未唯への手紙
未唯への手紙
コンテンツをバラバラにしよう
コンテンツをバラバラにしよう
著作権をなくすことでできること。多様な編集ができます。テレビコンテンツをデジタル化して、色々な趣旨で色々な観点で言葉をつけていく。乃木坂46時間テレビの内のハイライトをつなげていく。ある観点で見ていく。それによって、コンテンツが意味を持って、影響を与えられる。
24時間TVでは、コンテンツの垂れ流しになっている。CMが邪魔をしている。著作なんて言うものでもないのに著作権に縛られている。だから、つまらなくなっている。ドラマも視聴率という数字だけで終わっている。名場面は見る人によって異なるのに、余分なものばかりです。
全体に対しての著作権はあってもいいけど、個別に対してはフリーにする。本というものには権利があるかもしれないが、場面に対しては、いくらでも加工がききます。
未唯宇宙から始まる世界
私の未唯宇宙はそれらの集合体です。著作権会費のために誤字脱字が存在する。原本と異なる。そこでの「原本」はほとんどが、コピペから成り立っているから、大きな顔をしてもらいたくない。未唯宇宙のようなことをより多くの人が行ない、より多くの人が関心を持てば、コンテンツが歩き出す。
多様な意味を見つける
今は本という中にすべて閉じ込められている。その監視の元に居てはダメです。色々な観点で、多様な意味を見つけないと。
哲学もそうです。ウィトゲンシュタインも「公式の」解釈だけでなく、色々な風に使っていく。それは言葉という、キーワードとかキャッチフレーズというカタチで広がっていく。それを更に立体化する。重要なのはそこから答えを出すこと。
本の良さは対比できることです。図書館ならば、同じ棚に並んでいる。本そのものだと手間が掛ります。余分な観点も一杯あります。作者の趣旨もマルチで変わっていくから、それを一つのものとしてみるのではなく、その時点で見ていく。人間でもそうです。
プッシュからプルへの移行
そうなってくると、テレビのようなプッシュ型がいかに力がないことが分かってきます。関心に合わせて、テレビでその部分だけを出すわけには行きません。
その典型が11時間のミュージック番組です。ベビメタルの出演が5分なら、その5分しか意味がない。今までは録画して、その文をサーチして見ていたが、今は、ベビメタルファンによって切り取られ、ネット配信されます。リクエストも可能です。また、視聴回数がキーになります。
視聴回数が視聴率に変わる
欅坂のサイレントマジョリティが1000万回を超えたとか、ベビメタルのギミチョコが5000万回を超えたとかです。視聴の判断基準になります。つまり、マーケティングそのものが変わる。
全体としてのコンテンツは図書館と同じように本棚です。つまり飾りです。
著作権をなくすことでできること。多様な編集ができます。テレビコンテンツをデジタル化して、色々な趣旨で色々な観点で言葉をつけていく。乃木坂46時間テレビの内のハイライトをつなげていく。ある観点で見ていく。それによって、コンテンツが意味を持って、影響を与えられる。
24時間TVでは、コンテンツの垂れ流しになっている。CMが邪魔をしている。著作なんて言うものでもないのに著作権に縛られている。だから、つまらなくなっている。ドラマも視聴率という数字だけで終わっている。名場面は見る人によって異なるのに、余分なものばかりです。
全体に対しての著作権はあってもいいけど、個別に対してはフリーにする。本というものには権利があるかもしれないが、場面に対しては、いくらでも加工がききます。
未唯宇宙から始まる世界
私の未唯宇宙はそれらの集合体です。著作権会費のために誤字脱字が存在する。原本と異なる。そこでの「原本」はほとんどが、コピペから成り立っているから、大きな顔をしてもらいたくない。未唯宇宙のようなことをより多くの人が行ない、より多くの人が関心を持てば、コンテンツが歩き出す。
多様な意味を見つける
今は本という中にすべて閉じ込められている。その監視の元に居てはダメです。色々な観点で、多様な意味を見つけないと。
哲学もそうです。ウィトゲンシュタインも「公式の」解釈だけでなく、色々な風に使っていく。それは言葉という、キーワードとかキャッチフレーズというカタチで広がっていく。それを更に立体化する。重要なのはそこから答えを出すこと。
本の良さは対比できることです。図書館ならば、同じ棚に並んでいる。本そのものだと手間が掛ります。余分な観点も一杯あります。作者の趣旨もマルチで変わっていくから、それを一つのものとしてみるのではなく、その時点で見ていく。人間でもそうです。
プッシュからプルへの移行
そうなってくると、テレビのようなプッシュ型がいかに力がないことが分かってきます。関心に合わせて、テレビでその部分だけを出すわけには行きません。
その典型が11時間のミュージック番組です。ベビメタルの出演が5分なら、その5分しか意味がない。今までは録画して、その文をサーチして見ていたが、今は、ベビメタルファンによって切り取られ、ネット配信されます。リクエストも可能です。また、視聴回数がキーになります。
視聴回数が視聴率に変わる
欅坂のサイレントマジョリティが1000万回を超えたとか、ベビメタルのギミチョコが5000万回を超えたとかです。視聴の判断基準になります。つまり、マーケティングそのものが変わる。
全体としてのコンテンツは図書館と同じように本棚です。つまり飾りです。
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OCR化した8冊
『地域創生成功の方程式』
6次産業化政策の登場
全体最適・価値共創の思考
青森市
富山市
『学びと育ちを支える学校図書館』
『図書館戦争』
「記憶を還元する」--図書館--
『図書館戦争』
「こんな世の中あり得ねえだろ」
〈図書館は成長する有機体である〉(第五法則)
「部分」と「全体」、そして「成長する有機体」
学校図書館も「成長する有機体」である
最後に--ランガナタンについて--
『生きるユダヤ教』
序
ユダヤ教・ユダヤ人のイメージ
身近なユダヤ
ユダヤ教について学ぶ意義
カタチにならないものの強さ
なぜ、ユダヤ教を学ぶのか
教育の力、強靭な思考力
ユダヤ教徒・ユダヤ人迫害を自分のこととして考える
改宗は新たな問題の始まり
『映画は社会学する』
消費社会論
「消費社会」を生きる
「生き方」を買う:『下妻物語』
「私自身のカラダ」を買う:『ヘルタースケルター』
消費の女性的モデル
ボードリヤールの「消費社会」論
「消費社会」の出現と消費社会論の系譜
記号論とは
ボードリヤールの記号消費
消費社会のもたらす疎外と孤立
資本主義の帰結としての消費社会
消費社会における人間の疎外:「スクラップ集団」
孤立する消費者たち:『スワロウテイル』
消費社会を生きる「強さ」?
監視社会
監視カメラの世界と個人データ管理の世界
監視カメラの世界:『ゴールデンスランバー』『踊る大捜査線』
データと監視:『プラチナデータ』
管理社会としての監視社会:『サイコパス』
監視社会についての論点
身体の消失
情報化
プライバシーと自由
管理機構としての監視システム
監視社会の現在と抵抗の可能性
監視社会における主体
快楽としての監視:『テラスハウス』
監視社会に抵抗する可能性
『ナチスのキッチン』
台所からみたナチズム
もっとも保守な習慣
女性動員の空間
身体は総統のもの!
武器としての調理用スプーン
ラジオによる台所の統制
「主婦のヒエラルキー」の形成--母親学校、更生施設、そして占領地へ
母親学校
マイスター主婦
更生用住宅--ハスフーデ
ポーランドのドイツ人主婦たち
無駄なくせ闘争
台所の敵と戦え
闘争の十ヵ条
「無駄なくせ闘争」は民族の価値ある財産を救う。食糧の自由に貢献する。
勤勉な主婦であれば、食べものをけっして無駄にしない。
いつも、旬のもの、ドイツの土地で収穫したものを買え。
手塩にかけて育てられた農作物を購入する人は、それを適価で購入することによって、質の高いドイツの農業生産に貢献するのだ。
必要以上に作物が生産され、台所、地下貯蔵庫、食料倉庫において食べものを傷みから守ることができる場合にかぎり、買いだめをせよ。
汝が買いだめしたものを、宿敵たち、つまり汚れ、暑さ、霜、害虫から、日夜防御せよ。
出現したすべての有害生物と即座に、そして精力的に戦え。なぜなら、その有害生物から百万の破壊者が産まれるからだ。
愛は食事によって表現できる。そのために、食事は丹誠込めて、十分な理解をもったうえで、調理せよ。
良き主婦は。食材の残りを目的に応じて再利用する。それによって家參に費やされる夕金を蓄えよ。
無駄なくせ闘争は、ドイツ民族が作った収穫物への感謝なのだ。
実践的主婦
「お金持ち」ではない主婦の「闘争」
残飯で豚を育てる--食糧生産援助事業
豚のエサの回収
残飯を運ぶ労働者と役人
食の公共化の帰結
栄養学に支配される「囚人」と「国民」
空間に埋め込まれる主婦たち
『図書館ノート』
沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら
『23分間の奇跡』と図書館
沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら・二〇一五
葬儀に茶色い靴 四〇年間、誰も使わなかった百科事典
『真説 毛沢東 下』
朝鮮戦争を始めた理由 一九四九~五〇年 ★毛沢東五五~五六歳
朝鮮戦争をしゃぶりつくす 一九五〇~五三年 ★毛沢東五六~五九歳
大躍進--国民の半数が死のうとも 一九五八~六一年 ★毛沢東六四~六七歳
『禅と掃除』
掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと
清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる
部屋の乱れは心の乱れ
掃除とは、己の心を磨くこと
心を整えるには、まず所作を整える
靴をきちんと揃えるということ
トイレ掃除で心を洗う
何かを得るよりも手放すことを考える
「見立て」の心でものの命を使い切る
ほんとうの「もったいない」を知る
あるべきところに、あるべきように
掃除を通して足るを知る
掃除がもたらす大きな気づきと、よい縁、そして生きている実感
掃除の効用としての「ひらめき」「決断」
朝の掃除でその日一日によい縁を結ぶ
掃除で体を使えば、自分の命を実感できる
朝の空気を味わい、四季の移ろいを感じる
無心になれる時間と場所を持つ
6次産業化政策の登場
全体最適・価値共創の思考
青森市
富山市
『学びと育ちを支える学校図書館』
『図書館戦争』
「記憶を還元する」--図書館--
『図書館戦争』
「こんな世の中あり得ねえだろ」
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学校図書館も「成長する有機体」である
最後に--ランガナタンについて--
『生きるユダヤ教』
序
ユダヤ教・ユダヤ人のイメージ
身近なユダヤ
ユダヤ教について学ぶ意義
カタチにならないものの強さ
なぜ、ユダヤ教を学ぶのか
教育の力、強靭な思考力
ユダヤ教徒・ユダヤ人迫害を自分のこととして考える
改宗は新たな問題の始まり
『映画は社会学する』
消費社会論
「消費社会」を生きる
「生き方」を買う:『下妻物語』
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ボードリヤールの「消費社会」論
「消費社会」の出現と消費社会論の系譜
記号論とは
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消費社会のもたらす疎外と孤立
資本主義の帰結としての消費社会
消費社会における人間の疎外:「スクラップ集団」
孤立する消費者たち:『スワロウテイル』
消費社会を生きる「強さ」?
監視社会
監視カメラの世界と個人データ管理の世界
監視カメラの世界:『ゴールデンスランバー』『踊る大捜査線』
データと監視:『プラチナデータ』
管理社会としての監視社会:『サイコパス』
監視社会についての論点
身体の消失
情報化
プライバシーと自由
管理機構としての監視システム
監視社会の現在と抵抗の可能性
監視社会における主体
快楽としての監視:『テラスハウス』
監視社会に抵抗する可能性
『ナチスのキッチン』
台所からみたナチズム
もっとも保守な習慣
女性動員の空間
身体は総統のもの!
武器としての調理用スプーン
ラジオによる台所の統制
「主婦のヒエラルキー」の形成--母親学校、更生施設、そして占領地へ
母親学校
マイスター主婦
更生用住宅--ハスフーデ
ポーランドのドイツ人主婦たち
無駄なくせ闘争
台所の敵と戦え
闘争の十ヵ条
「無駄なくせ闘争」は民族の価値ある財産を救う。食糧の自由に貢献する。
勤勉な主婦であれば、食べものをけっして無駄にしない。
いつも、旬のもの、ドイツの土地で収穫したものを買え。
手塩にかけて育てられた農作物を購入する人は、それを適価で購入することによって、質の高いドイツの農業生産に貢献するのだ。
必要以上に作物が生産され、台所、地下貯蔵庫、食料倉庫において食べものを傷みから守ることができる場合にかぎり、買いだめをせよ。
汝が買いだめしたものを、宿敵たち、つまり汚れ、暑さ、霜、害虫から、日夜防御せよ。
出現したすべての有害生物と即座に、そして精力的に戦え。なぜなら、その有害生物から百万の破壊者が産まれるからだ。
愛は食事によって表現できる。そのために、食事は丹誠込めて、十分な理解をもったうえで、調理せよ。
良き主婦は。食材の残りを目的に応じて再利用する。それによって家參に費やされる夕金を蓄えよ。
無駄なくせ闘争は、ドイツ民族が作った収穫物への感謝なのだ。
実践的主婦
「お金持ち」ではない主婦の「闘争」
残飯で豚を育てる--食糧生産援助事業
豚のエサの回収
残飯を運ぶ労働者と役人
食の公共化の帰結
栄養学に支配される「囚人」と「国民」
空間に埋め込まれる主婦たち
『図書館ノート』
沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら
『23分間の奇跡』と図書館
沖縄の高校生が『図書館戦争』を読んだら・二〇一五
葬儀に茶色い靴 四〇年間、誰も使わなかった百科事典
『真説 毛沢東 下』
朝鮮戦争を始めた理由 一九四九~五〇年 ★毛沢東五五~五六歳
朝鮮戦争をしゃぶりつくす 一九五〇~五三年 ★毛沢東五六~五九歳
大躍進--国民の半数が死のうとも 一九五八~六一年 ★毛沢東六四~六七歳
『禅と掃除』
掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと
清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる
部屋の乱れは心の乱れ
掃除とは、己の心を磨くこと
心を整えるには、まず所作を整える
靴をきちんと揃えるということ
トイレ掃除で心を洗う
何かを得るよりも手放すことを考える
「見立て」の心でものの命を使い切る
ほんとうの「もったいない」を知る
あるべきところに、あるべきように
掃除を通して足るを知る
掃除がもたらす大きな気づきと、よい縁、そして生きている実感
掃除の効用としての「ひらめき」「決断」
朝の掃除でその日一日によい縁を結ぶ
掃除で体を使えば、自分の命を実感できる
朝の空気を味わい、四季の移ろいを感じる
無心になれる時間と場所を持つ
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清らかが空間に身を置くと、自然と心も整うようになる
『禅と掃除』より 掃除とは、自分の心を洗い、磨くこと ⇒ 身体は「外なる世界」。だから、部屋も家も「外なる世界」です
部屋の乱れは心の乱れ
「禅と掃除」にまつわる一番大事なことからお話ししましょう。
あるとき、若い男性の方とお話をする機会がありました。仕事や人間関係などで悩みを抱え、「坐禅でも始めたら、少しは心の迷いも晴れるでしょうか」とおっしやいます。
私は、アパート暮らしというその若い方にお尋ねしました。
「あなたのお部屋はきれいに片づいていますか」
すると、そんなことが自分の人生の問題といったいなんの関係があるのか、と思ったのでしょう。怪訂そうな顔で、こう返されました。
「めったに掃除はしないので散らかっています。でも一人ですから、誰に迷惑をかけるわけでもないし、別にたいして困ることもありません。どうせ寝に帰るだけですし」
それを聞いて、ああ、この方は大変な考え違いをされているな、と思いました。
部屋には、そこに住む人の心の状態がそのまま現われます。日頃から掃除を欠かさず、きれいに片づいた部屋で暮らす人は、心もきちんと整い、自分のやりたいこと、やるべきこともよくわかっています。ですから余計な不安や悩み事などに煩わされることも少ない。
きれいに整えられた空間では、心もすっきりと整えられ、クリアになるのです。
ところが、衣類や雑誌や生活雑貨などが散らかり放題で足の踏み場もないような部屋に住んでいる人は、やるべきこともよくわからなかったり、集中力を欠いたり、気ばかり焦っていらいらしたり、あれこれ思い悩んで欝々とした感情にとらわれたりしがちです。
乱雑な空間では、心も落ち着かず、迷いや妄想、執着心などが生じやすいからです。それはごみの数だけ、ものが散らかっている分だけ、心が雑念に支配され乱れた状態です。
部屋の乱れは、心の乱れの証なのです。
私はその若い方に申し上げました。
「部屋が乱雑なのはあなたの心が乱れているからで、誰にも迷惑をかけていないどころか、あなた自身が雑念にとらわれ大変な迷惑を被っているのです。坐禅を始めるのはとてもよいことですが、その前に部屋をきれいに片づけて、心を整えてみてはどうですか」
この方に限らず、世の中には、部屋がどんなに散らかっていようが、自分は平気だ、かまわない、という人がいます。掃除をしたほうがいいのはわかっているのですが、面倒だからそのままほったらかしにしている、という人も少なくないでしょう。
ひょっとしたら、この本を手に取ってくださったあなた自身がそうかもしれません。
しかし、それはほんとうは、とても怖いことなのです。
部屋が散らかり放題でも平気なのは、汚れた状態がもはや当たり前で、汚れに対する感覚がすっかり麻挿してしまっている証拠だからです。それはそのままあなたの心の乱れの深刻さを示しています。そのことにぜひとも気づいていただきたいと思います。
人間というのは、元来がものぐさにできています。ですから、ちょっと油断をするとすぐに楽なほうへ楽なほうへと流されてしまう。面倒なことはしたくないし、なるべく避けて通ろうとします。住まいの掃除などは最たるもので、放っておけば、すぐさま塵や埃がたまり、あちこちにものが散らかってしまいます。人は易きに流れやすいのです。
これに歯止めをかけるには、まず身の回りを整え、自分の生活を律することです。お釈迦さまもおっしやっています。「心は乱れやすい。だから律する必要がある」と。
幸い人はきれいに整えられた空間に身を置くと自らを律する気持ちが強くなります。それまでなら「面倒だから、ま、いいか」と後回しにしていたような些細な汚れであっても気づけばその場ですぐにさっとひと拭きできるようになる。心が整ってくるからです。
掃除は、心を整え、律するための大事な大事な最初の一歩なのです。
掃除とは、己の心を磨くこと
禅には人が美しく丁寧に生きるための知恵がたくさん用意されています。
たとえば、「一掃除二信心」という禅の言葉があります。これは、最初にやるべきは掃除であり、信心は掃除が済んでからのこと。塵や埃をきれいに払い、丁寧に拭き清め、空間をきちんと清浄に整えてこそ、心、が整い、信心も生まれる、という意味です。
信心をするには清らかな空間が必要であり、そうした清浄な空間に身を置かないと心も整わない、美しくならない、というのが禅の基本的な考え方なわけです。
このため修行僧のいる禅寺では、掃除を坐禅と同じくらい大切な修行ととらえ、徹底してこれを行ないます。一日三回(朝食前、午前中、昼食後)、本堂や諸堂の隅々まで雑巾がけをするほか、風が強く、埃が舞う日などはさらにI、二回拭き掃除をします。また、境内の掃き掃除もお天気を見計らいながら随時行ないます。
これだけ念入りに掃除をしていますから、塵や埃はほとんどつきません。境内も本堂もほんとうにきれいです。それこそ廊下などは鏡のようにピカピカで顔が映るほどです。
それでも修行僧たちは、日々何度も行なう掃除を欠かしません。なぜでしょうか。
掃除というのは、汚れをとるのが目的ではなく、心を磨くために行なうものだからです。
このため禅寺の修行僧は、掃除についてこう教えられます。
「己を磨くつもりで床を磨きなさい」
人はみな純粋無垢な心を持って生まれてきます。赤ちゃんの心はまっさらで一点の曇りもありません。誰もが「仏性」(仏様になれる可能性)を持って生を受けるのです。
ところが成長するにつれて人の心には、さまざまな塵や埃がたまるようになり、だんだん仏性が曇っていきます。欲、怒り、執着、嫉妬、偏見などは最たるもので、これらは放っておけば、垢のようにこびりついて、心にまといつきかき乱す煩悩、雑念となります。
それに振り回され、もがき、苦しむのは、ほかの誰でもない自分自身です。であるからこそ、心に塵や埃がつかないようにいつもきれいに磨いておく必要があるのです。
坐禅が「静の修行」なら、掃除は「動の修行」です。掃除をするときは、ただ掃除をすることだけに集中します。掃くときは掃くことだけに、拭くときは拭くことだけに、目の前にあるいまこの瞬間に没頭する。禅の修行の根本です。そうやって仏性を磨き出す。
汚れを一つ落とす、ごみを一つ片づける。そのたびに、一つ、また二つと、心が軽くなり、気持ちがすっきりします。心の曇りが取れ、整っていくのです。
みなさんがお家で掃除をする場合、最初のうちは「面倒くさい」という思いが勝ちすぎて、なかなか掃除をすることに集中できないかもしれません。
たとえば、掃除のしにくい部屋の隅を「面倒だから」とやらなかったり、やり残した場所があったことに気がついても、「いいや、今度で」とそのままにしてしまったり。散らかり放題の部屋にお住まいなら、心の乱れも大きいですから、なおのことそ
そんなときは、自分の弱さを嘆いたり、克服しようと無理して立ち向かうのではなく、むしろいまこの瞬間に意識を集中して、それまで以上に、ただひたすら丁寧に掃除をすることです。雑念を抱えたままでは、掃除はいつまでたっても面倒くさい苦役のままです。
大事なことは、ただ無心になって目の前の作業に集中すること。無念無想で体を動かし続けることです。そうすれば、自ずと心は整うようになり、たとえ掃除のやり残しがあったとしても、躊躇することなく、すぐに片づけることができるようになるはずです。
そうやってきれいに整えた部屋を見るのは、ほんとうに気持ちがいいものです。
その清々しさこそが、自分の心が磨かれた証なのです。
部屋の乱れは心の乱れ
「禅と掃除」にまつわる一番大事なことからお話ししましょう。
あるとき、若い男性の方とお話をする機会がありました。仕事や人間関係などで悩みを抱え、「坐禅でも始めたら、少しは心の迷いも晴れるでしょうか」とおっしやいます。
私は、アパート暮らしというその若い方にお尋ねしました。
「あなたのお部屋はきれいに片づいていますか」
すると、そんなことが自分の人生の問題といったいなんの関係があるのか、と思ったのでしょう。怪訂そうな顔で、こう返されました。
「めったに掃除はしないので散らかっています。でも一人ですから、誰に迷惑をかけるわけでもないし、別にたいして困ることもありません。どうせ寝に帰るだけですし」
それを聞いて、ああ、この方は大変な考え違いをされているな、と思いました。
部屋には、そこに住む人の心の状態がそのまま現われます。日頃から掃除を欠かさず、きれいに片づいた部屋で暮らす人は、心もきちんと整い、自分のやりたいこと、やるべきこともよくわかっています。ですから余計な不安や悩み事などに煩わされることも少ない。
きれいに整えられた空間では、心もすっきりと整えられ、クリアになるのです。
ところが、衣類や雑誌や生活雑貨などが散らかり放題で足の踏み場もないような部屋に住んでいる人は、やるべきこともよくわからなかったり、集中力を欠いたり、気ばかり焦っていらいらしたり、あれこれ思い悩んで欝々とした感情にとらわれたりしがちです。
乱雑な空間では、心も落ち着かず、迷いや妄想、執着心などが生じやすいからです。それはごみの数だけ、ものが散らかっている分だけ、心が雑念に支配され乱れた状態です。
部屋の乱れは、心の乱れの証なのです。
私はその若い方に申し上げました。
「部屋が乱雑なのはあなたの心が乱れているからで、誰にも迷惑をかけていないどころか、あなた自身が雑念にとらわれ大変な迷惑を被っているのです。坐禅を始めるのはとてもよいことですが、その前に部屋をきれいに片づけて、心を整えてみてはどうですか」
この方に限らず、世の中には、部屋がどんなに散らかっていようが、自分は平気だ、かまわない、という人がいます。掃除をしたほうがいいのはわかっているのですが、面倒だからそのままほったらかしにしている、という人も少なくないでしょう。
ひょっとしたら、この本を手に取ってくださったあなた自身がそうかもしれません。
しかし、それはほんとうは、とても怖いことなのです。
部屋が散らかり放題でも平気なのは、汚れた状態がもはや当たり前で、汚れに対する感覚がすっかり麻挿してしまっている証拠だからです。それはそのままあなたの心の乱れの深刻さを示しています。そのことにぜひとも気づいていただきたいと思います。
人間というのは、元来がものぐさにできています。ですから、ちょっと油断をするとすぐに楽なほうへ楽なほうへと流されてしまう。面倒なことはしたくないし、なるべく避けて通ろうとします。住まいの掃除などは最たるもので、放っておけば、すぐさま塵や埃がたまり、あちこちにものが散らかってしまいます。人は易きに流れやすいのです。
これに歯止めをかけるには、まず身の回りを整え、自分の生活を律することです。お釈迦さまもおっしやっています。「心は乱れやすい。だから律する必要がある」と。
幸い人はきれいに整えられた空間に身を置くと自らを律する気持ちが強くなります。それまでなら「面倒だから、ま、いいか」と後回しにしていたような些細な汚れであっても気づけばその場ですぐにさっとひと拭きできるようになる。心が整ってくるからです。
掃除は、心を整え、律するための大事な大事な最初の一歩なのです。
掃除とは、己の心を磨くこと
禅には人が美しく丁寧に生きるための知恵がたくさん用意されています。
たとえば、「一掃除二信心」という禅の言葉があります。これは、最初にやるべきは掃除であり、信心は掃除が済んでからのこと。塵や埃をきれいに払い、丁寧に拭き清め、空間をきちんと清浄に整えてこそ、心、が整い、信心も生まれる、という意味です。
信心をするには清らかな空間が必要であり、そうした清浄な空間に身を置かないと心も整わない、美しくならない、というのが禅の基本的な考え方なわけです。
このため修行僧のいる禅寺では、掃除を坐禅と同じくらい大切な修行ととらえ、徹底してこれを行ないます。一日三回(朝食前、午前中、昼食後)、本堂や諸堂の隅々まで雑巾がけをするほか、風が強く、埃が舞う日などはさらにI、二回拭き掃除をします。また、境内の掃き掃除もお天気を見計らいながら随時行ないます。
これだけ念入りに掃除をしていますから、塵や埃はほとんどつきません。境内も本堂もほんとうにきれいです。それこそ廊下などは鏡のようにピカピカで顔が映るほどです。
それでも修行僧たちは、日々何度も行なう掃除を欠かしません。なぜでしょうか。
掃除というのは、汚れをとるのが目的ではなく、心を磨くために行なうものだからです。
このため禅寺の修行僧は、掃除についてこう教えられます。
「己を磨くつもりで床を磨きなさい」
人はみな純粋無垢な心を持って生まれてきます。赤ちゃんの心はまっさらで一点の曇りもありません。誰もが「仏性」(仏様になれる可能性)を持って生を受けるのです。
ところが成長するにつれて人の心には、さまざまな塵や埃がたまるようになり、だんだん仏性が曇っていきます。欲、怒り、執着、嫉妬、偏見などは最たるもので、これらは放っておけば、垢のようにこびりついて、心にまといつきかき乱す煩悩、雑念となります。
それに振り回され、もがき、苦しむのは、ほかの誰でもない自分自身です。であるからこそ、心に塵や埃がつかないようにいつもきれいに磨いておく必要があるのです。
坐禅が「静の修行」なら、掃除は「動の修行」です。掃除をするときは、ただ掃除をすることだけに集中します。掃くときは掃くことだけに、拭くときは拭くことだけに、目の前にあるいまこの瞬間に没頭する。禅の修行の根本です。そうやって仏性を磨き出す。
汚れを一つ落とす、ごみを一つ片づける。そのたびに、一つ、また二つと、心が軽くなり、気持ちがすっきりします。心の曇りが取れ、整っていくのです。
みなさんがお家で掃除をする場合、最初のうちは「面倒くさい」という思いが勝ちすぎて、なかなか掃除をすることに集中できないかもしれません。
たとえば、掃除のしにくい部屋の隅を「面倒だから」とやらなかったり、やり残した場所があったことに気がついても、「いいや、今度で」とそのままにしてしまったり。散らかり放題の部屋にお住まいなら、心の乱れも大きいですから、なおのことそ
そんなときは、自分の弱さを嘆いたり、克服しようと無理して立ち向かうのではなく、むしろいまこの瞬間に意識を集中して、それまで以上に、ただひたすら丁寧に掃除をすることです。雑念を抱えたままでは、掃除はいつまでたっても面倒くさい苦役のままです。
大事なことは、ただ無心になって目の前の作業に集中すること。無念無想で体を動かし続けることです。そうすれば、自ずと心は整うようになり、たとえ掃除のやり残しがあったとしても、躊躇することなく、すぐに片づけることができるようになるはずです。
そうやってきれいに整えた部屋を見るのは、ほんとうに気持ちがいいものです。
その清々しさこそが、自分の心が磨かれた証なのです。
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