モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その72:狩猟採取民のバンドから学ぶ ② 狩猟採取から離れていく生活

2008-11-19 09:07:46 | ときめきの植物雑学ノート
「持つことによって増えた“欠乏感”と“貧困”」

南アフリカに棲む狩猟採取民は、いま必要とするもの以上を採取しないことがバンドの生存ルールであることを承知し実践し、これにより豊かな生活を享受できた。
確かにそうかなと思うところがある。
誰かが独り占めをしようとすると争いとなり豊かさどころか生命すら危なくなるだろうから、必要以上に採取しないということは賢明な策だと思う。

(写真)ほっこりサフェリー

出典:Kapstadt org

牧畜生活で獲得したもの
ヨーロッパ人が入る頃には牧畜生活が始まっていたようだが、牧畜生活を始めることにより、家畜を所有する、もっと所有したいという欲求が芽生え“利欲”という新しい欲求を獲得したようだ。
もっと所有したいという欲求は、欠乏感をうみだし精神的な“貧困”が発生したという。

しかも牧畜生活は、狩猟採取生活よりも労働時間が長く、時間が失われ芸術的な能力を欠落させて行くことに気づくがもう後戻りは出来ない。
食糧が安定化するという牧畜生活のメリットを捨てることができなくなり、もっと~もっと~という欠乏感の方が強まっているからだろう。

ヨーロッパ人が階級化による貧困を持ち込んだ
あえて書くまでもないが、オランダ人をはじめとしたヨーロッパ人の進出は、
労働力としての移民、奴隷の導入により一等市民、奴隷、そしてあいまいな原住民という階層的な身分社会となり、精神的だけでない決定的な“貧困”と“貧困階層”が成立した。

狩猟採取民族には、今日採ってきた食糧を、バンド仲間に分け合う贈 与という風習・仕組みがあり、誰かが自分だけストックしない限り、分け合った結果は、個々人の能力で今日採ってきた食糧の総量に等しくなるそうだ。
みんなに食糧を分け合うということにより、必要以上を採って来なかったというバンドのルールの維持と、これによる豊かな時間が享受されていた

必要以上のものが保存・蓄積されると財産となるが、モノだけを追い求めると精神的な貧困に陥るというのは理解できる。

利用されないモノ・財はいずれゴ ミとなる運命にある。ならば、ゴミからさかのぼって豊かさを考える必要がありそうだ。

蛇 足
狩猟採取民の生活と自分及び家族の生活を対比すると、消費だけの豊かさを享受しすぎており、平和で地球の資源が無尽蔵でなければ継続しにくいと思うに至る。
しかし、歴史をかけて構築された今日の社会システムを、狩猟採取民族のシステムに戻すことは不可能だ。だが、ここからできることを学ぶとすると

1.ゴミを出さない
2.ゴミをつくらない
3.必要以外なものを所有しない。取得しない。取得する時はいいものにする。
4.長く使う。修理する。
5.趣味から“つくる”領域のスキルを磨き消費から離れてみる行動計画を持つ。

といった消費のエコロジー発想になる。

こんなことやられたら困る。これで景気の浮揚は出来るのかという指摘が必ずあるが、これまでの延長線上に景気回復するほどのタネはなさそうだ。
世界的な構造調整期が5~10年続くと見た場合、明治の変革(農村人口を工場に移動)
昭和の変革(ドメスティック対応からグローバル対応を強化)に続く産業構造の変革で就業構造をかえる産業の育成が必要になると見る。これまでの産業には就業者を拡大する余地はあまりなさそうだ。

その先導役は国内総生産の6割を占める消費の構造をかえることにあり、
「必要なものを最小限買い、長く使えるいいもの」が基本で、モノの消費を減らすことによりこれまでより余剰が出た家計費を、時間と豊かさをつくるためのサービスに使えるように関連産業を充実する必要がありそうだ。

いままでの政府(自民党・公明党、官僚)は、福祉・医療・介護・教育を削り、家計に押し付けてしまったので、充実させなければならない産業が枯れ、家計も枯れ、消費も低迷する大罪を犯してしまった。

省エネ技術、ロボット技術、IT技術に伝統工芸とエンターテイメント業界の美的なスキルなどリソースはあるのでゼロからの出発ではない。

ゴミを出さない、必要なものしか買わない、たんす預金を増やす。
これがこの数年のトレンドだと思うが、これを前提としたこの先の日本・世界を描いて欲しい。
そうすると、2兆円のバラマキという政策は出来ないはずだがいかがだろうか?
考えていないから出来た愚策としか思えない。
リーダーが考えなくなったらリーダーではいられない。バンド全員の死を招くからだ。

多くのモノに囲まれていると一時は充実する。しかし、その上があることを知ると不満・不足・欠乏感そして不幸を感じてしまう。この精神的な不安定感は歯止めがない。
ここから脱するには、いずれゴミとなるものに囲まれた生活をしていると思うことからはじまる。本当に必要なものは意外と少ないはずだ。

コメント

その71:狩猟採取民のバンドから学ぶ ①ヨーロッパ人が来る前の南アフリカ

2008-11-18 08:55:50 | ときめきの植物雑学ノート
「持たないことによって得る“豊かさ”」

今から20数年ほど前(100万円台のパソコンが出始めの頃)でエレクトロニクスが発展し半導体は産業のコメといわれ始めるころだったが、マレーシアに産業視察で行った。
今でも覚えているその時の驚きは、スリ・置き引きが結構多く、近代化による工場進出に遠因があるとのことだった。
工場が進出する前は、裏庭或いは裏山にはバナナをはじめ食べるモノが結構あり貨幣が必要でなく自給自足生活が出来たという。
所有権があいまいな入会的な山林が開墾され、工場が進出し、工場に勤め、給与をもらい、SONYのラジカセ、ホンダのオートバイを手に入れるのが夢で、マクドナルドでハンバーガーを食べるとリッチな食事だったようだ。
一方で、勤めも、バナナも手に入れられなくなった人間は、都市に出て生きるための生業としてスリで生活するなど、どの国でもあった発展のひずみがあった。

私が行ったほんの数年前まで自給自足生活が成立していたということが驚きであり、近代化によって自給自足生活が崩壊され、スリを多くしてしまったことをもったいないことをした。 と思った記憶が鮮明にある。

他愛ない前置きだが、どうも、人間の歴史のスパイラル的な発展に関係しているようで、生きるために必要なものと、生きるために必要ではないが所有し蓄積していたいものが分離し、所有と蓄積という新たな欲望が形成され、貝殻、貴石、貴金属、香辛料、貨幣などと変遷するが、それによって測る価値尺度が異なっていったようだ。
貝殻・貴石のころは、男性の化粧を含め異性を官能させる美が価値尺度であったようだが、貨幣は貧富を明確に測れるところとなった。

南アフリカに貧富を輸出したのはオランダ人をはじめとしたヨーロッパ人だが、貧富のない時間をちょっと覗いてみると今とは違うことが見えてくる。

人類の祖ホモ・サピエンス誕生の地、南アフリカ
人類誕生の歴史にはまると抜けるのが大変なのでサラリといくことにするが、
人類の祖先ホモ・サピエンス(Homo sapiens)は10万年前にアフリカで誕生したという。日本人の祖先は彼らの直系として4~3万年前に長い旅をしてやってきたようだ。

世界で最も古い人類の化石は、南アフリカにあるボーダー洞窟、ケープ州東部にあるクラシーズ河口洞窟などで発見され、10万年を超える可能性すらあるという。

何故南アフリカに誕生したホモ・サピエンスのみが人類の祖先となり世界各地に拡散して行ったのだろうか?
この疑問は誰しもが抱く疑問だが、正解はわからない。
しかし、次のようなことはいえるようだ。

(写真)南アフリカの気候

(出典) ZenTech.

南アフリカはケープ地方が地中海性気候、インド洋側が海洋性気候、温暖な雨が多い気候、内陸部がサバンナ、ステップ、冬に少し雨がある気候、そして砂漠とあらゆる気候条件がそろっており、多様な生活環境がここにはあった。

狩猟採取の生活は、環境により動植物の採取・狩猟の種類が異なるため、採取方法、道具などがそれぞれに発展し、地域ごとに『多様性』が生じていったといわれている。
この『多様性』が、強い種・DNAを創り、そして長い旅に耐えられるスキルを獲得したのだろう。

南アフリカの狩猟採取民族の生活
ハーバード大学学術調査隊がナミビア北西部とボツワナの国境近くに住むクン族の生活を調べたものによると

彼らは、23~40人の集団を形成し(これを“バンド”といっている)、食糧を求めて移動する生活を行っている。
主食は、栄養価にとんだ多年生植物のモンゴンゴの実(堅果で脂肪・でんぷん・たんぱく質に富む)が常食で食料の三分の一をしめ、別の植物が三分の一、残りの三分の一は狩猟でまかなう。
モンゴンゴは素晴らしい木で、実はかなりの栄養素が入っており、長期保存に耐えられ、木は硬くヤリなどの道具として使えるという。
水と食用植物があるところで一定期間居住しここをキャンプ地といっているが、ここでは、労働の分業がされ、女はキャンプ地近くでの食用植物の採取と子供の世話、男は狩猟に専念し道具類は木・石・骨などからつくっている。

労働時間を調べると1週当たり15時間の狩猟と採取に費やすだけで、一人当たりの一日の自給量は2140カロリーもあり、一日あたりのカロリー必要量を上回っているという。
狩猟採取民族は、物質的に恵まれない厳しい生活をしていると思われがちだが、少ない労働時間で、十分なカロリー摂取がされ、ある種の物質的な豊かさを享受していることがわかった。

また、彼らは、音楽・アートなどの美的表現を生み出すことに時間とエネルギーをかけており、岩・洞窟などに残された絵画芸術は生き生きしたモノがある。

狩猟採取民族の哲学
キャンプ地周辺の植物・動物を採り尽くしてしまうとそこを去らなければならなくなる。そこで彼らのルールは、 「自分で運びきれないほどの財産を求めない」ということになる。
必要最小限しか求めない。蓄積する財産を持たなかった見返りは生活の豊かさを感じる時間でありこの時間消費でもある
これが原始の豊かさ、今風に言えば必要最小限のモノと心の豊かさを実現した。となるのだろう。

原始の豊かさの暗い面もある。
食糧を求め移動しなければならないときに移動できないということは致命的であり死を意味する。
移動できない病人・老人は捨てていかれたようだ。
これを残酷というのだろうか。そうではないと思う。
生あるものの間違いないゴールは死であり、死のデザインがその集団・社会の最大の課題と思う。
移動を前提としたバンドの人数は、経験的なところからきた人数のようで、意志が浸透できない集団では生き残れない集団となるのだろう。
(明日に続く)

コメント

『 ほっこり 』とした紅葉

2008-11-17 07:48:01 | 街中ウオッチング

『 ほっこり 』としたシーンをお楽しみください。

(写真)『ほっこり』した紅葉


最近気に入っている言葉がある。 『ほっこり』だ。

京言葉のようだが、使い方によってだいぶ違う意味がありそうだが

こころにあたたかいかんじょうが生じることをいう。

そう~見て感じたことをいう。

素晴らしい紅葉も『 ほっこり 』なのだ。





サクラの開花は北上するが、紅葉は南下する。
その紅葉は、9月の北海道の大雪山からはじまるという。
そして最後は何処まで日本列島を南下するのだろうか・・・・・
                 (野田市清水公園の「ほっこり」)


コメント

アンソニーパーカー・ブッシュセージ(Anthony Parker Bush Sage)の花

2008-11-16 08:36:31 | セージ&サルビア
メキシカンブッシュセージから枝分かれした新種
メキシカンブッシュセージの新種を調べている時に気になった2品種があった。
学名ではSalvia leucantha 'Santa Barbara' (S.レウカンサ‘サンタバーバラ’)
Salvia 'Anthony Parker'(S.‘アンソニーパーカー’)だった。

サンタ・バーバラは、ロスアンゼルスの北西にある園芸が盛んなリゾート地で
S.レウカンサ‘サンタバーバラ’は、
サンタバーバラに住むブラウン(Kathiann Brown)の庭で1999年に発見された新種で、
メキシカンブッシュセージより草丈が低くパーブルの萼にパープルの花が咲く。
メキシカンブッシュセージを小型にしたもので、庭植えとして人気が出るだろう。
欲しい一品でもある。

S,アンソニーパーカーは、
1994年にサウスカロライナの造園家フランセス・パーカー(Frances Parker)の庭で発見され、
彼女の孫息子の名前がつけられた。

この品種は、メキシカンブッシュセージと、真っ赤な花が咲くパイナップルセージの自然交配種で

ひょっとしたらわが庭でもハチドリの協力を得て出来るかもしれない。
といった期待でワクワク感があった。

しかしハーブ園にあったので、ないものは欲しいという欲望で手に入れてしまった。

(写真)アンソニーパーカーブッシュセージの花


葉は、パイナップルセージに似た静脈を盛った濃い緑色で、
花は濃い青紫で両親に似るよりもラベンダーセージに似ている。

晩秋まで咲くので、花が少ない時期としては貴重でもある。

(写真) アンソニーパーカーブッシュセージの葉と花


アンソニーパーカー・ブッシュセージ(Anthony Parker Bush Sage)
・シソ科アキギリ属のー6℃程度の耐寒性がある多年草。
・学名は、Salvia 'Anthony Parker'
・メキシカンブッシュセージ(S.レウカンサ)とパイナップルセージ(S.エレガンス)の自然交配した品種<Salvia elegans_ × _S. leucantha_ 'Midnight'>
・草丈100㎝程度だが株張りもこの程度あり、両親の血を引いている。夏場までに摘心をし丈と株張りを抑えないとスペースを取ること間違いない。
・開花期は10月から12月で、ラベンダーセージ、パープルマジェスティに似た濃い青紫の花が咲く。

【参考:過去掲載コンテンツ】
メキシカンブッシュセージ

メキシカンブッシュセージ‘ミッドナイト’

パイナップルセージ

ラベンダーセージ


(写真)11月中旬のメキシカンブッシュセージの花


(写真)11月中旬のパイナップルセージ

コメント

チェリーセージ(S.グレッギー)の花

2008-11-15 08:55:40 | セージ&サルビア
花が少なくなっていくこの時期、咲いているのはメキシコ原産の花が多い。

メキシカンブッシュセージ、パイナップルセージ、ライムライト、ローズリーフセージ
イエローマジェスティ、そしてチェリーセージ各種。

(写真)グレッギーの花


花の谷間を埋めてくれるチェリーセージに感謝して
ツヤっぽいところを・・・・

真っ赤ななかに色気があります。

このチェリーセージは、となりの鉢からのこぼれ種で成長し、
本家よりは常に赤が濃く咲きます。

(写真)隣の鉢に着地したグレッギー


【参照:チェリーセージについて知るには】
チェリーセージ考No1
チェリーセージ考No2

コメント

その70:喜望峰⑭ マッソン、ツンベルクが旅した頃の喜望峰・ケープ

2008-11-14 09:51:24 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

国際港湾都市となった喜望峰・ケープ
喜望峰は、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて、
オランダ艦隊の補給基地を建設したことから植民地化が始まった。

ポルトガルが開拓した東洋への航路なのに、何故簡単に喜望峰をオランダに渡したのかが疑問だったが、その理由がわかった。
ポルトガルは、アフリカ西海岸にあるルアンダ(アンゴラの首都)と東海岸にあるモザンビーク以南では領土を占有しなかった。その理由は、
(1)1510年には、インド副王の任期を終えたフランシスコ・グルメイダがケープ半島北端のテーブル湾において地元の住民と争い殺された。
(2)モザンビークとケープの間の海は、嵐を呼びやすい海、激しい海流、危険な浅瀬があり経験上航海が危険であることを知っていた。
(3)金以上の価値があった東洋の胡椒を目指していたので、アフリカに余分な投資をする必然性がなかった。

一方、ポルトガルへの挑戦者オランダは、
1649年に船を失ってその冬にテーブル湾で過ごしたオランダの船員たちが
オランダ東インド会社に喜望峰の占有を提案したら、
その3年後の1652年にヤン・ファン・リーベックが艦隊の補給基地として砦を建設した。

この時代はまだ“壊血病”という存在を知らなかったが、
新鮮な野菜・果物・肉などが船乗り達の死亡を予防するという経験的な知識を持っていたのは
オランダとクック船長のようなごく一部のエキスパートだけのようだ。

オランダ東インド会社は、新鮮な野菜などを提供する補給基地が欲しくて喜望峰に目をつけた。

イギリスでも1620年にケープを占有するよう政府に提案した船長がいたようだが
無視されたほどで、イギリスでは喜望峰の価値を知らなかったようだ。

18世紀後半、マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃の喜望峰
スパルマンは、1765年に船医として中国に行きその体験から博物誌を書き、
1772年初めになんと家庭教師の職を見つけたので喜望峰にやってきた。
17世紀半ば以降は、家庭教師の職があるほどケープタウンは発展していたようだが、
発展のプロセスをプロットしてみると・・・

・1652年にヤン・ファン・リーベックが80人の隊員とやってきて城砦を建設する。
・1659年東インド会社は従業員9人を解雇し、テーブル湾から10キロ南のロンデボッシュに20エーカーの土地を与え、穀物・野菜などを栽培し決められた値段で東インド会社に売る契約を結ぶ。
・これ以降積極的に従業員の解雇、オランダからの移民受け入れ、フランスからオランダに1685年以降移住したユグノー教徒を受け入れた。
・1679年まではケープ半島のみが入植地で、この年からテーブル湾から東へ48キロほどにあるステレンボッシュに入植地を拡大。
・原住民は土地を奪われたのでさらに遠くに移動するか、東インド会社の労働者として働くかの二者択一となるが身分的には奴隷ではなかった。
・1707年の入植者数(奴隷および原住民を除く)は、会社従業員700人、入植者2000人となった。
・これが、1793年には13,830人の自由市民(男4,032、女2,730、子供7,068)で入植者の多くは、オランダ、ドイツでは成功のおぼつかない低階層出身者だった。
・1793年の奴隷人口は、14,743人で自由市民を超える。ケープでの奴隷の移入は、1658年にリーベックが会社に提案した時からはじまる。東南アジア、中近東からの奴隷も多く、アフリカからの奴隷が多いアメリカ大陸と異なる。

マッソン、ツンベルク、スパルマンがいた頃のケープ植民地は、
自由市民13,830人、奴隷14,743人と原住民で3万人を超える人口になっていたようだ。
この頃には貧富の格差がはっきりし、学校などの教育制度がしっかりしていなかったので
金持ちはヨーロッパから家庭教師を採用し、スパルマンがこれに応じた。

農業だけでは成長しないが、オランダ艦隊向けの港湾施設と船舶へのサービスが拡張し、
各国の船舶にサービスを提供する国際都市として成長したので3万人強の人口となったのだろう。

都市になるとあらゆる職業が出現し、犯罪者・逃げた奴隷などは、
ケープタウン背後の1000m級の山、テーブル・マウンテンに隠れたようで、
温暖な気候、豊かな自然は自給自足の逃亡生活には適していたようだ。
マッソンもテーブル・マウンテンにはよく行き、そこで山賊に襲われたという。

物価はイギリスと変わらないが、船舶関係の修理などはべらぼうに高かったようで、
ここで利益を出していたようだが、オランダ東インド会社はずさんな経理システムのため
世界初の株式会社として1602年に誕生したが、マッソンがこの地を去った直後の1799年に倒産し
オランダが世界の海を支配した時代は終わり、イギリスに取って代わられる。
このあとのオランダは、わずかに日本との交易が残るだけとなる。

(地図)マッソン及びツンベルクとのプラントハンティングの地域とケープ植民地

マッソン、ツンベルクが一緒にプラントハンティングをした旅程を描いてみたが、
ケープ植民地からかなり遠くまで旅したことがわかる。
のどかな旅でなかったことは確かだ。
自然が脅威だけでなく、人間が増えるとその人間が脅威ともなる。

プラントハンターにしろ植物学者にしろタフでなければ生き延びられなかった。

これからツンベルクとともに日本に旅しようと思うが、
文明が破壊した南アフリカの豊かさについてふれておきたい。

コメント

その69:喜望峰⑬ 二人のスウェーデン人 と リンネの弟子達

2008-11-12 08:19:36 | プラントハンターのパイオニア、マッソン

キャプテン・クック第二回の航海で、彼が指揮するレゾリューション号が
喜望峰に到着したのは1772年10月30日のことだった。 (その49喜望峰③)

フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)が喜望峰で下船し、
代わりに一人の植物の知識を持つ人物がレゾリューション号に乗船し、
約1ヵ月後の11月22日に南極海探検に向けて喜望峰を出航した。

キャプテン・クックの航海日誌にはこの状況をこのように書いている。

『フォスター氏が植物学および博物学に何がしかの知識を持ち、われわれの船に同乗を希望するスエデン人スパーマン氏の面識を得た。フォスター氏は、航海の過程で非常な助けになる人物と考えて、乗船させたい旨希望したので、私は許諾した。』

フォスターは、クック探検隊の主任植物学者であり博物学担当の息子と参加しており、
スウェーデン人のスパーマンなる人物を助手として現地で採用した。
という内容である。

スパーマンは何者だろうか?
この人物を調べてみると驚くことがわかった。

リンネとウプサラ大学の驚異
スパーマンではなく、スパルマン(Anders Sparrman 1748-1829)という。
彼はスウェーデン人で、ウプサラ大学で医学を学びリンネの優秀な弟子の一人だった。

(写真)アンダーズ・スパルマン肖像画


ということは、この時リンネの弟子が喜望峰・ケープに二人もいたことになる。
もう一人は、マッソンと一緒に植物探索の旅をしたツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743-1828)だ。
ツンベルクもウプサラ大学でリンネに学んでいる。

それにしても、海外旅行が便利になった今日でも、同じ大学のゼミ出身者が
喜望峰で偶然に出会うだろうか? 

出会う確率はかなり低いと思われる。
ということは偶然ではなく必然であり、リンネの意図・意思が反映していると思わざるを得ない。

リンネの弟子達は、空白地の植物相を調べ植物の体系を完成させるという強い動機で、
ツンベルクは南アフリカそして日本へ、スパルマンは中国・南アフリカ・南太平洋などへ、
そしてまだ登場していない弟子たち、その弟子達が世界各地に探検旅行をした。

ブラジリアンセージ、サルビア・ガラニチカを採取したレグネル(Regnell, Fredrik 1807-1884)は、
リンネの孫弟子にあたる。

スウェーデン人の、ウプサラ大学出身者の、そしてリンネの系譜の人々は、
冒険心と未知の植物の探究心にあふれフロンティアを求め、そして、功名を求め活動した。
このエネルギーは何処から来ているのだろうか?
世界の植物にリンネによる二命名法(属名 種小名)での名前をつけたい。
ということなのだろうか?

レグネルは、ブラジルでコーヒー園で財を成し、
故郷のスウェーデンにブラジルの植物研究をするレグネル基金を寄付した。
ツンベルクはウプサラ大学の学長となり、
スパルマンは王立科学アカデミーのメンバーとなり植物学の教授などを務める。

(写真) スウェーデン・ウプサラの場所 (by Google)


それにしても、こんなといったら失礼だが北国から財産形成を求めるのではなく
植物の知識を求めた人々が出現したことは驚きですらあり、
園芸を産業化したオランダ、園芸を庶民レベルまで楽しみにしたイギリスとは大きく異なる。

コメント

千日小坊(Alternanthera porrigens 'Sennichi-Kobo')の花

2008-11-10 09:07:23 | その他のハーブ

原種がアンデスの花、
『千日小坊』の花が点から粒へと大きくなってきた。

ピンクが入ったような赤紫の花はこれから熟成し大きくなっていき、
寒波にやられなければ、千日とまではいかないでも長期間咲き続ける。
耐寒性は強くないが、冬場の貴重な花だ。

(写真)赤紫色の千日小坊の花


草丈が80cm程度あり、柔らかい黄緑の葉は根元が紅葉し、
銀灰緑色の茎が花の重みで弓なりに広がる。

風がなく、日当たりが良い中庭、吹き抜けの陽のあたる室内などでは
360度のパノラマで弓なりに広がる生きた作品として展示したい価値があり、
贅沢なスペースに負けない驚くほど質素だが味のある“いきばな(生き花)”ともなる。

この『千日小坊』は原種の園芸品種で角田ナーセリーが開発し(詳しくは脚注に)、
丈の低い「千日小鈴」白い花になる「千日小雪」などが作出されている。

最近は、アルテルナンテラという風変わりな属名の変わった葉を持つ品種が
園芸店に出回るようになっている。


原種を採取したのは、キューのプラントハンター、スプルース


この『千日小坊』の原種は、
南米のペルー・エクアドルの学名がアルテルナンテラ・ポリゲンスで、
英国キュー植物園のプラントハンター、スプルース(Spruce, Richard 1817-1893)によって
1857年にエクアドルのアンデス山中で採取された。

スプルースは、1849年から1863年までの14年間アマゾンからアンデス地帯を探検し、
3万以上の植物を採取して標本を作り、5473種もの新種を発見したプラントハンターで、
マッソン同様にキューの一時代を築いた人間だ。

特に有名なのは、原因が良くわからなかったマラリアの治療薬『キニーネ』の原木
キナノキを採取し、スリランカなどのイギリスの植民地農園で栽培することに寄与したことだろう。

キナノキは、アマゾン川上流のアンデス山脈東部の雨が多く霧が発生する斜面にしか生息しない。
栽培が難しい樹木だが、これの種子を採取し、育成し、スリランカで栽培できるようにした。

キナノキから取れるキニーネは世界を変えた薬用植物でもあるが、
最終的には園芸・栽培技術の水準が高かったオランダがジャワ島で大量に栽培することになり、
キニーネ供給の独占体制をつくることになる。
現在は、あの頭から散布されたことで悪名高いDDTが蚊を駆除し、マラリアの発生は低下している。

スプルースは5473もの新種を採取しているので、もっといろんな場面で登場すると思われる。

(写真)千日小坊の立ち姿


千日小坊(Alternanthera porrigens 'Sennichi-Kobo')
・ヒユ科アルテルナンテラ属の常緑多年草。
・学名は、Alternanthera porrigens cv. Senniti-kobo。 属名はalterno(互生)+anthera(葯)でおしべとめしべが互い違いに生えることを意味し、種小名のporrigensは広がった様をいう。
・原産地はペルー・エクアドルで、アルテラナンテラの園芸品種
・草丈は、60~80cm。
・短日性で10~2月に小さな赤紫の花を咲かせる。
・暑さには強いが、冬の寒さには弱く室内で栽培したほうが良い。(半耐寒性)
・日当たりの良い場所で栽培する。
・花後に強く刈り込む。挿し木で増やす。

<管 理>
・花後、切り戻しをする。
・冬の管理(5℃以下だと...)葉が紅葉したり、地上部が枯れたりするので、室内の日当たりの良い場所に入れる。水は控えめに。
・4月の春野菜を植え込む時期になったら植え替えて、日が当たる戸外に。
・9月上旬までに、切り戻しをし続ける。根元から15―20cmのところで。この時、水+肥料は多めに。注意すること→日照管理
・11月上旬(10月下旬)から可愛い花が咲く。

角田ナーセリーの開発商品
この“千日小坊”は、愛知県一宮市の角田ナーセリーが作出し、現在では40万ポットも販売するという人気商品だ。
角田ナーセリーの開発秘話を読むと、
イギリスの花の展示会で3鉢だけブースの片隅にあったそうだ。これを輸入し、その後、1996年のジャパンガーデニングフェアーに出品し、この当時は名前がまだ付いていなかったそうだが、千日紅に似て小さな花だから“千日小坊”という名前をつけてもらったそうだ。

原種の命名者
オットー・クンツ(Kuntze, Carl Ernst Otto 1843-1907)
クンツは実業家として成功し、この資金を使い余生は趣味の植物探索旅行と植物収集に費やし、植物分類の体系に新説を提案し迫害があったドイツの植物学者。チャとツバキは同属と修正したのがクンツ。
最近は実業界から趣味を極めて学者に転進するほどのヒトがいないようなので、興味を持ちフォローしてみようかと思った。


コメント

神田やぶそばの天だね

2008-11-09 08:06:36 | グルメ

神田神保町にある『出雲そば』が休業になったという。
しばらく行っていなかったが客足が悪くなったのだろうか? 
それとも後継者がいないのだろうか?

ここのそばと独特のつまみは常温での日本酒のつまみとして最高だった。
わかめをパリパリに乾燥させ海苔のようにしたものとかちくわが食べれなくなった。

通の大人の飲み方として、酒は1合。つまみは焼き味噌。仕上げにせいろを1枚。
というのがあるが、いつになっても出来ないでいる。
体力と記憶があるまで呑み続けることばかりやっている。
いつかこんな大人になろうと思いつつ・・・・


こんな事態になっているともつゆ知らず、久しぶりに『やぶそば』に行ってみた。

神田、神保町周辺には特色があってうまいそばの店があるのでこの段階では多少悩んだ。
神田須田町の江戸情緒レトロ名店街では、『まつや』と『やぶそば』、
神保町・錦町周辺では麻布永坂の分家となる『更科』、休業になってしまったが『出雲そば』がある。
『まつや』から覗いてみたが、相変わらず行列が出来ていた。

同じ行列ならば、観光名所化されてなかなか行く気になれない『やぶそば』にしようと思い行ってみた。

(写真)やぶそば玄関 シャッターポイントから行列が出来ている


短めの行列だったので並んだが、一人席が空いたので飛び越して座ることが出来ラッキーだった。
行列が出来る店は、二人以上で行くと座るまでが大変だ。
さらに、これからの冬場・雨の日は並ぶのがつらいところだ。

目的はせいろそばなので、ビール小瓶とつまみの天だねを注文。
天だねは、エビのかき揚げを硬くしたもので、箸をうまく止めないとこんな風に無残な状態になる。

(写真)飛び散った天だねのパン粉


注文ごとに、女将が節をつけて歌うように板場に伝達するのが古式の情感があり名物となっているが、
帳場の女将が若女将に変わっていた。
女将はどうしたのだろう。渋いいい声だったが・・・・。

せいろは量が少ないので、スリム願望でそばを選んでいるが、追加をすることになる。
つゆとそばの相性はピッタリだが、つまんだそばの端をちょっとつけるだけでピッタリなので、
つゆが勝ちすぎているかもわからない。

そばは悪くはないが、明日また来て見ようという胃袋が望むほどの印象がない。
行列客から見ても、毎日のそばという設定でつくっていないのかもわからない。
この点で、『まつや』と棲み分けている。
『まつや』は毎日食べたいそばだが、『やぶそば』は、気分転換で食べるそばで良さそうだ。

(写真)量が少ないせいろ

(写真)つまみとして最適な天だね


それにしても『出雲そば』の暖簾と味は引き継げなかったのだろうか?
残念だ。

コメント

晩秋の庭の花Ⅱ ブルー系セージ8種の花、ブルーの違い

2008-11-06 09:01:19 | セージ&サルビア
昨日に引き続き、あとわずかで散っていく庭の花のドキュメントで、
ブルー系のセージの特集です。
この時期でも咲いているブルー系の写真だけで、
個別のセージの特色などはかつての原稿を参照してください。

(写真)サルビア・ムエレリの花

色っぽいブルーだと思いませんか?
(サルビア・ムエレリの特色の説明はこちら)


(写真)白い線が入ったコズミックブルーセージの花

色が良く出ていませんが、宇宙の知、賢いブルーの感じがします。
(コズミックブルーセージの特色の説明はこちら)


(写真)パープルマジェスティセージの花

2m近い高さで咲いているブルーです。寒さを感じさえないブルーでしょうか?
(パープルマジェスティセージの特色の説明はこちら)


(写真)ブラジリアンセージ、サルビア・ガラニチカの花

明るくクリアーなブルーでしょうか。
(ブラジリアンセージ、サルビア・ガラニチカの特色の説明はこちら)


(写真)コバルトセージの花

重金属が入っているような重いブルーです。
(コバルトセージの特色の説明はこちら)


(写真)ラベンダーセージの花

本当に元気なブルーです。めげません、旺盛です。
(ラベンダーセージの特色の説明はこちら)


(写真)ジャーマンダーセージの花

枯れた渋めのブルーです。
(ジャーマンダーセージの特色の説明はこちら)


(写真)サルビア・ウリカの花

最も好きなブルーです。
(サルビア・ウリカの特色の説明はこちら)

コメント