼びつけるようなことはしなかったかもしれない。

とにかく、この時の怒りは凄かった。自分でも今思うと笑ってしまうくらい、怒っていた。最終的には彼は彼女に謝って帰ってもらって、私を探しに来た。その時の情けない顔と言ったらなかった。でも、そういう風に振り回されてくれる様は、かなりかわいかったとは思う(爆)。

その後、二人で朝まで一緒にいて仲直りをしたのは、言うまでもない。(笑)

渋谷駅のあの場所を通りかかると、つい思い出してしまう。
よく無茶をしたし、させたなぁ(笑)。

お互い、若かったんだわねぇ。今のあなたが、数年前の私と同い年くらいで。
あなたは違う物を見るようになったんだろうかね、あの頃とは。