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未唯空間第5章「仕事」

仕事編での提言

 第5章仕事編。これは現役の時ではなく、今思うと、という観点でまとめていきます。仕事は自由にやってきた。求められるモノではなく、自分が求めるモノをやってきた。これができたのは大きな会社だったからでしょう。見張られるやり方が違っていた。

 やっている人間がある意味では善意的でした。やりたいことは持っていたが、方向は持っていなかった。各自の影響力を考えるとやればいいのにと思えたが、細かいところを中心にやって居る人が多かった。自行程完結に守られていた。本来やるべきことをやっていない連中は社長を含めて嫌いだった。

 まともな提言だけはしておきます。守らなくてもいいけど、本来こうだと言うことを述べておく。

部品表はヘッドロジックで処理

 部品表に対して、ヘッドロジックだけですべて片づけた。これだけで、巨大なデータベースをといえども、ロジック一つでコントロールできた。これがどういう意味を持ってくるのか。それが配置の考え方、個と全体との関係を規定していた。

 部品表という、型式からのハイアラキーを示しているモノを技術者の観点、部品の観点で見ていく。それによって、全体を構成していくというロジック。1970年代の最高のマシンを独り占めして、自由にやっていた。日本語に対応したIBMシステム360およびシステム370。

人工知能で挙動解析

 研究開発部門で面白かったのは、人工知能です。個別の挙動が全体にどう影響するのか、全体から個別をどう扱うか。今、考えると、その部分を知りたかった見たいです。

販売店は中間の存在

 販売店というものが何故、必要なのか。そこで何をすればいいのか、市民から考えた時にクルマはどうなっていくのかが最終的な問題意識だった。メーカーとお客様の間に立つ販売店をどうしていくのか、全体の構造はどうなるのか、先はどうなっていくのか。

 販売店経営者へのヒアリングはその問題意識から出てきた。勝手にやっていた。名古屋はそういうことをベースにすればいいのに、まるで考えていない。メーカーでは方向性が掴めない。というよりも、持っていない。

未唯空間を始めた理由

 社会を変えて、メーカーを変えるしかない。では、社会とは何か、どこから変えていくのか。未唯空間で全体を知り、先を考えることを始めた。断片的な現象だけではなく、全体としてどうなっていくのか。それを数学的にアプローチしないと分かったことにはならない。自分が納得できればいいだけです。

 最後はクルマ社会をどうしていくのか。クルマ社会が目的ではなく、その先の世界の姿を知りたい。今の車はあまりにも中途半端であることが明確になった。では、どうなっていくのか、どういうカタチになれば、納得がいくのか。どうも、シェアがキーワードですね。

シェアがキーワード

 シェアが「情報共有」につながっていることにビックリした。販売店システムでは情報共有をキーワードにしていた。これはFacebookの理念であり、グーグルの理念ともつながっている。グーグルでは「知」と表現されているが。

 グーグルは個人の力を使うことで儲けるという仕組みを作り上げた。モノを経由するのではなく、直接、個人を使うことで儲ける。

ラスト1マイル問題

 モノを使えば、ロスが発生し、リスクが発生する。アマゾンは物流がネックになる。アマゾン本来の形はキンドルではないけど、そういう媒体にコンテンツを配ることです。

 物理的なモノは儲かるし、真似されにくいけど、リスクが高い。最終的にはラスト1マイルでドローン配布が考えられるけど、モノを介在するのは資源の無駄になる。それと同時に、シェアできない。アマゾンが本当にシェアに気付いて、行動を始めたら、日本は勝てない。

バーチャルでの体験

 イベントにしても、何故、東京でやるのか、東京まで行かないと行けないのか。シェアするとは、主体的に味わえるように、バーチャル空間を使って、表現していく。作る方にお金を出して、お金を出さなくても感じられるようにしていく。

 物理的な行動はリスクです。車で走ることは快感を味わうことですが、快感のために物理的に車を走らせるのはリスクです。その快感を自分だけでなく、皆とシェアできること。シェアすることはお金を掛けなくて済む。駐車場が不用になる。

細かいことと大きなこと

 第5章でそこまでの理念が言えるかどうか。細かいことに拘っているように見せながら、結論は先に決まっている。

 これはヘーゲルの歴史哲学でも同じです。自由に関して、細かいことを書いているように見えるけど、自分が拘っていることだけを書いている。アジアのやり方に対して、ヨーロッパのやり方が優れていると言うこと。

 抜けていたのは、ムスリムのやり方の方がもっと上だと言うこと。それに気付くまでに死んでしまった。その上、ヨーロッパのやり方は大きな災いをもたらすことをヘーゲルは気付いていなかった。

 彼の自由はフランス革命の自由です。レミゼの世界です。一時的な開放感、継続しない力が在るが故に新たなリスクを抱え込む。

 今はそれを乗り越えた世界を作ろうとしている。それが超国家であり、個人の多様性を生かした世界、この二つの方向をどうトレードオフさせないようにするか。それが自由と平等に関係することになる。

 未唯空間はあくまでも細かい部分に拘ります。言葉の一つ一つ。大きな部分は自分の内に留めておきます。他者にとっては興味がないでしょうから。サファイアの視点は全体を考えることです。部分をやりながら、大きなことを考える。

配置は全体を考える仕組み

 配置の場合は常に全体を考えないといけない。ハイアラキーとの差です。自己完結しておればいいから、ハイアラキーは楽です。配置は全体から自分の位置を考えることで近傍が生まれる。その近傍でつなげていく。

自分の範囲しか考えない人

 サファイアでもモノつくりの所だけは全体を考えていない。そこが問題ですね。技術者は原爆を作って時は世界がどうなるかを考えない。それを感じたモノはマンハッタンから去って行く。その際も作ることには反対することは少ないでしょう。作ることの楽しみを知っているから。

 販売店で考えたのも、それらのことです。スタッフは自分の範囲でしか考えていない。だけど、経営者はこの先どうなっていくのか、メーカーに頼っていいのか、もっと市民を頼らないといけないのか、そういうことも含めて、全体を考えている。その結果として、車とは関係ないことも行なう。

 だから、経営者にヒアリングしたんです。特に二世は同じことをやっていてはいけないことを知っています。メーカーの三世以外は。

販売店の位置づけ

 販売店で重要なのは、販売店の位置づけです。中間の存在として位置づけられる。それはヘッドロジックから遡ります。

 販売店はコミュニティです。中間の役割として、内側にメーカー、外側にお客様の関係になります。コミュニティの中でユニット〔チーム)という単位でサービスしていく。コミュニティでのツール作りを行なってきた。情報共有という環境で、ネットワーク、ポータル、メッセージ、コラボという考えるためのツールを提供してきた。

5.4.4「いい社会」

 5.4「販売店」の最後に飛躍を入れている。「いい社会」はお客様とメーカーという範囲にとどまらず、お客様の地域に延ばして、町一番を目指している。当然、メーカーも先に延ばして、企画とか理念とつなげている。先の先です。

5.5「情報共有」

 これはシェア社会という観点で見直します。シェア社会の前哨戦でクルマ社会、そこでの販売店の役割を見ていく。販売店システム開発の時に、あれほど、私はコラボに拘ったのか。

 システム会社から提供されたツールに違和感を感じたのは、私の中にできあがった、コラボの世界があり、それとの差異を感じたからでしょう。単にコラボという名前のツールではなく、もっと大きな世界が見えていた。

5.6「パートナー」

 これは接点です。パートナーを際立たせたかった。先の世界をパートナーに見せたかった。そのために、全体を考える技術、先を知って、皆を武装化させる役割をイメージした。パートナーはジャンヌ・ダルク。

 何をどのように使えばいいのかという具体的な事を含めて提言していきます。シェアの世界、人を繋ぐ世界のために何をどう使っていくのか。思いを集めること、重いという概念を作り上げていく。

 もう一つはカタチにしていくところを挙げている。それらはパートナー自身がやる必要はない。やらせばいい。

5.7「インフラ」

 5.7「インフラ」は毛色が異なります。販売店で得たシェアの概念をどのように拡張して、地域を生かしていくのかを示している。それをクルマ社会につなげていく。インフラを作るには何が必要なのか。市民が分化して、覚醒することです。

 地域のインフラを考える時に、車の存在が気になります。車はあまりにも中途半端な存在です。多くの権益で守られている。傲慢な人間に傲慢な車がこの社会を作っている。クルマ社会に向けたインフラを挙げていきます。

5.8「配置」

 ITの考えで再構成する。シェア社会のためのエッセンスです。持つから格差は生まれるけど、シェアなら、使うなら格差は生まれにくい。なぜなら、時間は平等だから。
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OCR化した8冊

『天声人語2016冬』

 数学ロマンティック

 米大統領にトランプ氏

 だれも加害者にしない車

 JR北海道、路線半分が危機

 カストロ氏の死去

 配偶者控除、小幅な見直しに

 アレッポからの避難

『現代教育概論』

 生涯学習社会の学校と社会教育

  生涯学習の意義

   生涯教育から生涯学習へ

   生涯学習推進施策の展開

  生涯学習と学校教育

   生涯学習における学校の役割

   生涯学習の基礎づくり

   生涯学習機関としての学校

  生涯学習と社会教育

   生涯学習と社会教育の関係

   社会教育の定義

   社会教育の特徴

   社会教育の内容と方法

   社会教育職員

   社会教育施設

  学校教育と社会教育の連携 

   学校支援地域本部

   放課後子供教室

『フィリピン』

 地政学でみるフィリピン、そして日本

 東アジアの地政学

『情報社会の<哲学>』

 はじめに

『反知性主義』

 エピローグ

 「反知性主義」を手がかりにアメリカの歴史を辿ってきたが、最後にこの言葉のもつ意味の広がりをもう一度順番に整理しておこう。

 知性とは何か

 知性をもつのはどんな人か

 反知性主義が生まれた背景

 反知性主義の存在意義

 反知性主義のゆくえ

 ポジティヴ病の現代アメリカ

 反知性主義は輸出されるか

『貧困と闘う知』

 教育--通わせるか、学ばせるか

 教育を普及させる--伝統的アプローチ

 学校教育への参加を促す

 知識の伝播

 制度を改革する

 学校を改革する

『貧困と地域』

 社会的孤立と死をめぐって

 社会的孤立を生み出す背景

  大都市の一人暮らし高齢者

  互いの過去に踏み込まない

  日常化する孤立死

 社会的孤立の帰結としての孤立死

  頻発する異状死

  あいりん地区における社会的孤立・孤立死対策

  求められる新たな地縁の創造

『知のスクランブル』

 自分とは何か--存在の孤独な祝祭

  最初の問い

  自分を他の人たちから識別する方法

  記憶の場合で考えるとちょっと不思議

  この基準は自分を選び出せるか

  だれにとってもの自分ではないこの自分

  あなたの存在の意味

  存在の祝祭

 異文化に向きあう--現代ドイツの政治文化

  異文化への関心

  文化と野蛮

  日本とドイツの戦後

  「記念碑」の変容

  「警告碑」さまざま

  ドイツ文化の現在

 社会を「共有」する

  「共有」するってどういうこと?

  生活・経済を「共有」する

  政治・権力を「共有」する

  価値・規範を「共有」する

  情報を「共有」する

 数学は宇宙の謎を解くか

  地球の形と幾何学

  宇宙の形と三次元多様体

  空間の形と懸賞付き問題

  宇宙の形
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価値・規範・情報を「共有」

『知のスクランブル』より

さらに、私たちの「共有」や「管理」についての大きな変化は、それを支える人々の意識や信念の変化とも大きくかかわっている。私たちが、どのような生活を望ましいと思い、どのような社会を正しいと考えるかは、本能や欲求といった内的な要素のみならず、その社会の価値や規範といった外的な要素によっても大きく影響を受けるからである。たとえば、日本でもお父さんお母さんの世代であれば誰もが結婚して子どもを持つのが当然だと考えられていたのに対して、現在では個人の選択によるという考え方も強くなっている。また、アメリカ合衆国などでは、国を守るために軍隊に入った経験があることは最高の名誉とされ、政治家として成功するための重要な条件となっているが、日本でそのように考える人は多くないだろう。このように、人々の選好や価値意識は、その人が生まれ、その人が生きてきた社会の中で、何が価値づけられており、どのような手段や環境が提供されるかと無関係ではないからである。

この点、近代以前の社会においては、親族を中心とした地域共同体の中で、祖先崇拝を中心とした地域信仰が人々の間を結び付け、人々の生きる意味と目的を共同体へと結び付けていた。こうした経済的基盤と結びついた伝統的な価値・規範は、たとえば、地域の中の地位や身分を正当化して、人々に役割を与え相互扶助を義務づけてきた。同時に、人々から移動の自由や職業選択の自由を奪い、伝統に基づく身分差別や性差別を含んでいた点で、現代からみれば多くの問題も抱えていた。また、既に述べたように、生活のために必要不可欠な山林といった村の「総有」財産を、「神々の住む山」「鎮守の森」として神聖視し、地域の信仰やしきたり、伝統で縛ることによって、資源の取り過ぎや、ゴミの捨て過ぎなどを防ぎ、森林を伐採して造成・開発することを抑制してきた。

これに対して、近代化による地域共同体の崩壊と産業化によって都市に様々な価値・規範を持っ’た人が混在するようになると、人々は自由と引き替えに共同的な生活から切り離されていく。過去と未来をつなぐ共同体としての村の伝統的な「総有」財産であった「神々の住む山」や「鎮守の森」が、単なる「私有の寄せ集め」になって初めて、大規模の山林の開発やニュータウンの造成などが可能になる。ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、伝統的・神秘的な説明が力を持だなくなり、合理性によ。て「たたり」や「おそれ」といった信念・信仰が取り払われることを「脱魔術化」と呼んだ。たとえば、日本を代表するアニメ・クリエイターである宮崎駿氏の映画「もののけ姫」が描いたのは、「シシ神」や「木霊」によって守られていた地域の森や共有林が、人間の文明によって「もはや神の住まない」単なるモノとしての山や森へと格下げされるプロセスであった。現代の私たちが住む社会は、魔法が解けることによって誕生したのである。

ところが、共有された伝統や信仰から切り離されて自由になった個人を、今度はどのように互いに結び付け協力させていくかという別の問題も生じてくる。人々が助け合ったり、困った人に手をさしのべたりするために、もはや「神」や「伝統」を持ち出すことはできないだけでなく、「常識」や「当たり前」を持ち出すこともできない。近代社会においては、誰もが最低限の人権を保障されるとしても、それ以上の助け合いや協力関係をどこまで強制されるのかは難しい問題である。近年の日本でも、あらたに保育園を作ろうとすると「子どもがうるさい」といった理由で地域の反対運動が展開されることがある。こうした「自分と自分の家族さえよければ、それ以上のことは自分には関係ない」といった態度は、一九六〇年代から「マイホーム主義」や「家族利己主義」として批判されてきたが、これは伝統や共同体から人々が自由になり、自分のことだけを考えていればよくなった一つの帰結でもある。たとえば、フランスの社会学者エミール・デュルケムは、多くの人が農業といった同じような仕事に従事していた前近代に比べて、人々が様々な職業に従事する近代社会においては、人々を繋ぎ止めるには異なる共同意識に基づく異なる連帯のあり方が求められるとして、前者を「機械的連帯」、後者を「有機的連帯」と呼んで区別している。

このように、経済の変化や社会制度の変化のみならず、それらと深く関わる、宗教や信念、価値や規範意識のレペルにも注目するのが、社会学の特徴の一つである。

最後に、現代社会における情報の「共有」のあり方は、情報の収集・選別・伝達のための特別な手段を持つマスメディアにほぼ独占されていたものの、近年の複製技術とりわけデジタル技術とインターネットの発達によって、大きく変化しつつある。もともと、英語で「情報をシェアする」ことは、「共有」する、すなわち「伝える/教える」という意味になるように、物理的なモノや場所の共有/共用と異なり、情報は「共有」しても減らないことに特徴がある。しかし、写真にせよ動画にせよ口コミにせよ、情報は伝わるうちに、減らないとしても「劣化する」という特徴も持っており、このことが「より本物に近い」「より真実に近い」「よりオリジナルな」情報を求める人々の動機ともなっていた。

これに対して、一九九五年以降、インターネッ卜の普及とデジタル複製技術の発展によって、マスメディアを通じなくても世界中から情報を収集し、名も無い個人が世界中に情報を発信することが可能になる。もともと軍事上の必要から生まれたインターネットは、中心を持だない分散型ネットワークであり、それゆえ匿名で利用しやすいことに特徴がある。また、デジタル(二進法)複製技術によって、理論上一切の劣化なく情報の複製が可能になったことで、情報の「共有」のされ方は大きく様変わりした。とりわけ、二〇〇〇年代からは、高性能な携帯情報端末やSNS(ソーシャル・ネットワーク)と呼ばれるプラットフォームの登場により、既存の国家の枠組みを簡単に跳び越えて、いつでも、誰でも、どこからでも、情報の受信と発信が可能な「ュビキタス社会」を出現させつつある。たとえば、これまで雲の上の存在であった有名アーティストや芸能人と直接のメッセージのやりとりが可能になったり、大規模な事故の現場に居合わせた一般人が高画質の映像と共に中継したり、マスメディアが報じないような情報を直接収集・発信することを通じて、スポンサーの顔色を窺う大手メディアを牽制したり、監視したりといった役割を担いつつある。

反面、こうした誰でも、いつでも、インターネットの網の目から逃れられない過酷な状況は、新たな社会問題を発生させてもいる。たとえば、著作者の権利である「著作権」の保護は、デジタル複製技術によってますます困難になり、国境を越えた海賊版や二次創作の流通と取り締まろうとする側のイタチごっこが続いている。また、世界中に分散するネットワークであるインターネット上にいったん流出してしまった情報は、事実上、完全に消し去ることが不可能であり、個人のプライバシー管理が困難になるだけでなく、別れた恋人が復讐のためにプライベートな画像を流出させる「リベンジポルノ」といった問題も生じている。さらに、従来であれば私的で小さな事柄として見過ごされてきた、未成年飲酒やアルバイトでの悪ふざけが、その日のうちに拡散され、瞬く間に炎上し、即座に社会的制裁が加えられるといった監視社会の利点と欠点にも向きあう必要がある。

このように、新しい情報通信技術の発展によって、情報の「共有」のあり方が大きく変化したことで、従来マスメディアが果たしてきた役割や、直接的・間接的な人々のコミュニケーションのあり方にどのような変化が生じるのかも、社会学にとって古くて新しい重要なテーマである。

以上、駆け足で見てきたが、「共有」というキーワードを通じてこの章で紹介してきたのは、社会学が扱うことのできる膨大な領域のほんの一部にすぎない。みなさんが日々、不満を持ったり興味を持ったりしたことをきっかけに、考えてみたいと思うあらゆるテーマが社会学の対象である。ぜひみなさんの今の一番の関心を大学で「共有」して欲しい。
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生活・経済を「共有」する

『知のスクランブル』より 共有するってどういうこと

「共有」と聞いて、みなさんがまっさきに思い浮かべるのはどんなイメージだろうか。もしお兄さんやお姉さん、弟や妹がいれば、小学校の頃にお姉さんと洋服を共有していたことを、中学校の頃に兄弟姉妹と勉強部屋を共有していたことを思い出すかもしれない。もっと小さい頃に、近所の公園で、ブランコや砂場、三輪車やお気に入りのおもちゃを、友だちと譲りあったり奪い合ったりしたことを思い出すかもしれない。こんなふうに、分けることのできないモノや場所を、複数の人間で、同時に所有したり使用したりすることを、「共有/共用」と呼び、逆に、自分ひとりで独占的に何かを所有したり使用したりすることを「私有/専有」と呼ぶ。もし自分ぴとりで「私有/専有」するのであれば、自分の好きなときに好きなだけ使うことができるし、誰かに遠慮したり相談したりする必要はない。逆に、他人と「共有/共用」することは、ぴとりで好きに使うことはできないかもしれないが、その分かかるお金や掃除の手間を分担して安くあげることができるかもしれない。

最近では、これまで「私有/専有」するのが当然と思われてきたモノが、「共有/共用」されるようになったことが注目されている。たとえば、「オフィス・シェア」と呼ばれる会社のオフィス機能の一部を複数の企業で共用する試みがある。会議室やコピー機のみならず、企業活動に必要な様々なオフィス機能は、かならずしも一つの企業で占有する必要はなく、共有できる部分は共有して効率化を図ろうとしていることが分かる。たとえばまた、「カー・シェア」は、個人の持ち物であることが多い自動車を、複数の個人が共用する試みである。実際、自分の家の車があれば、ガレージに停まっていて使われていない時間を計算してみると、車を個人で所有するのはもしかして無駄が多いことなのかもしれないと思えてくる。たとえばまた、「ルーム・シェア」や「シェア・ハウス」と呼ばれているのは、個人や家族で共有するのが当たり前だと考えられてきた住居を、家族でも恋人でもない他人と共有して共同で生活するというものである。

けれど、よくよく考えてみると、それ以前にも私たちは多くのモノを「共有」して生きてきたし、現在も沢山のモノを「共用」して生きていることに気づく。もう一度、車の例を借りれば、自動車は個人名義で私有していても、(よほどの高級車でもないかぎり)夫婦で共用している方が一般的だろう。また、「カー・シェア」以前から、自動車を利用した時間の分だけ支払う「レンタカー」という仕組みも存在し、そう考えると、タクシーもまた自動車と運転手さんを共有する仕組みであるようにもみえる。そうなると、バスをはじめ鉄道や地下鉄など様々な公共交通機関も、多くの利用者がみんなで移動手段を「共有」することで一人あたりの値段を低く抑えていると考えることもできる。また、住宅の例でいえば、多くのマンシEンは、個人ではなく家族によって共有されてきたし、単身者の住むワンルームマンションであっても、廊下やエレベーターを共有しており、一つの家族だけ/ひとりの単身者だけのために住宅を建てるよりも、効率的に空間を利用している。こうした様々な形の「共有」のあり方にはどのような違いがあって、どこまでを「共用」と呼べば良いのだろうか。

そこで、この章では、私たちがどのように社会を「共有/共用」してきたのかという観点から、現代にいたる社会の変化を駆け足でみていく。そのなかで、社会学という学問分野が扱うことのできる広大な領域の中から、いくつかの切り口を紹介していこう。

まず、時代を少しさかのぼるだけで、私たちは今よりもずっと多くのモノを、ずっと共同的なかたちで共有して生活を支えてきた。それどころか、多くの人々が農業に従事して自給自足的な生活をしていた時代には、一つの家族やたった一人で生きていくことは不可能に近かった。たとえば、農地は二つの家族や一個人によって独占的に所有、利用されるのではなく、村落全体が力を合わせて水を引き、洪水や氾濫を抑えて、ようやく収穫にこぎ着けることができたからである。とりわけ、地域の森や共有林は、動植物など重要な食料の供給源であり、薪や木材など燃料や資材の供給源として、生活に欠かせないものであった。このような日本では「共有林」や「入会」などと呼ばれる個人の所有に還元されない土地の共有や共用の形態は、単なる「共有」と区別するために「総有」と呼ばれてきたものである。

ところが、こうした生活基盤の伝統的な「総有」は、とりわけ一八世紀以降に近代化と資本主義の発展に伴って大きく変化し、家族や個人を単位とする「私有」へと変化していった。たとえば、農地の囲い込みと都市化・エ業化の進展によって、地域共同体と地域の森や共有林を中心とした人々の生活基盤は、徐々に破壊されていく。かわりに、共同体から切り離された人々は都市へと流れ込み、「その日、働いて賃金を稼いで食べ物を買う」ことしか生きる術を持だない大量の「無産労働者」を生み出すことで、産業革命と資本主義経済を準備することになる。その結果、労働者は、自らの責任で、自らの運と実力だけを頼りに、自分と自分の家族の生活を支えなければならないという過酷な時代が幕を開けた。ある者は莫大な富を築き、ある者は貧困に陥り、両者の間の格差は拡大していくことになる(このあたりは、世界史や日本史の授業で勉強した人は、ぜひ思い出してみて欲しい)。いわば、資本主義とそれが生み出す問題は、共同体的な生活基盤の「総有」が、個別の「私有」にとって替わられたことによって加速していったのである。

そのため、近代的な「私有」を前提として、私たちが現在イメージする「共有」も、それ以前の伝統的で共同体的な共有と比べると、極めて個人主義的なものである。たとえば、近代的な「共有」の例としては、兄弟姉妹のうち二人で半分ずつお金を出し合って新型のゲーム機(New Nintendo 3DS)を買ったという場面を想像してみよう。二人で平等にお金を出し合っているので、特に取り決めがなければ、二人で同じ時間だけ使用するだろうし、逆にもし自分だけ全く遊ばせてもらえないなら文句をいうことができる。それでもゲーム機を使わせてもらえないなら両親に訴えて自分が払った代金の半分を返還してもらおうとするだろう。このように一般的にイメージされる現代的な「共有」は、支払ったお金に対応する「持ち分」とその比率が決まっていて、共有者はこの持ち分に従って共有物を自由に使うことができるし、それが妨げられる場合には、「持ち分」の精算を求めることができるような、個人主義的なものと考えられている。

とはいえ、現在の私たちの生活のなかで、全て近代的な「共有」にとって替わられてしまったかというと、必ずしもそうではない。身近な例では、たとえば、二〇年以上続く高校の名門バレーボール部の備品のょうなものを想像してみよう。たしかに、一五人ほどの部員は毎月一〇〇〇円程度の部費を徴収され、ボールやネッ卜の手入れを分担しているかもしれない。そのため、お金や労力を負担しているにもかかわらず、備品を使用させてもらえなかったり、一切練習に参加させてもらえなかふたりしたら、「それはおかしい!」と声を上げることができるだろう。しかし、「部員は一五人だから、この備品の一五分の一は私のものだ」といって勝手にネッ卜一枚とバレーボールニ個を持ち帰ることや、その分の費用を請求することは難しい。なぜなら、二〇年以上も続くバレーボール部は、現在の部員一五だけで共有されているわけではなく、高校から支出された活動費によってのみならず、二〇年間同じ場所で汗を流し、部費を払い、用具を手入れしてきた先輩によっても支えられてきたものであり、もはや、何人によって共有されているのかも、誰が何分の一の「取り分」を持っているのかも分からない。望むと望まざるとにかかわらず、現在の部員は、過去にその部活にかかわった仝ての人の恩恵のもとで活動し、同じように、まだ見ぬ未来の部員達にその恩恵を引き継ぐことが期待されている。いわば、備品はあくまで「バレーボール部」という過去と未来をつなぐ共同体によって「総有」されているのであって、現在の個々の部員によって単に「共有」されているわけではないからである。

このように、近代に始まる私たちの生活の基盤を支える経済構造の大きな変化と、個人主義的な競争社会が引き起こす貧困や格差の問題、逆に、現代にも残る共同体による排除や抑圧の問題は、社会学のもっとも重要なテーマのぴとつである。
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社会的孤立を生み出す背景

『貧困と地域』より 社会的孤立と死をめぐって

二〇〇〇年代の初め頃まで、あいりん地区ではホームレス問題が深刻であった。しかし、前章で述べたように生活保護受給か進み、不十分ながらも住居を確保できるようになった。では、最低限度の生活費と住居が得られたら、ホームレス問題は解消されたと言えるだろうか。

本章では、近年のあいりん地区で顕在化している社会的孤立と孤立死に焦点を当てる。なお、孤独死という言葉のほうか二般的であるか、本書では社会的孤立の帰結としての死を論じるため、孤立死とする。

そのうえで、この地域における弔いの実践を論じる。集合的弔いと個別的弔いという二つの概念を活用し、ここに暮らす人々の死のあり方を分析する。そして、社会的孤立や孤立死を主題化したまちづくりの可能性にも触れたい。

大都市の一人暮らし高齢者

 近年、日本では社会的孤立が深刻な社会問題として認識されるようになっている。巷では「無縁社会」という用語で社会的孤立現象が盛んに語られてもいる(NHK無縁社会プロジェクト取材班二〇一〇、橘木二〇一〇)。内閣府『平成二二年度版高齢社会白書』では、社会的孤立か「家族や地域社会との交流が、客観的にみて著しく乏しい状態」と定義されている。また社会福祉学者の河合克義は、貧困研究の大家として知られるピーター・タウソゼントの議論に依拠し、孤独(loneliness)と社会的孤立(social isolation)を分類し、前者を主観的概念、後者を客観的概念だと説明している(河合二○○九)。本章ではこの分類に基づき、あいりん地区における社会的孤立の実態を論じる。

 まず現代日本の社会的孤立および孤立死を捉えるために全国的な統計データを確認しよう。二〇一〇年以降、「単独世帯」が「夫婦と子供から成る世帯」を上回り、もっとも多い世帯類型となったか、この傾向は高齢者においても顕著だ。内閣府の平成二八年版高齢社会白書によると、六五歳以上の単独世帯の割合は右肩上がりに高くなっている。

 一九八〇年には一〇・七%だった六五歳以上の単独世帯の割合は、二〇一四年には二五・三%にまで上昇した。内閣府がおこなった「平成二六年度一人暮らし高齢者に関する意識調査」は、六五歳以上の一人暮らしの高齢者の四四・五%が孤立死(原文では孤独死)を身近に感じていることを明らかにした。また、二ッセイ基礎研究所は全国の六五歳以上の高齢者の孤立死数が年間一万五千人を上回ると推計している(ニッセイ基礎研究所二〇一一)。

 このように社会的孤立や孤立死のリスクを有する者は非常に多い。しかし、河合は社会的孤立が全国の各地域で一様に起こっているわけではないとし、「問題の地域的集中、そしてその地域的な特徴に注目しなければならない」と指摘している(河合二〇一三)。

 こうした観点から国勢調査のデータに基づき、社会的孤立が顕在化しやすい一人暮らし高齢者の出現率(六五歳以上の高齢者のいる世帯に占める単身高齢世帯の割合)を自治体ごとに再集計し、出現率の高い自治体上位三〇位を①島嶼部、②過疎地、③大都市に類型化した。そして、一九九五年から二〇一〇年にかけて、大都市に一人暮らし高齢者か急増していることを明らかにした(河合二○一三)。

 一人暮らし高齢者の出現率上位三〇位に該当する「大都市」の自治体は二九九五年に二件だけであった。しかし、二○〇〇年に五件、二○○五年に一三件、二○一〇年に一六件と著しく増加している。いずれの年でも、「大都市」のなかで突出し工局い出現率を示しているのか大阪市西成区だ。西成区における一人暮らし高齢者出現率は一九九五年に四三・三%、二○○○年に四九・六%、二○○五年に六〇・七%、二○ス‥)年に六六・一%となっており、その増加率には目を見張るものかある。

 以上のデータから明らかなように、大阪市西成区は著しく単身高齢者か多い自治体だ。なかでも、こうした傾向はあいりん地区でより顕著である。

 あいりん地区か「労働者の町」から「福祉の町」へ変容したとされる背景には第3章で述べたように、生活保護受給者の増加と高齢化がある。高度経済成長期からバブル経済期にかけて、あいりん地区は簡易宿泊所が増加し、親族世帯が地域内から姿を消しはじめた。これによって人口の再生産構造か崩壊し、年少人口が激減した。

 近年は元日雇労働者たちの高齢化だけでなく、他地域から生活に困窮した中高年男性が新たに流入したこともあいまって、あいりん地区は著しい高齢社会となっている。あいりん地区か所在する西成区の二〇一四年一〇月時点の高齢者数は約四万五〇〇〇人を数え、高齢化率は三八・三%にも及ぶ。同年同月の大阪市全体の高齢化率は二四・九%であることから、西成区の高齢化率がいかに高いかがうかがえよう。

 なお、あいりん地区の高齢化率は西成区のそれよりさらに高く約四〇%にもなる。しかも、単独世帯か住民の大半を占める。以上のことから、一人暮らし高齢者出現率は西成区の平均をはるかに上回ると考えられる。

 近年のあいりん地区は社会的孤立のリスクがきわめて大きい。社会保障政策の専門家である藤森克彦は東京都港区社会福祉協議会による社会的孤立に関する調査を参照し、「緊急時に支援者かいない」と回答する単身高齢者は、前期高齢者、男性、未婚者、低所得者、賃貸住宅居住者であると指摘している(藤森二○一〇)。

 これらの特徴はすべてあいりん地区の近況に当てはまる。あいりん地区で暮らす人々の多くはこれまで住まいを転々としてきており、地域に十分な社会関係かない。大阪就労福祉居住問題調査研究会が二〇〇六年に刊行した調査報告書『大阪市西成区の生活保護受給の現状』によれば、野宿経験を有するあいりん地区の生活保護受給者の二三%が近隣関係、友人関係、相談相手のいずれももっていない。

 また、同報告書によれば、大半の生活保護受給者かグループ活動・社会活動に参加していない。彼らは生活保護の適用等で、ようやく社会福祉制度に包摂されるようになったか、社会関係からは依然、排除される傾向かある。

 一九七五年の時点であいりん地区の女性人口は全体の約三〇%を占めていたが、その後の居住空間の変容などによって二〇一〇年の時点では約一五%となっている。この間に親族世帯はどんどんあいりん地区から転出していき、単独世帯化か進んだのだ。女性と子どもかほとんどいなくなった昨今のあいりん地区は、人々を結びつけ、相互扶助機能を高める契機が乏しくなっている。

 通常、生活保護を受給するとケースワーカーのサポートを定期的に受けることになる。しかし、これをもって社会的孤立が回避できるわけではない。なぜなら、第2章で詳述したように、西成区は他の自治体に比べて生活保護受給率か著しく高いことから、ケースワーカーの担当世帯数が極端に多く、きめ細かいサポートか困難だからだ。

互いの過去に踏み込まない

 高齢者が子世代と同居することか二般的でなくなった現代の日本では、配偶者を失った後、高齢期を単身で過ごすことはめずらしいことではなくなっているし、未婚率も年々上昇している。二〇一〇年の生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚をしたことのない人の割合)は、男性が約二〇%、女性か約一〇%となっているが、国立社会保障・人口問題研究所によれば、二〇三〇年には、それぞれ一〇パーセント程度上昇する見込みだ。

 このように社会的孤立は誰にでも起こりうる社会問題だが、あいりん地区のそれは「長期性」に特徴がある。あいりん地区に暮らす単身男性は長期にわたり親族との関係を絶っている場合か少なくないのだ。理由はさまざまたが、あいりん地区で日雇労働をしていることやホームレス状態であることを親族に伝えられず、疎遠になっているケースか多い。また、度重なる転居によって親族と連絡かつかなくなってしまったケースも目立つ。いずれにせよ高齢期に入る前から彼らの多くは社会的孤立のリスクにさらされてきたと言えるだろう。

 もちろん、あいりん地区に暮らす単身男性が皆、社会的孤立に陥るわけではない。日雇労働であったとしても、日常的に仕事に従事しているときは、それを通じて一定程度の社会関係の構築ができただろう。しかし、生活保護受給者となり、就労する機会がなくなってしまうと社会的役割の喪失や居場所の不在が新たな問題として浮上する。

 通常、生活保護受給は、住居の確保と最低限度の生活の維持を可能にすることから、社会関係の安定化に寄与しそうなものだ。だか、あいりん地区では逆説的に生活保護受給か社会的孤立を生み出すことがある。その理由となるのか、あいりん地区をぱじめとする寄せ場に特徴的な社会規範(特定の社会や集団のなかで期待される行為・行動)である。

 あいりん地区では、見知らぬ者同士が路上で会話をしたり、酒を酌み交わしたりすることが少なくない。町中に林立する居酒屋からは昼夜関係なくカラオケの歌声が陽気に響いている。一人で立ち飲み屋に足を運んでも、誰かしら声をかけてくれ、会話に困ることも少ない。安くてフレンドリーな雰囲気を求めて、近年はあいりん地区外から足を運ぶ者も多くなっている。

 また、私か現場実習のために学生を連れていると、必ずと言ってよいほど、あいりん地区に暮らす中高年の男性たちが気さくに声をかけてきて、町の説明をしたり、自分の人生を語ってくれたりする。予め依頼していなくても、「語り部」に事欠くことはないのだ。

 このようにあいりん地区は社交的な側面をもつ。一方で、「互いの過去に踏み込まない」という不文律(=不関与規範)か存在する。すなわち、その場限りの当たり障りのない会話は頻繁に見られるが、人間関係を長期的に構築したうえで、プライバシーに関わる話を交わし合うことは一般的ではない。社会学者の青木秀男は寄せ場に特徴的な社会規範を次のように説明している。

 寄せ場は、日雇労働者の流動的な匿名社会である。そこで人びとは、互いの出自や経歴を問わない。また問うことをタブーとする。人びとは名前を通称で呼びあう。それか本名であるかどうかは、問題でない。(青木一九八九)

 では、なぜこうした社会規範か寄せ場で生じるのだろうか。この問いについては、社会学者の西謬晃彦か明確に論じている。

 寄せ場労働者が、漂泊者たることを選んだあるいは選びとらされたのは、何らかの「事情」--彼らが持つ熔印ゆえの「世間」における「肩身の狭さ」、被差別体験、事業の失敗、離婚による生活の激変、借金からの逃亡、解雇といった様々な人に言いにくい事情-を直接、間接の理由としていることがかなり多いように思われる。それゆえに、彼らは、自分たちの過去を隠匿しようとするのである。(西渾一九九五)

 あいりん地区に暮らす者だちか日雇労働に従事していたときは、流動性の高い生活を送ることか多く、不関与規範を守りやすい状況であった。一方、彼らか生活保護を受給すると基本的に定住生活へと移行することになる。こうした生活環境の変化は、従来のあいりん地区で見られた不関与規範を揺るかす。あいりん地区で生活保護受給者の聞き取り調査をおこなった石川翠は、生活保護を受給することによって社会的孤立が生じてしまうことを「生活保護のパラドクス」と呼び、以下のような事例を紹介している。

 不関与規範を土台とする関係から、一歩踏み込んだ関係になれば、「過去」に触れられる恐れがあることに加えて、定住生活ゆえにこれからも何度も顔を合わせることになるだろうことも意識をせざるをえない。それゆえトラブルになれば、これからのアパート内での生活かしにくくなるだろうと先取りして考えるのである。このように住宅内で関係規範の変容を迫られると、転居したり引きこもったりすることによって社会的孤立に至ることか少なくない。(石川二〇一三)

 あいりん地区の社会的孤立が深刻化するなかで、民生委員(厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員)や社会福祉協議会(社会福祉活動の推進を目的とした民間組織)の積極的関与か期待されるか、現状では十分に機能していない。というのも近年、生活保護の受給などを契機にあいりん地区に定住するようになった人々は、基本的に町内会に加入しておらず、民生委員や社会福祉協議会か彼らの生活実態を把握しづらい状況にあるのだ。
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