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『精神現象学』における男女の性愛--女性の擬態的な受動性について

『ヘーゲルと現代思想』より 欧米のフェミニズム--ボーヴォワールからミルズヘ

ヘーゲル哲学における女性の役割を『精神現象学』のテクストのなかで考察しておこう。ヘーゲルの主著『精神現象学』の「理性的な自己意識の自分自身による現実化」と「快楽と必然性」のところで論じられる「性愛」の考察を通じて、ヘーゲルが女性をどのように位置づけているかが明らかになる。

ヘーゲルの『精神現象学』は、「理性的な自己意識の自分自身による現実化」と「快楽と必然性」のところでは、ゲーテの悲劇『ファウスト』をもとにした議論がなされている。それはたとえば「快楽」であり、「単純な個別的な感情」であり、この箇所で問題とされるのは、ファウストとグレートヒェンとの恋愛である。個別性の感情の享受として挙げられるのは、快楽の享受である。具体的には、ゲーテの『ファウスト』のなかのファウストとグレートヒェンが題材に挙げられる。それに対してヘーゲルの『精神現象学』では、世界に対して理論的・観察的態度を取る段階から、行動を通じて自分自身を自己実現する段階への転回において、行動するファウストが登場する。書斎で学問を探求するファウストに魅入ったのは「知と行為の普遍性という天に輝く精霊」ではなく、「悪魔」であるメフィストフェレスである。そこでは、個人的な快楽の追求は、動物的な欲望であり、もっとも低次の感情として挙げられている。だからこそ、快楽を享受しようとする自己意識は「生命を取る」と言われるのである。

 自己意識が自分に生命を取るのは、熟れた実が摘み取られるようである。すなわち、熟れた実が摘み取られると同時に自分から迎えに来るようなものである。

ゲーテの『ファウスト』では、グレートヒェンは摘み取る者を自分から迎えに来るようなものとして描かれている。すなわち、受動的であるように見えるが、実際には女性による媚態や美しさ、女性らしい振る舞いによって男性を誘う擬態的な受動性として描かれているのである。快楽の享受において、女性は受動に見えるけれども実際には自分から仕掛ける存在として振舞っているのであり、女性が「女性らしさ」を追求するのは、このような擬態的な受動性を身につけるためである。ゲーテの『ファウスト』では、メフィストフェレスが、ファウストと遭ったグレートヒェンについて、「むすめのほうもまんざらではなさそうです。とかく世間はそうしたものだ」と言及するのが、この「自分から迎えに行く」擬態的な受動性ととらえられる。この意味においては、女性が「女性らしさ」を追求し、美しさを身にまとうことは、人間が生物であり、人類の種の繁栄のために「自然」なこととしてとらえられよう。女性が「自然」に課せられた役割として自ずから受動性を身にまとうのが、男女の性愛関係ととらえることができる。すなわち、ヘーゲルの議論において、女性は本性的に受動的であるのではなく、受動的な役割を女性が自ら担い、演じているといえる。

へーゲル『精神現象学』の「自己意識」章では、自己意識同士が生死を賭けた戦いを行い、両者のあいだで相互承認がなされる。それに対して、快楽の追求においては、他の個体と生死を賭けた戦いをなすことによって、全面的な絶滅へ向かっていくのではない。そうではなく、快楽の享受とは、自分とは別個のものとして存在していた他の個体を自分自身の快楽の対象とし、両者の自立的な自己意識の統一を見ることである。このような快楽の享受とは、他者との統一という肯定的意味をもつと同時に、自分自身の快楽の享受は他者によらなければならず、自分自身を否定するという意味を持つ。すなわち、もっとも低次の感情である快楽の享受によって、自己意識は生命を楽しみ満足を得ようとしたのだが、しかしむしろ他者によらなければ享受することのできない快楽のしがらみに陥ってしまうのである。

ゲーテの『ファウスト』では、ファウストにとってもグレートヒェンにとっても、快楽の享受は悲劇的な結末をもたらす。グレートヒェンの母も兄も赤ん坊も生命を失ってしまう。ここからヘーゲルは、『ファウスト』を題材に用いることによって、感情や快楽といったもっとも低次の動物的な欲望が、人間においては世の中のしがらみや習俗、掟、知識、理論と結びついていることを描き出す。この箇所で女性は、擬態的な受動性を持ちつつ、欲望の対象となる自己意識として描かれる。女性は、受動的に見えながらも媚態によって男性を唆すものであり、男性にとっては世の中のしがらみや現実、他者とのしがらみによって自己が存在することを思い知らせるものとなる。それはまるで「教養小説」のなかで主人公が匿間を経験しながら成長していくように、女性は男性が世を知るために経験するひとつの契機とされている。

ヘーゲルによれば、感情の享受とは、自分一個でなすことのできるものではなく、今度は他者を求めずにはいられない飽くなき快楽の追求となり、他者との統一、しかし自立した二つの自己であるという区別、両者の関係というカテゴリー連関に陥る。ヘーゲルのカテゴリーは存在するものを述語づけるだけではなく、それ自身で概念として展開し、他のカテゴリーと関係をもつ。というのは、へーゲルは理性の働きを対象の分類や区別に限定するのではなく、統一や区別などといったカテゴリーそのものが対象の側からも、さらに自己意識の側からも展開し運動し関係づけられるものととらえるからである。通常、カテゴリーは理論的理性の範囲内で議論されるが、しかし、実践は理論を伴うと考えるヘーゲルは、カテゴリーを理論的理性から実践的理性の領域へもたらすのである。

カテゴリーの連関のなかで、自己意識と他の自己意識が統一しているように見えたのであるが、両者が統一されているように見えたのは、快楽による幻想にすぎなかった。両者は区別された個別の自己意識であり、別々の存在であり、理解し合えるわけではない。快楽による統一と区別という関係のなかでは、もはや自分が一個であることができなくなり、この関係の結果は個別であることを否定するのである。

このように自己意識は快楽の享受を通じて、ヘーゲルの言うところの「絶対的な関係性」に巻き込まれる。家族や習俗といった他の人々との共同を投げ捨てて自分一個であろうとしたが、その結果、むしろ世間のしがらみに陥ってしまう。そして、快楽の享受において女性は受身的に描かれているように見えるけれども、しかし自分自身からこうした運命の必然性にまた巻き込まれに行くのである。快楽の享受は、無慈悲で冷酷な現実として、悪魔的な快楽の飽くなき追求となり、また世間との共同から逃れようとしても快楽を求めようとすることによって、むしろ世間のしがらみに取り込まれる。「個体は生命をとったが、しかしそのことによって、個体がつかんだのは死なのであった」とヘーゲルが述べるのは、個別的な快楽の享受は、むしろ自分が一個ではいられなくなり、悪無限的な快楽へと続く、メフィストフェレスの教唆によるような悪魔的な快楽の苦しみと、「冷酷で、しかし連続的な現実」にぶつかることによる習俗や掟、他者との関連性を思い知らされる。しかし、自己意識にとっては、この現実がなぜ生じたのかを理解することはできない。ヘーゲルは、自己意識が理性的に他者と関係を持つには、まず感情に従って自分自身が壊滅する経験を経て、世のしがらみや空虚な必然性に陥る過程を描き出す必要があった。だからこそ、快楽を得ようとしても得られるのは死であり、没落であり、人間が一個で己の欲望を享受することができないことが描き出される。

ヘーゲルは『精神現象学』のこの箇所で、感情と理性を、受動と能動を、女性と男性に割り振ることはしない。自己意識は個別的な感情を通して、自己意識は現実の世界における理性的なものを見いだす。しかし、女性は、擬態した受動性を装うことによって、他者や共同性と関係するもの、自主的に行動するのではなく男性に従順に従うものとして描かれている。異性としての他者との遭遇は、感情や快楽が自分自身の思いのままにならないこと、家族や周囲の人々との関係といった世の中のしがらみに巻き込まれざるを得ないという、理性的なものへ私たちが縛りつけられていることを知らしめる。この意味において、異性との遭遇は、感情や快楽へ私たちを解き放ち、書斎を出たファウストのように未知の世界へ送り込む。性差は個々の人間のうちで、理性的で無機質的であった世界を感性的で快楽的なもので彩り、理論的なもののうちに行動を、喜びのうちに苦しみを、肉体のうちに精神を、生のうちに死があることを気づかせる可能性を持っている。すなわち、個々の人間が男性あるいは女性という性別であるだけでなく、男性は女性に対して男性的であり、女性は男性に対して女性的である。男性には女性を通じて得られる経験があり、女性には男性を通じて得られる経験がある。そのような異性を通じた経験を踏まえて、感情と理性との絢い交ぜのなかで既存の世界が突き崩されるさまを、ヘーゲルは『精神現象学』で描き出している。

ゲーテの『ファウスト』において、グレートヒェンは女性的原理の担い手として、すなわち「永遠に女性的なるもの」として、男性的原理の根底にあるものとして讃美される。グレートヒェンは、「グレートヒェン・フラーゲ」と呼ばれるように、信仰の問題についてファウストに問いを投げる信仰深い存在としてゲーテによって描かれている。そして、グレートヒェンは自らの生んだ子を殺してしまうのであるが、罪を悔う『ファウスト』第一部の末尾で、天上から「救われたのだ!」という声が響き渡る。ゲーテは女性らしさを讃美しているからのように見えるけれども、しかしそれは男性の立場から見られたものとしての女性である。「永遠に女性的なるもの」としての女性は、学問や論理、理性を探究する男性が持たないものを持っているのであり、男性にとって信仰や従順さ、優しさを備えた憧憬し賛美する対象として描かれている。

しかし、ヘーゲルはゲーテのように女性を「女性性そのもの」のために賛美することはしない。グレートヒェンは、ヘーゲルにとっては、自己意識が快楽を享受しようとするときに現れる他の自己にすぎない。自己意識にとって世のしがらみを作り出すものとして現れてきて、ファウストといっしょに没落する者がグレートヒェンである。ヘーゲルはファウストとグレートヒェンのあいだに、相互的な自己意識同士の承認を見いだしているわけではない。承認関係においては、自己意識のあいだに相互的なやり取りが必要であるが、快楽を享受しようとすることは、自分の意図しなかったものを経験することであるために、そこに相互的なやり取りは存在しない。快楽において論じられるのは、習俗に逆らおうとする悪無限的な男女の性愛が、ついには没落せざるをえないということである。
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外食・中食産業の発展

『現代農業と食料・環境』より 食品加工・流通費増大と農業収入比率の低下 ⇒ 家族制度の変革からスーパーがなくなり、コンビニが拠点化するシナリオが考えられる

外食・中食産業の発展

 高まる食の外部化率

  最近における内食・中食・外食の動向をみると次のようである。 2014年食料消費約69兆円のうち、内食約44兆円、中食6兆円強、外食約25兆円となっている。狭義の外食が約36%、これに中食約9%を加えた広義の外食、つまり食の外部化率は約45%に達していることがわかる。

  こうした食の外部化は、一方で女性の就業化、単身者・高齢者世帯の増加、あるいは簡便化志向といった消費者のニーズによるものであるが、あわせて、これを支える産業の発展が不可欠だったことはいうまでもない。

 外食・中食産業の成長期から成熟期への移行

  1970年以降、ファストフードやファミリーレストランなどの新業態が外食市場の拡大を牽引していった。また、ほぽ同時期に出店がはじまったコンビニエンスストア(以下、CVS)は、現在、最大手では約1万9干店の店舗網をもち調理食品など中食供給の主要な担い手に成長している。これら外食・中食の企業的発展を支えたのは、①チェーン・オペレーションによる多店舗展開、②マニュアルとアルバイトの活用、③集中的な調理・加工、④高度な物流システム、であった。

  1970年以降ほぼ安定的に市場を拡大してきた外食・中食産業は90年代後半に転換期を迎えるにいたった。とくに狭義の外食市場は1997年の29兆円をピークに、また中食を加えた広義の外食市場でみても98年の約32兆9千億円をピークに減少に転じた。食市場が成熟化・飽和化するなか、来客数や客単価の低迷により既存店売上高で対前年割れとなる外食・中食企業が増加し、商品やサービス、ビジネスモデルの見直しを迫られていった。

 外食・中食企業の戦略

  市場が成熟化・狭院化する状況下で、外食・中食企業にとっての戦略は価格訴求型と差別化・価値訴求型とに大別できる。低価格戦略は1990年代後半のマクドナルドが展開した半額キャンペーンや、2009年10月にすかいらーくの低価格業態のガスト店への転換戦略が推し進められ、創業ブランドであるすかいらーく店が姿を消したことは低価格シフトを象徴する出来事であった。

  現在も低価格訴求は外食・中食企業にとって有力な選択肢であることにかわりはない。しかし、食材費や人件費が上昇するなかでは、集客増とコスト吸収の仕組みづくりが不可欠となっている。

  差別化戦略は、当然ながら、さまざまなとりくみがみられる。たとえば、既存業態の修正として、外食企業によるデリバリー部門の設置やCVSによるイートイン・コーナーの設置などが試みられている。また、従来型の標準店の全国展開を見直し、立地や商圏に応じた個店戦略を採用する動きもある。とはいえ、食を提供する外食・中食企業とって差別化戦略の柱はメニュー・商品開発にある。

  消費者の安全・安心志向や素材へのこだわりを受けて、[高品質・新鮮]や「安全・安心」「地産地消」などのコンセプトでの商品開発がとりくまれ、その一環として、たしかな食材・原料を入手するために産地との提携的な契約取引が推進されている。最近では、主要食材を直営農場方式で確保する動きが進展している。顧客に対し、こうした食材・原料の特性や産地・生産者名を店内POPやボード、メニュー、あるいはインターネットを通して伝達することで、来客数や客単価・購買点数の引上げと企業ブランド価値の向上がめざされている。

 世帯構造変化のインパクト

  食の外部化のトレンドを究極的に規定するのは、消費者の生活様式、端的には世帯構造である。すでに「単独世帯」が「夫婦と子」の世帯数を上回り、また2010年に31.2%だった高齢者世帯比率は2035年には40.8%に達するとされる。

  ファミリーレストランが標的市場としてきた「夫婦に子ども2人」というファミリ一層は縮小しつつある。一方、1人暮らしや高齢者など多様な消費者が増えている。食は消費者にとって生存・健康の基礎であると同時に、生活の豊かさの重要な要素である。世帯構造とその生活様式が大きく変容するなか、これからの消費世帯の食生活を支える外食・中食産業の社会的責任はますます重いものとなりつつある。

スーパー・コンビニエンスストアの再編と構造

 小売業の再編と業態の盛衰

  日本の小売業は劇的な再編期を迎えている。『商業統計』によれば、百貨店と総合スーパー(GMS)が衰退する一方、食品スーパー(SM)を含む専門スーパーとコンビニエンスストア(CVS)が成長している。おもに大手企業を捕捉する各業界団体発表の直近デー夕では、2015年度売上高で百貨店が約6兆円、スーパーが約13兆円とそれぞれ90年代のピーク時の約半分および7割台にまで縮小した。 2008年に百貨店の売上高を上回ったCVSは2015年度に10兆円を超え、百貨店との差を広げた。小売業態別の盛衰が明確にみてとれる。ただし、CVSも徐々に成長に陰りがみえはじめ、国内市場はすでに飽和化の段階に入っている。

 成熟市場への小売企業の対応

  日本の売上高上位小売企業(2015年度)をみると、イオンとセブン&アイ・ホールディングスがそれぞれ8兆円、6兆円超に達し、二大小売組織としての位置を占めている。これら大手小売資本グループは、M&A (合併・買収)を通して、百貨店や総合スーパー、食品スーパー、CVS、ショッピングセンターなど多様な業態をとりこみ、売上規模の巨大化を実現してきた。

  しかし、これら巨大総合小売企業の経営業績は必ずしも良好ではない。資本力に任せた統合化は当初期待したほどのシナジー効果を発揮するにはいたっていない。一例をあげると、従来、業態別にばらばらだった商品調達を一本化するとりくみが進められているが、その範囲はいまだ限定的とみられる。

  国内小売市場の飽和化への対応として、アジアヘの店舗展開を本格化させたり、出店コストが少なく商圏の制約を受けないネット事業に進出する動きがみられる。しかしながら、国際化戦略は現地化の必要から長期投資になりがちであり、ネット事業は配送コストや欠品対応などの点で収益性とリスクの両面の課題を抱えている。

 食品小売市場構造と消費者利益

  食品小売販売額上位10社では、食品比率の高いCVSが上位を占め、総合スーパーや食品スーパーがこれに加わる。食品市場の集中度は、上位5社で7割以上のイギリスや上位2社で7割以上のオーストラリアに対し、日本は上位10社で2割強にとどまる。最近、不採算店を閉鎖する動きがみられるが、依然、頻繁なセールに示されるように、店舗間競争は熾烈さをきわめている。

  日本の小売市場における競争状態は、集中度の観点からは消費者主権の実現を阻害する状況にはなく、また店舗密度の高さからも消費者の店舗選択の自由度は依然、高いとみてよい。

  しかしながら、小売店舗密度には地域的にばらつきが大きいことに留意しなければならない。イギリスを中心に論争が戦わされてきたフードデザート(food deserts)問題が日本でも深刻化している。中山間地に加え、高度成長期に開発されたニュータウンでも住民の高齢化により小売企業にとって商圏としての魅力が低下し、店舗の閉鎖を契機に食へのアクセスが大幅に制約される状況が生じている。

 消費者ニーズの多様化・高度化への対応

  20世紀に発展を遂げた多くの小売企業に共通する業態的特徴はスーパー・チェーンという点にある。それは、セルフ方式の標準店を多店舗展開し、商品調達は本部で一括しておこない、両者をチェーン・オペレーションで連結する大量流通システムにほかならない。

  しかしながら、大衆消費社会が終焉し、消費者ニーズが多様化しはじめると、スーパー・チェーン業態の優位性は低下せざるをえない。最近、チェーン小売企業であっても、店舗別・エリア別の限定商品の導入や地域的品揃えなど個店対応を重視し画一的なチェーン・オベレーションを見直す動きが生じているのはそのためである。

  消費者は商品の品質多様性とともに、それを超えた、生産者福祉、環境負荷、地域経済の振興など倫理品質に関心を払う傾向を強めている。そのとき、これに即した商品調達から小売販売政策にいたるサプライチェーン全体の再構築が求められる。地産地消などのローカルなサプライチェーンの再評価もその一環ということができる。
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「赤きリンゴの国」の首都--2区バラの丘と水の街

『ブダペシュトを引き剥がす』より 「赤きリンゴの国」の首都--2区バラの丘と水の街

歴史的に振り返ると、「東欧の大国」というものは存在せず、あったのはただ「東欧を支配した大国」ばかりであった、と言うのである。

ただ、東欧が「受け身の歴史」に甘んじなければならなかったのには、それが占める「狭間」の位置が大いに関係していたように思う。誰もが知るように、東欧はドイツとロシアに挟まれた「狭間」の地域であり、その地政学的な位置が東欧を幸せにも、不幸にもしてきた。そして、この「狭間」の視点でハンガリーを見てみると、世界史的に特殊と言われる東欧の中でも、さらに特殊なハンガリー史の実像が浮き彫りになってくる。

分かり易い点から言えば、まず地理的に、ハンガリーは東欧の中央部、正に「狭間」の「狭間」に位置している。西隣のオーストリアは主としてドイツ系の国民の住む国であり、東隣に接するルーマニアは、ラテン系民族を自称する国であるが、ハンガリーを囲む国々は、ウクライナ、スロヴァキア、スロヴェニア、クロアチア、セルビアとほぼ全てがスラヴ系の国家である。しかも、これらスラヴ系の国々の背後には、チェコやポーランドやブルガリアといった同じくスラヴ系の国々が控えている。東欧の中にあって、ハンガリーはスラヴ人に取り囲まれている、「挟まれている」のである。ハンガリーが「スラヴの海に浮かぶ島」と呼ばれる所以がここにある。

歴史的にもハンガリーは、「狭間」を生きてきた。中世後期以降の、(プスブルク帝国とオスマン帝国に「挟まれた」構図は、その代表例であろう。正確には「狭間」の位置にあっただけではなく、1526年から一五〇年余りにわたってハンガリーは、オスマン帝国の直接支配を被った経験を有している。この時、中世以来のハンガリー王国は崩壊し、国土は三分割された。西部と北部はハンガリー王冠を引き継いだ(プスブルク家の支配下に、東部はオスマン帝国に臣従するものの、辛うじて独立を保ったトランシルヅァニア侯国に、そして中央部と南部がオスマン帝国の直轄領となった。

ハンガリー人からすれば、一五〇年のオスマン支配期も「狭間」の時代、すなわちエピソードに過ぎない時代と考えたいと思っているのではないか、と感じることも多い。千年を超えるハンガリーの歴史からすれば、一五〇年は僅かな例外的な時間であると強弁できなくもない。トルコの遺産の少なさを盾に、オスマン帝国のハンガリーヘの影響力が限定的だったことを主張することも可能であろう。何より、16世紀から17世紀にかけての時期を「挟む」二つの時代、すなわちマーチャーシュ王の中世と民族覚醒期の近代は、「輝かしい」ハンガリー史の中にあっても、最も輝いて見える二つの時代なのだから。

それゆえ、16世紀と17世紀というハンガリーの近世は、黄金時代に「挟まれた」暗黒の時代として扱われてきた。オスマン帝国との戦いの中で、国土は荒廃し、村々は焼かれ、人口は激減した、と語られるのが通例であった。「トルコ人」がハンガリーに遺したのは、限られた借用語と、北部の都市エゲルに建つ一本のミナレット(尖塔)と、そして南部の都市ペーチの中心部にあるモスク風の建物(現在は、キリスト教教会)とミナレットを備えた小モスクだけだ、としたり顔で多くのハンガリー人が語るのも、ハンガリー史において近世がいかに意味のない時代であったかを、言外に伝えたいがためであろう。

しかし、よくよく目を凝らしてみると、現代のブダペシュトにおいてすら、オスマン帝国の遺産を発見することはさほど難しいことではない。ここでは、オスマン文化の名残りとして、イスラム教徒の墓とギュル・ババ廟、そしてトルコ風温泉について見ておきたい。散策の日的地としては、特にブダの街を巡ってみよう。

イスラム教徒の墓は、ブダペシュトでも何か所かに残っている。例えば、第三章で扱ったタバーン地区を背にしながら、王城の丘の南面を登ってゆくと、あちらこちらの木々の陰に〝きのこ〟がニョキニョキと生えているのが見える。ハンガリー人は、秋になると森に分け入り、きのこ狩りをするのが好きな国民だが、さすがにこんな所に〝きのこ〟は生えてない。〝きのこ〟に見えたのは、イスラム教徒の墓標である。キリスト教徒の墓標に十字架が付き物であるように、イスラム教徒のそれの上部はターバンを模した形をしている。つまり、シルエットが〝きのこ〟状になっている。こうしたイスラム教徒の墓標や墓地は、16世紀以降のブダベシュトを描いた図絵の中にもしばしば認められ、ブダペシュトの攻防戦で命を落とした兵士たちの墓であるとも言われている。

他方、ギュル・ババ廟は、1541年にスレイマン一世がブダとペシュトを再占領した際に、当地で没した要人ギュル・ババ(トルコ語で「バラの父」の意)の墓である。ギュル・ババは、トルコの神秘主義教団の一つであるベクターシュ教団の修道者で、メフメト二世から始まって、バヤジト二世、セリム一世、スレイマン一世と代々のスルタンに仕えていた。16世紀半ばに建てられた八角形の廟は、王城の丘の北に位置する。バラの丘拉にあり、17世紀末から18世紀後半にかけて、一時イエズス会の礼拝堂に改装されたりもしたが、トルコ人を始めとしたイスラム教徒の巡礼の対象地にもなっていた。現在では、周囲も含めて整備され、ブダペシュトでも独特の雰囲気の漂う一画になっている。

ブダペシュトに残る三つのオスマン遺産は、本来、決して珍しい存在であった訳ではなく、ハンガリーとオスマン帝国の関係はむしろ互いに近しいものであった。オスマン帝国では、ハンガリーのことを「赤きリンゴの国」と呼び、スレイマン一世を始めとしてオスマン朝の人々は、それを手中にすることに並々ならぬ情熱を燃やしていた。トルコ文化では、〝赤〟は最も美しい色を表し、〝リンゴ〟とは眼にも、口にも優しい最たる物の象徴であった。1684年に、(プスブルク勢力が、第二次ウィーン包囲から反転攻勢に出て、ブダ城を攻囲した時も、トルコ人の語り部は「壮麗なブダの王宮に被害が及ばないこと」を何よりも願い、アラーの慈悲にすがっている。ハンガリー人とトルコ人の心の距離は、近代人が考える以上に接近していたのである。

翻って、考えるべきは近現代の状況であろう。ハンガリーの歴史学界が「停滞」の時代と見なし、ハンガリー人の多くが「暗黒」の時代と切り捨てる、ハンガリーのオスマン支配期とは、実際には、どのような時代であったのであろうか。当時のブダペシュトの様子を伝える図像や史料を手懸りに、ここではまず、近世期のブダベシュトの真の姿を少しでも明らかにしておきたい。その際、「輝かしい」かもしれないが、重い重い「近代」という名の岩盤を、まずは私たちの心から「引き剥がして」おかねばならない。

最初に、都市の外観を知ることから始めたい。都市ブダペシュトの姿を詳細かつ精確に描いていると思われる、図絵を二つ選んでみた。一つは、旧ハンガリー王国領からオスマン勢力を(ベオグラード以南へ)駆逐したとされる1699年のカルロヅィツ条約から三〇年近くが経過した1728年頃のブダペシュトの姿を伝えるもの。もう一点は、オスマン支配の盛期とも言える1617年頃のブダペシュトを描いた銅版画である。オスマン支配の只中とポスト・オスマン支配期を描いた二枚、また、互いに一〇〇年以上の時を隔てている二枚の図像を比較・検討することによって、初めて見えてくることも多いのではないかと期待する。

少なくとも政治的・行政的には、「トルコ人」を追い出したはずの1728年のブダペシュトの風景を見てみると、ブダにもペシュトにもまだ、何本かのミナレットやモスクの丸屋根を発見することができる。他にも、温泉などの丸屋根も見える。三〇年と言えば一世代を意味するが、街にはまだオスマン支配期を想い起させる遺物がそこここにあったことになる。このことは、体制転換から三〇年になろうとする現在を生きている私たちが、今もなおブダペシュトの街に社会主義時代の「遺構」を見出すことと、本質的に同じ経験であると言うことができる。ただし、どれほど「同じ」であるのかの断定は、なかなかに難しい。
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道路交通法解説

「道路交通法解説」

 分厚いだけで、全然分からない。本当にざる法ですね。何でもかんでも言っておけば言いというものではない。判例もしっかりしていない。羅列も明確でない。金儲けの手段になっている.その為に曖昧にしている。いざという時は、この本から反撃しましょう。

ひめたんお休み

 ひめたんは個握をお休み。これだけでやる気がなくなる。



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