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生ちゃんの生誕祭

生ちゃんの生誕祭

 今日は生ちゃんの生誕祭が個握の幕張であるとのこと。約2か月遅れなのは、ロミジュリで握手会不在だったから、このタイミングになった。二十歳ですからね。17thは握手会に不参加、レミゼは10月まで続くので、当分、ここでお別れですね。

 生誕祭というのは、今までは気にならなかったけど、生ちゃんに関しては、生まれてきて、ありがとうということでしょう。これが実感です。

 生ちゃんは先の世界から、今を見ることで希望を生み出すという生き方をしている。この最近は、10年後から見るのではなく、自分が死ぬところから、今を見ている。そのために、今を一生懸命やれている。

 生ちゃんは自分がハッピーバースデーを歌うのは得意だが、歌われるのに耐えられるだろうか。「ここがホーム」には泣けてきた。これがコミュニティのなせる技。

ひめたんは追い詰められていた

 ひめたんの言動からすると、生ちゃんに対しては尊敬です。天才な上に頑張っている。とてもじゃないけど、追いつかない。

 ひめたんは選抜になって、二期目で限界を感じた。ただでさえ、精神的に不安定なのに。どういうカタチになるか分かりません。どこまで耐えられるのか、耐える必要があるのか。すぅを見ているとかなりの所まで行けるはずです。

 だけど、生ちゃんとすぅは乗り越えられないのは分かっている。

OCR化した本の感想

 『天声人語2016冬』

  車が中途半端だから、事故は起こる。責任転嫁が激しい。老人の後は、自転車乗りだろう。そして、傲慢な人間と傲慢な車だけが残る社会。LとPと外の人間に全体を考えて、先を見る教育が必要です。

 『現代教育概論』

  生まれてきた理由からの教育として、一貫性で考えると画一的な「学校」こそ見直さないといけない。

 『フィリピン』

  やはり、米国が入ってくるのはおかしい。その前のスペインから方向を間違えた。フィリピンの占領からハワイ占領が決まった。アジアの不幸です。なぜ、アメリカはヨーロッパに向かわなかったのか。

 『情報社会の<哲学>』

  「情報社会」の本質は「情報共有」です。共有、つまり、シェア。シェア社会。所有するのではなく、シェアする社会。知をシェアする。これは未唯空間第6章「本と図書館」のメインテーマです。

  リアルな本に拘っていてはシェアできない。コンテンツを使い切ること。本という塊を一度溶解することが必要になる。本の塊は著者とか出版元の都合でできている。読者にとっては意味が分からないものになっている。読者が組み立てられるようにしていく。ネット放送で今、起こっているように。

 『反知性主義』

  「反知性主義」を手がかりにアメリカの歴史を辿ってきたが、最後にこの言葉のもつ意味の広がりをもう一度順番に整理しておこう。知性から見直している。イギリスでの反ハーバードと、日本の半東大とは意味合いが違っている。日本には、知性というモノは元々ないのだから。多神教との違いなんでしょう。念仏を唱えれば済んでしまう世界に知性はいらない。

 『貧困と闘う知』

  本当に学校というもの、先生という人が居るのか。情報共有を配置の考え方からすると見直しが必要。学校教育と生涯学習の一貫性を阻んでいるのは就職。ということは会社から見直していかないと行けないことになる。
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学校教育の制度を改革する

『貧困と闘う知』より 教育--通わせるか、学ばせるか 教育を普及させる--伝統的アプローチ 学校教育への参加を促す 知識の伝播 ⇒ 本当に学校というもの、先生という人が居るのか。情報共有を配置の考え方からすると見直しが必要。

教員のモチベーシーンが生徒たちの成功のいちばん重要な要素であるにしても、教員たちの出勤を徹底的に監視するような極端に単純なプログラムは、必ずしも一般に広げられるも・のではない。とすると、発展途上国の教育制度を改革して教員のモチベーションを向上させるには、どうしたらよいのだろうか。

親にすべての権力を?

 ほとんど決まり文句のように、親が教員をもっと厳しく監視すればよいのだ、と言われる。親たちは学校のすぐ近くにいるので、そこで起きていることを理解できるし、いちばんの関係者でもある。親たちにより多くの権力を与えれば、学校の業務は改善されていくはずである。現実に評価を受けたものはごくわずかだが、この原理はあまりにも真面目に受け入れられており、現在、世界銀行から援助を受けようとすれば、受益者の参加を保証する計画をたてることが義務づけられている。インドもその例外ではない。「サルバ・シクシャ・アビヤン」(万人に教育を)というプログラムは、教育の質を改善することを目的とした野心的な公共政策である。このプログラムの一環として、インドの連邦政府は二〇〇六年から○七年に様々な州に千億ルピア以上(国内総生産の〇・二パーセント)を配分した。さらにこのプログラムは、すべての村に学校評議会を設立することを計画している。親たちの代表はこの評議会に参加し、学校の財政状態と教室運営を点検することになっている。この評議会は、臨時契約の教員を地元で採用する権限も有している。

 しかし、理論と実践の距離は遠い。これらの評議会は、書類上は二〇〇一年から存在していることになっているが、実現する見通しは立っていない。二〇〇五年、ウッタル・プラデーシュ州のジャウンプル地区の親たちに評議会について質問してみたところ、九二パー七ントは評議会の存在を知らなかった。評議会の委員になっている親の名前を少なくとも一人挙げることができたのは、質問を受けた親たちの三パーセントだけだった。さらに深刻なことに、委員たちの四分の一は、自分たちが評議会に入っていることを自覚していなかった。そして、自分が委員だということを白覚していた者も、評議会の役割、とりわけ補助的な教員を採用できる権限のことは知らなかった。このように評議会の存在は死文化していた。

 すでに紹介したインドの「プラタム」は、市民を動員することで、教育にかかわる政府の政策を補完しようとする組織だった。「プラタム」は、法律が定めた教育制度の内部において親たちが役目を果たせるように奨励することで、これらの委員会の再生を試みることにした。「プラタム」は各村で数日を過ごし、最初は少人数のグループで、その次は村長、校長、教員たちを招いた公開の会議において、親たちと話し合う動員キャンペーンに着手した。そこでは、村の教育状況や、それを改善するために評議会や親に与えられた手段に関する討論が行われた。いくつかの村では、ボランティアたちは集会の前に研修を受け、子どもたちに簡単な学カテストを受けさせ、村の生徒たちの知識の状況について一覧表を作成する方法を学んだ。そして「プラタム」は、いくつかの村において、私たちがすでに言及した「リード・インディア」のプログラムを導入した。村の集会の後でボランティアを募集して、子どもたちに読み方を教える集中講習を推進する訓練を行うように提案したのである。すでに指摘したように、「リード・インディア」のプログラムはたいへん効果的だった。講習はほぼすべての村で行われ、ダ均してfどもたちの八パー七ントが講習を受けることになった。伝統的な教育制度の外部にあっても、只体的な行動の展望が開かれれば、ボランティア(おょび生徒たち)を動員することは可能なのである。こうした選択肢が提案されないままで動員キャンペーンだけが行われた村では、「プラタム」の努力には何の効果もなく、親たちの関与にも、教員たちの態度にも、学校に割り当てられた資源にも、成績にも、まったく変化はなかった。

 パキスタンのパンジャーブ地域では、LEAPS(「パンジャーブの学校における学習と教育の達成」)と呼ばれるプログラムが、ランダムに選ばれたいくつかの村ですべての生徒が受けた学カテストの成績について、すべての親に詳しい情報を提供した。親には自分の子どもの成績だけでなく、同級生および地域の他の学校の生徒たちの成績も知らせた。その一年後、このプログラムが実施された村では、私立の学校、とりわけ最初は成績が低かった私立学校ではテストの成績が改善されたが、公立の学校ではほとんど変化がなかった。平均より低い結果が出ていた私立学校の親たちは校長に不満を訴えたが、公立学校の親たちはそのような反応をしなかったのである。ここでも同じ結論が認められる。情報を提供すれば親たちの行動が促進されるけれども(教育は親たちが関心を持つ課題であることが証明される)、それは、わりあいに直接的な行動が可能な時に限られるということである。インドやパキスタンのような国においては、公立学校の教育の質が低下したことにより、私立学校は補助金を受けていないにもかかわらず、公立から私立に多くの家庭が逃げていくことになった。そのような事情も、ここから説明できる。

 しかし、こうした結果はどこでも見られるものではなかった。別の実験では、より楽観的な結論が得られた。ケニアにおいては、学校への財政支援によって教員の採用を促進するプログラムの一環として、評議会に資金が供与され、ここが教員を採用することになった。さらにプログラムの学校の半数では、評議員になっている親たちに対して、あるNGOが一日の研修を提供した。親たちは、この研修の場で、資金をどう使ったらよいか、また、資金が小学校一年生の学習を改善するために最良の方法で使われているかどうかを確かめるにはどうすればよいかを学んだ。これらの学校では、研修を実施せずに資金を配分した学校よりも、よい結果が得られた。マダガスカルの政府は、それぞれの学校のために、各校の財源、退学率、卒業試験の結果を他校と比較して非常にわかりやすく示すダッシュボード〔一覧表〕を作成した。これらの資料を単に配布するだけでは効果が上がらなかったけれども、NGOが親や教員に集まってもらい、この一覧表について話し合い、学校が直面する主要な問題を特定し、それらを解決するための行動計画を策定するように求めた学校では、成績が改善した。

 実施された様々な実験の結果を分析しても、公立学校において親の関与を増やすことが常に有益か、それとも常に無益か、といった結論を引き出すことはできない。コンテクストに依存する重要な変数としては、学校の自律性の程度(学校の運営はケニアでは非常に分権化されているのに対して、インドやパキスタンでは集権的に行われている)があるかもしれないが、私たちは、問題のすべての要素を制御することはできていない。結論として言えるのは、「参加」を呪文として唱えるだけでは不十分であり、親たちの委員会を設けさえすれば効率性が保証されるというものではまったくない、ということである。情報を与え、親を動員しようとしても、行動の組織化に比較的ストレートに役立つような手段を考え出さない限り、親が行動を起こすとは限らないのである。

学校の民営化?

 教育に公的資金が投入される際の対象は、公立校に限定されるわけではない。いくつかの国々(たとえばチリ)では、すべての子どもにバウチャー〔サービス引換券〕が配布されており、バウチャーを公立学校と私立学校のどちらで使うかを決めるのは、子どもたち自身である。フランスでは私立学校が国と契約を結び、生徒数や、公式カリキュラムとの合致の程度に応じて国から援助を受けているが、この制度も大きく異なるものではない。観察者の多くは、発展途上国では民営化が教育の質に著しい改善をもたらすだろうと結論づけている。なぜなら、教員はより大きな監督を受けることになり、親は活動的な消費者になるからだ、というのである。評価はこの点について何を物語っているだろうか。

 民営化の帰結について考察するにあたって最初に検討すべきは、同世代の子どもたちの多数派が公立学校に通っている状況のもとで、私立学校の存在が子どもたちにどのような影響を与えるか、という問題である。経済学者の専門用語では、これは「部分均衡」の問題である。コロンビアでは、バウチャーはくじ引きで配布された。その結果を調べてみると、くじに当たった者はしばしば私立学校に入学することが示されている。くじの「当選者」のほうが達成度が高い。つまり、就学期間が終わってみると、かれらのほうが、よりよい成績で高校を卒業し卒業試験に受かっている確率が高い。

 今日のコロンビアでは、私立学校のほうが公立学校よりも優れている。しかし、バウチャー制度が一般化されたら、公立でも私立でも教育の供給のあり方が大きく変わっていくことになるだろう。公立学校が競争の圧力に応えるならば、もしかすると公立校の教育は改善されるかもしれない。しかし、フランス郊外のいくつかの中学校がそうなっているように、公立学校に残るのは、もしかすると最も貧しい生徒たち、あるいは学校にまったく興味のない生徒たちだけかもしれない。モチベーションが最も高い生徒たちの需要に応じるために、新しい私立学校が現れるだろうが、それらの質はまったく違うものになるだろう。おそらく最終的には、学力や社会的階層によって、学校の間の子どもたちの分布が変わっていくことになるだろう。

 ここまでくると、小規模な実験を行っても、政治的な判断を導き出すために私たちが必要としている答えは得られないことがわかる。実際、民営化の総合的な影響を知るためには教育市場全体のレベルで実験を実施しなければならないのだが、そんなことはまだ行われていない。インドでは、アーンドラ・プラデーシュ州で現在行われている評価の一環として、村落あるいは村の中のグループのレベルでランダム評価が実施されている。特定の場所においてすべての子どもたちがバウチャーを受け取り、使うか使わないかを決めることができる。それぞれの村は互いに十分に離れており、はっきり異なる教育市場を構成している。こうやって、民営化が特定の教育市場に対してどのようなインパクトを与えるかを研究することはできるだろうが、それが教員の選抜や、より長期的な他の要因に対してどのような影響を与えるかについてはわからない。

 バウチャー制度がない国々(インドやパキスタン)でも、あるいは、子どもを公立学校へ通わせたくない親は私立学校の学費を全額支払うことになる国々でも、教育は部分的に、事実上民営化されている。インドの主要五州の都市圏では、子どもたちの半分以上が私立学校に通っている。農村地区でも、少数派とはいえ大勢の子どもたち(ウッタル・プラデーシュ州では三七パー七ント、パキスタンでは二二パーセント)が私立学校に通っている。このようなコンテクストにおいては、バウチャー制度や私立学校への補助金は、公立学校が本来の役割を果たしていない現状を追認するものになるだろう。しかし、バウチャーが最も貧しい子どもたちに授与されるか、または最も授業料が安い私立学校を対象とするものであれば、それは、すでに私立学校を選択した貧しい家庭に対して資源の再配分を試みていることになるだろう。

 明確な政策によるものであるにせよ、そうでないにせよ、おおむね民営化されているこれらの教育制度のもとでは、親に情報を与え、学校に関して最もよい選択ができるようにすることが重要である。実際、民間七クターは規制から完全に自由である。つまり、誰でも学校を開くことができるし、学校が異なれば教育の質はまったく違ってくるのだ。しかし、親自身が読み書きができないことも多く、親が学校の違いを理解することは必ずしも容易ではない。バウチャー制度には、認可を受けられる最低限の教育の質を保証することを学校に強いるという利点があり、そのことは親の選択の助けになる。しかし、その上うな制度が存在しない場合であっても、政府がその役割を果たすことが重要である。

 学校の質を評価することは、残念ながら難しい。試験の平均的な成績は、教員の質よりも生徒層を反映する(フランスでは高校のランクづけをめぐって同じ現象が起きてい邑。標準的な最低水準の質を保証することが、必a不可欠な第一歩だと思われる。しかし、学校の質について親により多くの情報を提供することも同じように有益である。すでに指摘したことだが、学カテストの結果を親に提供したパキスタンのLEAPSプロジェクトは、公立学校の生徒の成績には影響を与えなかったものの、親のより大きな関与を通じて、私立学校の生徒の成績の大きな向上をもたらした。「教育は民営化すべきか、せざるべきか」という二元論的な問いを発するだけで満足してはならない。それよりも、現状の教育制度のもとで親たちに同伴しながらベストの結果を導くにはどうしたらよいか、と問いかけてみたほうがよい。
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「反知性主義」の言葉がもつ意味

『反知性主義』より

知性とは何か

 まず、知性とは何か。「知性」は「知能」とどう違うか。ホフスタッターもこの二つを区別していろいろと説明しているが、いちばんわかりやすいのは、二つの言葉の使い道を見てみることである。「インテリジェント」なのは、人間とは限らない。「インテリジェントな動物」はいるし、「インテリジェントな機械」はある。しかし、「インテレクチュアル」な動物や機械は存在しない。「知能的な動物」はいるか、「知性的な動物」はいないのである。つまり、「知性」は人間だけがもつ能力である。

 この歴然たる用語法の違いは、何を指し示すか。「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という人格や自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは、知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。だから、犯罪者には「知能犯」はいるか「知性犯」はいないのである。

知性をもつのはどんな人か

 次に、そのような知性をもつのはどういう人か。「インテレクチュアル」は、形容詞でなく名詞として、ある種の人びとを指すこともある。日本語でいう「知識人」のことである。これも、単に「知能の高い人」というより、その知が人間性全体に働いて影響を及ぼしている人のことを指すだろう。

 このような意昧での「知識人」という言葉の使い方は、実は案外新しい。「インテリゲンチア」という言葉がロシア語系の由来であることからもわかるように、それは社会の改良や革命に関心をもつ左翼知識人を指す言葉として登場した。『オックスフォード英語辞典』最新版によると、今日「インテリ」と略して使われるこの用法は、一九世紀末フランスで起きたドレフュス事件に際して被告擁護の論陣を張った文化人らに由来しており、しばしばエリート主義への鄭楡を伴っている。

 ただし、知識人はしばしば、みずからそのような権力や制度の一部となる。だから、知識人として生きることには、どうしてもある種の矛盾が伴う。彼らは、自分自身は階級的なエリートでありながら、民主的な大義を信じている。一方では民主制社会の善を信じていながら、他方でそれが結果する文化の大衆化や卑俗化を嫌う。自分が大衆を教育し啓蒙する立場にあることを自覚してはいるか、あまりそれが進みすぎると、自分たちとの差がなくなってしまうことを危惧しなければならない。赤くなったり青くなったり、サディストになったりマゾヒストになったり、何ともは。や複雑な人種である。いずれにしても、「知性をもった人」「知識人」「インテリ」というのは、自分白身の考え方や主義主張や立ち位置に対して、何かと自覚的にならざるを得ない人のことである。

反知性主義とは何か

 ということは、「反知性」の意味も、単に知の働き一般に対する反感や蔑視ではない、ということである。それは、「はじめに」に書いたように、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。知性が欠如しているのでなく、知性の「ふりかえり」が欠如しているのである。知性が知らぬ間に越権行為を働いていないか。自分の権威を不当に拡大使用していないか。そのことを敏感にチェックしようとするのが反知性主義である。もっとも、知性にはそもそもこのような自己反省力が伴っているはずであるから、そうでない知性は知性ではなく、したがってやはり知性が欠如しているのだ、という議論もできる。どちらにせよ、反知性主義とは、知性のあるなしというより、その働き方を問うものである。

 知性が大学や研究所といった本来あるべきところに集積され、それが本来果たすべき機能に専念していると見なされる場合には、反知性主義はさして頭をもたげない。しかし、ひとたびそれらの機関やその構成員が政治権力にお墨付きを与える存在とみなされるようになったり、専門以外の領域でも権威として振る舞うようになったりすると、強い反感を呼び起こす。つまり反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である。知的な特権階級が存在することに対する反感である。微妙な違いではあるが、ハーバード・イェール・プリンストンヘの反感ではなく、「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」への反感である。特定大学そのものへの反感ではなく、その出身者が固定的に国家などの権力構造を左右する立場にあり続けることに対する反感である。日本なら、ここに「東京大学」などと代入すればわかりやすい。

反知性主義の存在意義

 反知性主義がなぜアメリカで力をもつのか。それは、アメリカがあくまでも民主的で平等な社会を求めるからである。ローレン・バーリッツは、ホフスタッターとほぽ同時期の著作で、学界と産業界との産学協同、シンクタンクや政権アドヴァイザーなどに対する強い懸念を示している。学者が大企業や政権から資金を得て研究を進め、原子力政策やその安全性に関する世論操作に加担し、消費者運動や反公害運動を抑制する役割を果たすなら、それらに批判の目を向けるのは、ある面では健康なことだろう。ここに、反知性主義の正当な存在意義がある。

 ビリー・サンデーの生きた時代には、教会にも社会階層に従って席の上下があった。野球場ですら、ヒ等なボックス席と雨ざらしの外野席があった。しかしリバイバル集会では、テントの中の同じ簡素なベンチに、大銀行の頭取とすすけた炭坑夫とが隣り合わせで座る。この平等意識がアメリカ人を芯からしびれさせるのである。リバイバリズムは、野卑だが民主的で、力ある者に向かっても怯むことなく顔を上げることのできる根拠を人びとに提供した。マッカーシーは、同じ手法で「神」の代わりに「反共アメリカニズム」を据えたにすぎない。彼もまた、戦闘的な平等主義をもって時の権力者に刃を向けた人物である。彼自身が反知性主義の自己反省力をもっていたようには見えないが、少なくとも彼にエールを送ったのは、時代の反知性主義であった。

 キリスト教世界の中でアメリカだけに強く見られる反進化論の風潮も、単なる「宗教」対「科学」という構図だけでは理解できない。ノールという研究者が『神と人種--アメリカ政治を動かすもの』という最近著で明らかにしているように、彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられているからである。これは、本書で見た大きな政府に対するセクト主義的な警戒心の表出に他ならない。

 ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人びととは主に南部諸州を中心とした「バイブル・ベルト」の地域にいる人びとである。彼らは、自分の子どもたちに何を教えるべきか、ということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた災議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。反知性主義は、ここにも衣現されている。少なくともその攻撃性は、「反科学」というより「反権力」に由来すると理解した方がよい。

 近年のアメリカでは、政府の役割を最小限にし、個人の自由を尊重する「リバタリアニズム」が若者たちの間に大きな広がりを見せているという。彼らの目指すところは、民主党と共和党という二大政党のシステムではもはや吸収しきれない。「小さな政府」は伝統的には共和党の掲げる理念だが、同性婚や大麻の合法化といった主張は共和党の価値観とは相容れないからである。こうした若者たちの動向は、やがて大統領選挙にも影響を及ぼすだろうが、これは政策綱領うんぬんの話であるよりは、ただ「ほっといてくれ」と言っているだけのようにも見える。本書が辿ってきた歴史の経緯からすると、これもアメリカという国家の奥深くに宿る「セクト主義」魂の表出と捉えることができる。

反知性主義のゆくえ

 アメリカ的な福音のメッセージは、「誰でも回心してまじめに生きれば救われる」というものである。だからそれは、どん底の暮らしをしてきたサンデーにも、また彼をモデルにした映画の主人公のガントリーにも、希望を与えるのである。どんなに堕落と放蕩の人生を送っていても、回心と再生の希望は誰にでも等しく与えられている。そして、信仰による救いは、この世の成功を一緒に連れてきてくれるのである。

 つまり、アメリカ人にとって、宗教とは困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。神を信じて早起きしてまじめに働けば、この世でも成功し、豊かで健康で幸せな人生が送れることが保証されるのである。逆に、悪いことをすれば必ず神の審判を受けねばならない。

 エルマー」ガントリーが神の「審き」を口にする時、それは売り上げの減少のことであり、「救い」というのは商売の成功のことである。町から町へとセールスに回っていた彼は、ある安宿でたまたま「ギデオン聖書」を見つけて読む。その翌日に大きな商談が成立すると、彼は祈るのである。「ありがとうございます。神さま、これはわたしが売ったんじゃありません、あなたが売ってくれたんです。」

 かくして、宗教的訓練はビジネスの手段のIつとなる。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰をもちなさい。それがあなたを道徳的にし、人格的にし、そして金持ちにしてくれるー-これが、二〇世紀以降のリバイバルで繰り返されるレトリックである。信仰は、この世の成功を保証してくれるのである。第二次大戦後には、ノーマン・ヴィンセント・ピールの「ポジティヅ思考」がアメリカを席巻した。マッカーシー上院議員が知識人や連邦職員を次々に「共産党員」として告発し血祭りにあげていたまさにその同じ頃、ビール牧師の出版した『積極的考え方の力』は、三年続きのベストセラーとなり、多くの言語にも翻訳されて世界中にアメリカ精神の明るさと楽天性を印象づけていたのである。実に奇妙な取り合わせだが、これがまさに反知性主義のアメリカである。
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情報社会の本質は何か

『情報社会の<哲学>』より ⇒ 「情報社会」の本質は「情報共有」です。共有、つまり、シェア。シェア社会。所有するのではなく、シェアする社会。知をシェアする。

昨年四月にアップルから時計型端末Apple Watchが発売され、Googleのメガネ型端末GoogleGlassも試験段階を終え、製品化へとその歩を着実に進めつつある。また八月にはソフトバンクから家庭用ロボット端末Pepperの一般販売も開始され、いよいよ人間がロボットと〝共生〟する社会が幕を開けようとしている。二〇一五年は、ウェアラブル元年といわれ、ロボットや人工知能が人間の能力を超えるという「シンギュラリティ」(特異点)の問題もまことしやかに語られ始めた。そして二〇一六年は日本で「マィナンバー」制度が波乱含みで本格始動する年である。「情報社会」論の草分けである増田が一九六〇年代末に初めてその青写真を提示した〝電子政府〟が、インターネットを介して〝国民〟をネットワークに組み込むことで愈々総仕上げの段階に突入した。「私たち全部にソシアルナンバーがつき、総理大臣の選挙がテレビ電話による国民投票によって行われ&。こういった時代がやってくる」という増田の予言、というよりむしろ悲願の達成まであと僅かの道程である。

 情報社会は今や新たなステージを迎えつつあるといってよい。

 だが、そもそも「情報社会」とは何なのか? 曰く

  ・「情報」財が「物」財と並んで、重要な価値として認められ、それが商品として流通する社会。

  ・物理的な暴力によってではなく、「情報」操作によって人々をコントロールする管理社会の新しい形態。

  ・日々、洪水のように押し寄せてくる「情報」から、〝正しい〟情報を選別する批判的メディアリテラシーが必須となる社会。

 等々…

これらの答えは「情報社会」の或る相、「現れ」を指摘し得てはいる。だが決して「情報社会」の総体そして本質を捉えてはいない。それらは飽くまで「情報社会」の〝露頭〟であり〝効果〟に過ぎない。複数の〝露頭〟はその根底にある〝地層〟という構造物(更には〝マントル〟という運動体)の一部に過ぎず、〝効果〟〃もまたその〝本体〟の存在と機能を前提している。では、もう一度問おう。「情報社会」の〝地層〟〝マントル〟部分あるいは〝本体〟、すなわちその本質は何か?

結論を先に言えば、それは諸〈メディア〉が構成する閉じたシステムである。「情報社会」の底流で嘉いているもの、それは、「インターネット」というメディア技術を軸に自己組織化する〈ネット-ワーク〉というメディア・システムである。一九八〇年代に登場し、一九九五年に社会インフラとなったインターネットは、今や、既存の旧メディア、すなわち、テレビ、新聞、映画などのマスメディアはもちろんのこと、書籍(活字メディア)や手書き文字、更には声メディア(すなわち対面的コミュニケーション)までをも、その傘下に組み込むことで、それら既存メディアの社会的機能を組み替えながら、〈ネットーワーク〉メディアを主導的なメディアとするこれまでにないメディアの〝生態系〟、メディアの〝オートポイエーシス・システム々を完成させつつある。そして、このシステムは近い将来、(ウェアラブル、ロボット、AIを介して)われわれの視・聴・嗅・昧・触という感覚(身体メディア)までをも簒奪し、〈メディア〉生態系に組み込んでゆくであろうこともほぽ確実である。

既存の〝情報社会〟論が、「実証性」を口実に、極めて皮相な時流批評や断片的な現象解析に終始してきたのは、〝情報社会〟を--先に数例挙げた如く--メディア技術によって引き起こされた可視的な事象の総体としてしか把握してこなかったからである。これを〝他山の石〟としつつ本書では、様々な時事的現象の根底に〝在って〟運動している不可視の「情報社会」〝本体〟を分析と考究の対象としている。すなわち本書は、マクルーハンによって唱道された、「これまでの人類史とは、主導的メディアが形作ってきたメディア生態系、メディア・パラダイム--マクルーハンはこれを「銀河系」(galaxy)と称する--の変遷の歴史であった」とする〈メディア〉史観の光の下で、またルーマンによって構築された、社会を従来のように〈人間〉のぷ代数和〃や〈人間〉的行為応酬の。合力‘と見るのではなく「非人称的コミュニケーションの連鎖的持続」として把握する社会システム論を援用しつつ、Google 、bigdata、SNS、ロボット、AI、ウェアラブル、情報倫理、といった具体的で個別的な現象を分析の俎上に載せ、それら現象の底で稼働している、不可視の〈メディア〉生態系(そしてそれこそが「情報社会」の本体である)を白日の下に晒す試みである。

本書は、形式的・表面的には、その間に「情報社会」が驚くべき進化を遂げた二〇一〇年から一六年にかけての、情報社会関連の時事的なトピックや話題を扱っている。にもかかわらず、その本意は個々の現象の分析そのことにではなく--繰り返すが--「情報社会」そのものの存立構造とメカニズムを暴き出すことによって、それを「脱構築」することにある。その意味において、本書が標榜するのは表層的現象の解析とその集積に過ぎない〝情報社会〟「論」あるいはその「批評」ではなく、本書のタイトルが示すとおり飽くまでも「情報社会」の〈哲学〉すなわち「情報社会」の、マルクスが謂う意味での〈体系的批判〉である。

以下に本書全体の見取り図として、各章の概要を記す。

「序章」では、誤解に基づいてこれまで不当に過小評価されてきたM・マクルーハンに新たな光を投じて、その思想の〈検証=顕彰〉作業を行う。マルクスの唯物史観にも比すべき「メディア史観」の唱道者としてマクルーハンを位置づけ、既存の「情報社会」把握に、彼のシステム論的把握を対置することで、以降の議論における前提的了解の読者との共有を図る。

本論の前半部分では、「Google」「ビッグデータ」「SNS」という三つの〝露頭〟を「情報社会」。本体・に斬込むための突破口として設定し、情報社会トータルの輪郭を「知識」「情報」「データ」そして「コミュニケーション」という主題系に即しながら描き出すことを試みる。

インターネットを主導的メディアとする情報社会のパラダイムを、常に牽引してきた立役者の一つがGoogleという企業であることに異論をはさむ者はあるまい。Googleは世に存在するあらゆるデータの収集・蓄積と、それを元にした自己運動する巨大なデータベースの構築という手法によって、それまでの「知識」観のコペルニクス的転回を成し遂げた。「第一章」ではGoogleをギリシャ時代の神話からコメニウスの汎知学を経て百科全書へと続く「知識」論の系譜の中に位置づけることで、Googleの企図が持つ文明史的意味を戻り出す。と同時に、「情報社会」における〈知〉のあり方の変貌とその機制を論定する。

「統計学は最高の学問である」という一頃流行ったセールストークに反し、インターネットを主導的メディアとする情報社会は、統計学をむしろ時代遅れのディシプリンにしつつある。なぜなら統計学は、データの全数解析が原理的に不可能な時代の、サンプルデータによるモデル(仮説)構築とその検証(検定)が基本だからである。だが、現在のビッグデータにおいては全てのデータが手に入るがゆえにモデルは何の用をもなさない。それどころか、ビッグデータは動的特性を本質とするがゆえに、そもそもそれとして対象化することすら難しい。「第二章」では、統計思想の歴史を辿り、それに接続させつつ、ビッグデータの本質を、マルクスが分析した「資本」の運動にも比すべき、「情報」と「データ」との交替的増殖の過程の〈主体=実体〉

ルーマンの社会システム論は、その過度の抽象性からくる難解さによって大方の読者に敬遠されがちである。現実の社会把握や社会分析には役に立たない空疎な概念構築物に過ぎないと鄙楡されもする。だが、実はルーマンの社会システム論の抽象性は、情報社会そのものが持つ抽象性を把握するために不可避かつ不可欠である。「第三章」では、TwitterやFacebkkoに代表されるいわゆるSNSによって、情報社会におけるコミュニケーションが極度に抽象化されており、その理論的把握を可能にするのが社会システム論にほかならないことを明らかにする。また、ルーマンの「社会システム論」とマクルーハンの「メディア史観」の親和性と相互補完的な関係性を本章で確認し、後半の分析に際しての方法論的な足場を固める。
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