モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

2:バラの野生種:オールドローズの系譜

2019-05-22 13:55:29 | バラ
“ノバラ”と“人類”とのアーティスティックな出会い
バラは、バラ科バラ属の落葉或いは常緑の低木およびつる性植物の総称で、これらから交配された園芸品種を多数含む。
園芸品種は実を結ばないのでローズ・ヒップシロップ(rose-hip syrup)を作れない。
また、園芸品種の開発のスタートは、1800年代初頭のジョゼフィーヌのマルメゾン庭園からはじまったわずか200年の歴史といってもよいようだ。

園芸品種の親となる野生種は、世界で約200種あるといわれ、日本には14種ほどの野生種がある。
このバラの野生種は、北半球だけに自生し南半球にはバラの野生種がないというから実に不思議だ。

バラの祖先ノバラは、いつごろから自生していたのだろうか?

アメリカのコロラド州で発見されたノバラの化石は、7000万年~3500万年前のものといわれる。日本でも400万年前のバラの化石が兵庫県の明石で発見されたという。

人類が登場してからは、バラはアーティストの感性を刺激し続けたようだ。

(写真)ギルガメッシュ叙事詩
 
例えば、
・ 紀元前2000年頃の世界最古の文学作品といわれるバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』には、「女神イシュダルが花の香りをかぐ」と書かれている。また、「バラのようにトゲがある草が海の底にあり若返りが出来る」とも書かれている。
この叙事詩を斜め読みすると“ノアの方舟伝説”のようでもあり旧約聖書を含めてストリーテイラーの存在を感じる。

・ 紀元前1500年頃のギリシャ・クレタ島のフレスコ(壁画)にバラと思われる絵が描かれており、絵画に描かれたバラとしては最古のものという。オリジナルはクレタ島のイラクリオン考古学博物館にあるそうだ。
(写真)クレタ島の壁画
 

(出典)公益財団法人 日本ばら会
ギリシャ・クレタ島のイラクレオン考古学博物館に保存・展示されている「青い鳥のいる庭園」の壁画中の「原画」と「修復画」との区別(“太線で囲った部分が原画”)

・ 古代ギリシャのホメロス(BC800年頃)は最古の叙事詩といわれる『イーリアス』『オデッセイア』で“バラの頬”を若いヒトの美しさとして表現している。

・ BC600年頃の女流詩人サッフォーは、バラを『花の女王』と詠っていたという。この時期にはバラの評価が固まっていたようだ。

人類が記録を残してからのバラは、現存する世界最古のアートに登場するぐらい魅力ある存在になっていた。
美しく香りよいだけでなくトゲがあるところがよかったのだろうか?

モダンローズの親たち
バラの野生種は北半球に約200種あるが、このうちの8種が現代のバラ(園芸品種)の親と推定されている。

この説は、日本を代表するバラの育種家、鈴木省三(1913-2000 京成バラ園芸) によるが、中国、日本原産のバラがヨーロッパに渡り重要な役割を果す。
これらが品種改良に使われるようになったのは18世紀後半以降であり後述する。

ヨーロッパ、小アジアのバラは、古代ギリシャ、ローマ時代には幅広く栽培されていた。
ローマの皇帝ネロ(37-69年)は、冬場でも大量のバラを求めたので、耐寒性の強い品種改良がされ、エジプト、南ローマまで栽培が広がり、そこからローマに輸送し市場が立ったという。
悪名高い皇帝だったが、バラの品種改良と市場化には貢献したようだ。

476年にローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などは、この芳しきバラの美がわからなかったようで、中世ヨーロッパからはバラが消え、修道院でハーブ(薬草)として栽培されるだけになる。
“美というものは、機能的・合理的なものではなく発見する感性がないと失われる”、
という真理、或いは、原理が、私ごとだけでなく歴史的にあったということが浮かび上がってしまった。

バラを受け継ぐ(バラだけでなく科学・芸術も受け継ぐ)のは、イスラム圏の国と人々だった。
そのイスラム圏からモノとしてのバラ、及び、感性としての審美性がヨーロッパに逆輸入されるのは、
スペイン半島・オーストリアなどへのイスラム勢力の浸透、十字軍でのイスラム圏進攻などの戦争を通じてだった。
戦争という最悪の交流は文化の伝播でもあり、失うものは大きいが得るものも少しあったということだろう。

ヨーロッパに現代のバラの親となるオールドローズが出揃ったのは、ルネッサンスから大航海時代を経て19世紀初めには次のような8種が出揃った。

1.ロサ・ガリカ(小アジア)
2.ロサ・ダマスケナ(小アジア)
3.ロサ・アルバ(ヨーロッパ)
4.ロサ・ケンティフォーリア(南ヨーロッパ)
5.ロサ・フェティダ(イラン・イラク・アフガニスタン)
6.コウシンバラ(中国)
7.ノイバラ(日本原産)
8.テリハイノイバラ(日本)


モダンローズの祖先カタログ 
バラの歴史は人類以上に古くその野生種は200種もあるというのに、現代のバラ、“モダンローズ”の祖先は8種という。

(写真)ラ・フランス
 

オールドローズとモダンローズの境目は、最初のハイブリッド・ティ(HT) 『ラ・フランス』 が誕生した1867年を境にしている。
それ以前のバラを「オールドローズ」、それ以降を「モダンローズ」とよんでいる。


1800年代初めにジョゼフィーヌがマルメゾンの庭園で昆虫などによる自然交配ではなく、初めての人為的な交配によりバラを作ったことは前に触れた。
この1800年代初めから1867年までの期間を「プレ・モダンローズ」としてここでは呼ぶことにし、オールドローズの系譜はジョゼフィーヌにバトン立ちするまでを描くこととする。

厳密に言うと19世紀の中頃までヨーロッパで栽培されていた品種をオールドローズというが、中国のコウシンバラ、日本のノイバラもジョゼフィーヌのマルメゾン庭園に存在していたがオールドローズに含めることとする。 

8種の選定や花の特徴などは、鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)に教えを乞い、バラの絵は, 19世紀初めのオールドローズのリアリティに近づくためにジョゼフィーヌのバラを描いたというルドゥーテ『バラ図鑑』(1817-1824)を活用させてもらった。

3人の皇后に愛されたルドゥーテ
バラの絵師ルドゥーテ(Pierre-Joseph Redouté 1759-1840)にふれておかなければならない。彼を育てたのはフランスの植物学者で『ゼラニュウム論』を書いたレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800 )だった。

自分の著書の植物画を描くアルバイトを探していたところ王立植物園博物館で絵画技師をしていた若き画家ルドゥーテを見出した。
植物画を描くのに必要な植物学をルドゥーテに教え、イギリスまで連れて行った。

最もこのイギリス行きは、1789年に、友人(Joseph Dombey 1742-1794)から預かった植物標本をフランス革命の破壊とスペイン政府からの返還要求から守るためにイギリスに逃げたのだが、帰国後1800年にパリ郊外の森で暗殺された。

ルドゥーテは、このイギリスで輪郭線を取り除く銅版画の新しい技法を学び、独特の美しい植物画を描く世界を確立したのだから恩人に出会ったことになる。

フランスに戻ってからのルドゥーテは、マリーアントワネット皇后のところでの働き口を紹介され、ここから、ジョゼフィーヌ皇后、マリー・ルイーズ皇后に仕えることになる。ただし、マリー・ルイーズの場合はルドゥーテの絵画教室の生徒でもあった。

フランス革命をはさんだこの時代に生きたレリティエールは暗殺、マリーアントワネットは断首刑、ジョゼフィーヌはナポレオンとの離婚後病死、マリー・ルイーズはナポレオン失脚後の変遷など、ばら色とはいえない人生の物語が多いが、
後世に燦然と輝くのは、ボタニックアートの傑作『バラ図譜』であり、マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園に咲いていた美しくもトゲがあるバラだった。

このとげのあるバラは、アートとして、植物としていまなお我々の時を潤してくれる。

モダンローズの先祖となった、オールドローズをカタログ的に紹介する。

1.ロサ・ガリカ(小アジア)
 

Rosa gallica Linnaeus ロサ・ガリカ・(命名者リンネ)
・ 別名 French Rose(フレンチ・ローズ)
・ 原産地は小アジア、コーカサス地方と南・中央ヨーロッパ。
・ 花はローズピンクでサーモンがかかる。一重咲きだが半八重咲きに近いものもある。花径は5-8cm。
・ 樹高100㎝の小低木。
・ 枝や花に強い香りがあるので香料として利用される。
・ ヨーロッパには紀元前に、近東から小アジアの自生種がはいり自然交配したと考えられる。
・ フランスで切花・香料の原料として栽培される。
・ ローズピンクでサーモンがかかった赤紫の花色はガリカの特色でモダンローズに大きな役割を果している。
※ 12世紀十字軍の兵士が西アジアから持ってきたバラ、ガリカローズ(R.gallica officinalis)別名プロヴァンローズは、プロヴァンの地で栽培されたことからこう呼ばれる。
※ 紀元前16世紀頃のクレタ島の遺跡、クノッソス宮殿の壁画にはローザ・ガリカR.gallicaやローザ・ダマスケナR.demascenaと考えられるバラの絵が残っている。
※ ジョゼフィーヌの庭にはガリカ系167種の園芸品種があった。

2.ロサ・ダマスケナ(小アジア・トルコ原産)
 

Rosa damascena Miller ロサ・ダマスケナ
・ 原産地は小アジア
・ 英名ダマスクローズDamask Rose 
・ 花は肉色を帯びた薄いピンク、またはローズピンク。裏弁はやや色が薄い。
・ 八重咲きで中心は4つに別れ平開し、一枝に2-5の花がつく。
・ 花径6-8cm、花弁はやや細長く20-25枚+5枚が通常。
・ ダマスク系の芳香がありダマスク香として珍重される。
・ 原産地小アジアからヨーロッパには紀元前に入ったという説が有力。
・ 十字軍の遠征で中近東から再移入する。

3.ロサ・アルバ(ヨーロッパ)
 

Rosa alba Linnaeus ロサ・アルバ
・ 英名Bonnie Prince Charlie’s Rose(ボニー・プリンス・チャーリーズ・ローズ)、Jacobite Rose(ジャコバイト・ローズ)
・ 花は白色、半八重咲き、花径6-8cm 通常は房咲き
・ 濃厚な香りがある。
・ 1597年以前から栽培されていた記録があるが、氏素性に関してはよくわからない。
・ ガリカと他の種の雑種といわれるが、中部ヨーロッパに自生するカニナ(別名ドッグローズDog Rose)との自然交配で生まれたという説もある。
※ イギリスのばら戦争での一方のヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローサ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。

4.ロサ・ケンティフォーリア(南ヨーロッパ)
 

Rosa centifolia Linnaeus ロサ・ケンティフォーリア
※ ビジュアルは、Rosa Centifolia Foliacea(一般名: Leafy Cabbage Rose)

・ 英名キャベジ・ローズCabbage Rose プロバンス・ローズProvence Rose
・ 花はソフトピンクを中心とした花色
・ 大輪で中心が4つに分かれる。花弁数は約100枚でケンティフォーリア・ローズ(百枚花弁の花)と呼ばれるゆえん。
・ 英名のキャベジ・ローズもキャベツに負けないほどの花弁の巻きをさしている。
・ 樹高100cm、株はいわゆるブッシュローズ
※ ダマスケナ系とアルバ系の雑種といわれるが、紀元前数千年からの自然実生で、コーカサス東部で野性のものが見つかる。フェティダやガリカのように人為的に西に移されたと考えるようになってきた。
※ ヨーロッパには1596年に移入したという説があり、17世紀後半にオランダで品種改良がされる。

5.ロサ・フェティダ(イラン・イラク・アフガニスタン)
 

Rosa foetida Herrmann ロサ・フェティダ
※ ビジュアルは、Rosa Foetida Bicolor(Austrian Copper Rose)
・ 英名Austrian Brier Rose(オーストリアン・ブライアー・ローズ)
・ 原産地は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の山麓といわれる。
・ 花は濃黄色で、黄色のモダンローズの品種改良で重要な役割を果す。
・ この変種である上記版画のRosa Foetida Bicolor(英名オーストリアン・カッパー・ローズ)は、花弁の外側が赤又はオレンジで、内側が黄色となる。
・ 花径5-7cm、花弁数5枚
・ 乾燥期の香りは臭いほど強い。種小名のFoetida(悪臭のある)もこれによる。
・ 1542年にヨーロッパに伝わり、オーストリアから入る。
・ Rosa foetida bicolor (Jacquin)Willmottロサ・フェティダ・ビコロール(英名オーストリアン・カッパー・ローズAustrian Copper Rose)の学名上の母種
※ ルドゥーテ『バラ図譜』では、169品種描かれた中で2品種しかかかれていない。ジョゼフィーヌの庭園にもこの品種は少なかったのだろう。理由はお分かりのように悪臭のせいだろう。
※ しかし、黄色のバラの品種改良では重要な存在となる。

6.コウシンバラ(中国)
 

Rosa chinensis Jacquin ロサ・キネンシス
※ ビジュアルは、- Rosa Chinensis Cruenta(Blood Rose of China)
・ 和名コウシンバラ、中国名月季花、長春花、英名China Rose Bengal Rose
・ コウシンバラの意味は庚申=(かのえさる)で60日に一度あることをさす。
・ 中国四川省、雲南省原産で野生種は一重咲き。
・ 花は濃い紅色、1枝に3―5輪つく
・ 花径5-6cm、花弁数10-15枚外側がやや剣弁になる。
・ 花は薬味風の香りがある。
・ 樹形は直立性
・ 四季咲き性によりガリカ系のバラと交雑が繰り返され、現在の四季咲き大輪のバラが確立された重要な基本種。
・ 1752年にスウェーデンに入り、1792年ヨーロッパに紅色花で八倍体のコウシンバラが伝播する。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』には2種掲載されており、この図鑑で最初に掲載されたバラが何とコウシンバラだ。それだけ1800年初期には貴重なバラだったのだろう。

7.ノイバラ(日本原産)
 

Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
※ ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)

・ 和名ノイバラ、英名Mulltiflora Japonica 
・ 花は白色、
・ 花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・ 花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。
・ 香りよい。
・ 耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
※ 日本の野生種のバラは、明石の古墳から三木茂が1936年に採取した化石があり、今から400万年―100万年前ののものという。
※ ルドゥーテの『バラ図譜』では2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1800年以前にヨーロッパに伝わっていた。
実際のノイバラ :(参照:リンク:ボタニックガーデン)

8.テリハノイバラ(日本)
 

Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
※ 写真の出典:『身近な植物と菌類』
http://grasses.partials.net/
最後は、日本原産のテリハノイバラだが、残念ながらルドゥーテ『バラ図譜』には影も形も見当たらない。
・ 和名テリハノイバラ、英名Memorial Roseメモリアルローズ
・ 日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・ 葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・ 花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・ 雄しべは黄色で数が多い。
・ 甘い香りがする。
・ 花は円錐花序で10数個つく。
・ 茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・ 19世紀フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る

9.ロサ・モスカータ(中国)
鈴木省三著『バラ花図譜』(1996年小学館)では、モダンローズの親を8種としているが、もう1種を追加しておきたい。それは、ムスク系ローズの親となる“ロサ・モスカータ”で、野生種が発見されていないという不思議さがある。
 

Rosa moschata Herrmann ロサ・モスカータ
※ビジュアルは、Rosa Moschata

・ 中国南西部、ヒマラヤ原産といわれる。
・ 花は純白色、花径3-5cm、花弁数5枚、一日花
・ うめ、サクラに似た花形
・ 四季咲き性
・ 香りはムスク系で濃厚
・ つる性で2m。グランドカバーとして利用される。
・ 優れたにおいと遅い開花という特色があり、ハイブリッド・ムスクの園芸種の親
※野生種は発見されていずミステリアスなバラだが、16世紀の文献に記録されている。


江戸時代末期の日本の園芸環境は、世界一といってよいほど庶民にまで植物を生活に取り込んで愉しむということが出来ていたようだ。
しかし、自然に手を加え人工的に加工するという発想がなかった日本では、人為的な交配で種を開発するというアクションが弱かったことは否めない。

1800年代前半のジョゼフィーヌのマルメゾン庭園は、「素晴らしい」発想を持っていた。
といえるだろう。

【バラシリーズのリンク集】
1.モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1
コメント

モダン・ローズの系譜 と ジョゼフィーヌ

2019-05-21 11:35:19 | バラ
芳しいバラの季節になった。
そこで、多少時間ができたので、これまで書き散らかしてきたバラのシリーズをまとめてみようと思い着手した。リンクを使いシリーズが分かりやすく構成できるといいのだが・・・・・
※ このシリーズは、2008年11月20日―2009年1月8日までブログに掲載した原稿に一部手を入れ編集をした。

序 バラ事始めのいいわけ
バラの歴史は古く、紀元前5000年頃のエジプトで栽培されていたようだ。
現代のバラとは異なるが、花の美しさ、芳香のよさで王侯貴族に愛された花でもある。

バラの歴史の転換点には有名な女性がかかわってくる。
クレオパトラ、マリーアントワネット、ナポレオンの后ジョゼフィーヌなどたくさんある。特に、バラの世界では、ジョゼフィーヌ以前と以後では大きく異なる。

ジョゼフィーヌを中心に、Beforeジョゼフィーヌの“オールドローズの歴史”とAfter ジョゼフィーヌの“ハイブリッド誕生の歴史”を、
世にバラマニアのための様々な書物・データなどがあるなかで、バラがちょっと気になるなと思っているヒト向けに(自分のレベルだが)再整理をしてみる。

そのスタートはこの花しかないだろう。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

1997年8月31日に痛ましい事故でダイアナ元英国皇太子妃が亡くなった。
そのメモリアルと彼女がかかわったチャリティ資金を得るために、1999年にアメリカJ&P社で作出されたのが、ダイアナ プリンセス オブ ウェールズだ。

J&P社は、ジャクソン・アンド・パーキングといいアメリカに於ける有名な育種会社で、バラの新種開発と通信販売という新しい手法で20世紀初頭から成長した会社だ。

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズは、四季咲きでクリーム地の花弁にうっすらとピンクが載りさらに朱色がまし香りも素晴らしいハイブリッド・ティー(HT)だ。

(写真) ダイアナ プリンセス オブ ウェールズの花
 

ダイアナ プリンセス オブ ウェールズ(Diana, Princess of Wales) 
・ 系統:HT(ハイブリッド・ティー)
・ 作出:アメリカ、J&P社(ジャクソン・アンド・パーキング)、1999年
・ 花色:クリーム地に薄いピンク
・ 咲き方:四季咲き
・ 樹高:150cm

補 足
とげのあるバラ、角が出ているときのかみさんからは遠ざかろうと思っていたが今は懐かしい。不帰になって初めて気づくこともある。
しかし、バラの歴史だけはおさえておきたいと思い始め、小さく始めてみることにした。
といっても、自ら作るのではなく借景に徹しようと思う。
わが庭でも3種ほどあるが、これを増やすことはせずセージを増やすことに専念し、バラ園やよそ様の庭の美しいバラの記録を撮らせてもらいバラの物語りを残させてもらう。当面の借景先は、野田市清水公園にある花ファンタジアのバラ園である。

 バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ

日本で愛されている花の代表は、カーネーション・キク・バラと言ってもよい。
キクは一度取り上げたが、原産地と原種がわからないほど雑種化され園芸品種が増えている。

バラも同じようで、いま手にしている豊富な色彩、花形などの美しいバラは園芸品種だ。
その園芸品種の始まりからバラストーリーをスタートする。

1813年、パリから西に20㎞のところにあるマルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生した。ここからバラの世界は大きく変わることになる。世界で初めて人工交配による品種改良が行われ、幾多の新品種がここマルメゾンで育成された。
ジョゼフィーヌがバラの歴史を変えることになる。

(写真)マルメゾン城
 

マルメゾンの館は、ナポレオンとその妻ジョゼフィーヌが1799年に購入した。あまりにも高額でナポレオンには払えなかったが、しかし、ジョゼフィーヌは諦めなかった。“憧れの英国キューガーデンのような自然庭園を作りたい”これがジョゼフィーヌの動機で、ナポレオンの尻をたたいて手に入れてしまった。

ナポレオンの出世とともに、世界中から高価なバラの苗木を集め、ナポレオンと離婚した1809年から彼女が死亡する1814年までの間ここに住みバラ園をつくった。
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めたこの当時の全てのバラに近い250種があったというから驚きだ。

マルメゾンの庭園に使ったお金の総額は国家予算レベル??
ジョゼフィーヌのバラ園には、世界中から集めた250種があったというが、一体いくらぐらいお金を使ったのだろうか? というのが素朴な疑問としてわいてくる。

ジョゼフィーヌが、遅れていたフランスのバラ育種産業をイギリスと並ぶように育てたくらいだから相当使ったようだ。これを趣味・贅沢・浪費などというが、産業を振興した政策コストでもあり、最近の2兆円バラマキとはだいぶ違う。これは浪費でも政策コストでもなく無駄という。

この時代のヨーロッパNo1の育種業者は、イギリスのリー&ケネディ商会で、マルメゾン庭園のバラはここから仕入れていた。
1806年にイギリスとヨーロッパ大陸との通商を封じ込めるために“大陸封鎖令”をナポレオンが出した。
イギリスと通商が出来なくて困るのはジョゼフィーヌもしかりで、特権を使い抜け道を作った。
それは、ベルギーのジョゼフ・パルメンティエ(Louis-Joseph-Ghislain Parmentier 1782‐1847)を経由して苗木を手に入れたようだ。植物へのほとばしる情熱をナポレオンですらとめることが出来なかった。

マルメゾンのバラ園には、赤バラのガリカ、ダマスク、白バラのアルバ、日本産のハマナスなどオールドローズが集積しただけでなく、ジョゼフィーヌはデメス(Jacques-Louis Descemet 1761‐1839)、元郵便局員のデュポン(André Du Pont 1756-1817)など多くの園芸家を支援し、より美しいバラづくりに打ち込ませたという。

これらの費用は、一説によると国家財政の三分の一にのぼる負債を残したともいわれるが、ナポレオンがやった戦争ほどお金がかかるものはないので一説とするが、かなりのものをバラのために使ったことは間違いない。
マリーアントワネットは1793年に断頭台に消えていったが、無聊を慰める庭造り・バラの収集は、マリーアントワネットから引き継いだのだろう。

ジョゼフィーヌと“リー&ケネディ商会”
ジョゼフィーヌ御用達の育種業者は、18世紀ヨーロッパNo1の育種業者といわれたリー&ケネディ商会であり、ジェームズ・リー(James Lee 1715–1795)と、ルイス・ケネディ(Lewis Kennedy、1721-1782)が1745年に設立した。

18世紀のイギリスは産業革命が進行した世紀だが、一方で、世界の花卉植物が愉しめる時代でもあり、王立キュー植物園が始めて海外に派遣したプラントハンターであるフランシス・マッソンのようなプラントハンターと、採取してきた植物を育成栽培する育種業者(nurseryman)が勃興活躍した。

ジョゼフィーヌと交流があったのは、2代目のジェームズ・リー(1754-1824)で、南アフリカでのプラントハンティングのベンチャービジネスに共同出資もしていたようだ。
ジョゼフィーヌはバラだけでなく、南アフリカケープ地方のヒースマニアでもあり、1803年からのジェームズ・ニーヴン(1774-1827)の南アフリカケープ地方でのプラントハンティングに、ジェームズ・リーなどと共同出資し、その成果をヒースなどの新種という現物でも受け取っていた。ジョゼフィーヌのヒースの収集は、1810年頃には132種まで増えたという。

この2代目のジェームズ・リーは交際範囲が広く、アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソン、さらには、なんとフランシス・マッソンとも相当親密な交際をしていたようだ。

リー&ケネディ商会がNo1といわれたのは、顧客の質だけでなく、世界的な花卉植物の仕入れが可能だから出来上がった。そこには正式ルートだけでなく裏ルートも存在したようで、ジェームズ・リーとマッソンの交際も種子・球根などの横流しとしで疑われた。
マッソンとジョゼフィーヌの接点は確認できていないが、ケープ地方のヒースを採取した第一人者はマッソンであり、ジョゼフィーヌにとっては、憧れのヒトであったかもわからない。

いつの時代でも趣味という領域は意外な人物を結びつけ、その先にさらに意外な人物が連なるという面白いネットワークをつくる。
善意の人たちのネットワークは、意外な力を発揮するが、悪意を持ったヒトがかかわると食い物にされるもろさがある。ジョゼフィーヌ、マッソンは食い物にされる善人のようだが、ジェームズ・リーはどうだったのだろう?
この商会は、卓越した個人技でNo1を構築したため、卓越した個人が消えた1899年に154年の歴史を閉じた。

ジョゼフィーヌの履歴書
ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763 - 1814)は、1804年にナポレオンが帝位に就いたのでフランスの皇后になった。

彼女の生い立ちは、フランス出身かとばかり思っていたが驚いたことにコロンブスが発見しコロンブスにして“世界で最も美しいところ”と言わしめたカリブ海に浮かぶマルチニック島(現在はフランスの海外県)の貴族の家に生まれた。

1779年16歳のときにパリに出てきて、植民地長官の息子アレクサンドルと結婚したが1783年に離婚。
1794年にアレクサンドルが革命政府に処刑されてからナポレオンと知り合い、1796年に結婚した。
ナポレオンと結婚しても、遊び癖は直らずパリでは有名な遊び人だったようだ。

ほんの一例が、1722年に完成したエリゼ宮は、フランス革命の激動を乗り越える際にダンスホールとゲームセンターになった時期がある。
ルイ16世のいとこにあたるルイーズ=バチルド・ドルレアン公爵夫人が生活苦に陥ったため1階部分を貸し出したためである。
このダンスホールでひときわセクシーで目立つた美人がいた。エジプト、イタリアなどに遠征しているナポレオンの妻ジョゼフィーヌで、彼女が来るパーティやダンスホールなどは商売として成功するといわれるほどの有名人で相当な遊び人だったようだ。
エリゼ宮は今では国家元首が住む宮殿となっているが、最初にここに住んだ国家元首はナポレオンだった。
こんなジョゼフィーヌが、ナポレオンとの離婚後は、或いは、マルメゾンの館を買ってからは、庭造りと植物学にのめりこむ。

(写真)マリールイーズの花
 

そして、1813年、マルメゾンの庭園でダマスクローズの園芸品種が誕生し、このバラに『マリー・ルイーズ』と命名し、別れた夫の再婚相手マリー・ルイーズに捧げた。
ナポレオンが再婚したマリー・ルイズは、神聖ローマ帝国フランツ二世の娘であり、マリーアントワネットの姪に当たる。

ハイブリッド品種の先駆け『マリー・ルイーズ』が誕生した1813年は、ナポレオンがロシア進攻に失敗し翌年退位、エルバ島に島流しとなる時期であり、また、ジョゼフィーヌも翌年に病気で亡くなる。

フランス革命があったからこそカリブ海の一植民地の娘がフランスの皇后になれることが出来、離婚後は、庭造りと植物学に熱中しバラの歴史に革命をもたらした。
このエネルギーは何処から来ていたのだろう?

ジョゼフィーヌの本名は、マリー・ジョゼフ・ローズだった。
ナポレオンがフランス風に変えた“ジョゼフィーヌ”から“ジョゼフ・ローズ”に戻ったのだろうか?
激動期にマルメゾンで誕生したバラは、大きなうねりをつくり新しい血筋として未来に向かっていった。
彼女の名前には "ローズ”があり、そのバラが歴史に足跡を残した。

<追加・補足>
ジョゼフィーヌとナポレオンとは、確率を超えた運命的な出会いだった。

ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。

ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。
父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。

一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。
この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。
ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。

こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
 
(写真)皇后ジョゼフィーヌ


ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢
『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』
(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)

ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。

「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」
というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」
と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。

ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。

お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。

歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。 
という男と女の革命の結末だったのだろうか?

余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため、捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり “私の歴史” を残すことが可能になった。
きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。

【バラシリーズのリンク集】
2:バラの野生種:オールドローズの系譜
3:イスラム・中国・日本から伝わったバラ
4:プレ・モダンローズの系譜ー1

コメント

縄文時代からのハーブ、サンショウ(山椒)の花

2019-05-15 15:02:59 | その他のハーブ
【山椒は小粒でもぴりりと辛い】
とは言われるけど、何だったっけ~ この意味! 
というのが今のサンショウの位置づけかもわからない。

意味が良く分からない諺だけが有名で、土用の丑の日にうなぎを食べる時におもむろにサンショウをかけて食べる。
これ以外でサンショウの出番は少ない。
(実は、香辛料の七味唐辛子の中にはサンショウがたっぷり入っているのだが~~一味の唐辛子しか意識していない。)

ところが、サンショウは利用できないところがないほどの有能な植物で、しかも日本原産の数少ないハーブでもある。

若芽は木の芽として食用、料理の付け合わせとしてのツマとして使われ、
実(ミ)は香辛料サンショウとなり、
果皮は漢方の生薬として健胃薬になり、
は硬くて丈夫なので擂り粉木(スリコギ)となる。

棘(トゲ)は、さすがに使い道がなさそうだが、イヤイヤどうして、嫌な奴を寄せ付けない道具として使えそうだ。

(写真)サンショウの花(雌株の花)


この宇宙ステーションの組み合わせのようなものがサンショウの花で、これは雌花に当たる。
サンショウは雌雄異株(シユウイシュ)で サンショウの実を実らせようと思うのならば雌株と雄株の2本を植える必要がある。
我が家にある山椒は雌株なので、近くに雄株がないと受粉できないことになるが、木の芽としての香りの利用なので実らないでも特に困ることはない。

雄しべと雌しべが同じ花にあるのが普段目にする花の形態で、これを雌雄同株(シユウドウシュ)と呼んでいる。
これに対して雄しべと雌しべが違った株にあるものを雌雄異株(シユウイシュ)と言い、同じ遺伝子同士での子供が誕生しない仕組みとなっているが、家庭園芸フアンにとっては、違いを識別して二本買うかどうかを考えないといけないので厄介なことだ。
イチョウの木が雌雄異株として有名で、街路樹に使われるイチョウは果肉から臭い匂いがする実がならない雄株を使っている。
くさや、ギンナン、沖縄の豆腐よう等臭いものは敬遠されがちだが、臭いものはおいしいというのが分かるまで時間がかかる。

(写真)サンショウの葉


サンショウ(山椒)の歴史

(1)魏志倭人伝
三世紀末(280-297年)に西晋の陳寿によって書かれた中国の歴史書(後に正史となる)『三国志』の中に、『魏志倭人伝』として知られる部分がある。
ここには、倭国の地理・風習などが書かれ、サンショウ・ミヨウガ・ショウガ等が日本でも栽培されているが、美味しさを知らないと書かれている。

<原 文>
「出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・櫲樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獼猴・黒雉。」

<訳 文>
「真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。
薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。 また、猿、雉(きじ)もいる。」

ショウガ(生姜、生薑、薑)は熱帯アジア原産、ミヨウガ(茗荷、蘘荷)は東アジア原産で、日本には中国大陸経由で2~3世紀ころ伝わったと言われる。
魏志倭人伝が書かれた頃に日本に伝わり、肉類の臭み消しとして中国と同じような香辛料・調味料として使用していないためなのか “美味しいのがまだ分かっていない” と評価されたようだ。
サンショウの使い方はいまだにまだ十分に分かっていないのだから当然かもしれない。!

(2)日本書紀(681-720完成)、古事記(-712完成)
原産国、日本でのサンショウの記録はと言えば、720年に完成した日本初の歴史書『日本書紀』及び同時期に書かれた『古事記』にも同じ歌が載っていた。
8世紀初めの古事記、日本書紀の頃には、生垣にサンショウ(山椒)を植え栽培植物としての定着が伺える。
しかし、どう使っているかというレシピ的な記述はまだ見られないので、薬味・薬としての使い方なのだろう。

【原 文】
『みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮(カミラ=ニラ)一本 其根が本 其ね芽繫ぎて 撃ちてし止まむ
と歌をお詠みになり、さらに、
みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒(ハジカミ) 口疼く 我は忘れず 撃ちてし止まむ』(日本書紀 巻第三 長髄彦)

【訳 文】
(天皇の御稜威(神や天皇の御威光)を負った、来目部の軍勢の、その家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(カミラ=ニラ)が一本ある。その韮の根本から、芽までつないで《抜き取るように》、賊の軍勢をすっかり討ち破ろう)
と歌をお詠みになり、さらに、
(天皇の御稜威(神や天皇の御威光)を負った、来目部の軍勢の、その家の垣の本に、植えた山椒(ハジカミ)は、口に入れるとヒリヒリするが、《それと同じように、賊の攻撃は手痛いもので、》朕は今もって忘れない。必ず、討ち破ろう)

(3)縄文時代初めには山椒が使われていた痕跡が見つかる
文字を使った記録は中国で三世紀末、日本では八世紀からとなるが、
縄文人の生活の跡、遺跡からサンショウのこん跡が発見されていて、
日本原産のサンショウは、縄文の初期から(栽培され?)食され、縄文中期以降になると地域的にも広がりを示し数多くの遺跡で使用のこん跡が発見されている。

時間軸で発見された場所をみていくと次のようになる。
滋賀県大津市にある粟津湖底遺跡のクリ塚から縄文早期初頭の山椒のこん跡が見つかったのを初めとして、
石川県七尾市の三引遺跡(ミビキイセキ)の貝塚から縄文早期~前期の頃の山椒のこん跡、
縄文時代の遺跡として有名な青森市の三内丸山遺跡では、縄文前期末の遺跡から見つかっている。

この遺跡は野球場を造ろうとしていたら発見され、今では遺跡観光として注目されているという。

(写真)サンショウの立ち姿


サンショウ(Zanthoxylum piperitum)
・ミカン科山椒(サンショウ)属の落葉・芳香・棘のある低木。
・原産地は日本、北海道から屋久島及び韓国南部に生育する。
・学名は、ザントキシラム・ピペリィトマ(Zanthoxylum piperitum (L.) DC.(1824))で、1824年にスイスの植物学者ドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778‐1841)によって命名された。
・属名の“Zanthoxylum”は、黄色い木を意味し、種小名の“piperitum”は胡椒のようなを意味し、実がピリ辛からくる。
・日本名は、山椒(サンショウ)。古名は、ハジカミ(椒)。こちらの字を書いた薑(ハジカミ)は、ショウガの古名。
・雌雄異株で4~5月に開花する。雌の花は5㎜の大きさの黄緑色の球形で果実・コショウとなる。雄の花は、花サンショウとして食することができる。
・種を取り除いた果皮は、乾燥させすり潰して粉山椒となり調味料として利用する。
・果実を取り除いた果皮は日本薬局方では、生薬・山椒(サンショウ)としていて、健胃、鎮痛、駆虫作用があるとしている。
・葉は互生し縁は鋸歯状、その谷のところに油点があり、葉を揉むとこの油点が壊れて芳香成分が発散する。
・枝には鋭いとげが2本づつ付く。
・サンショウは、夏の日差しに弱く半日蔭の湿った所を好む。

(付録)学名命名までの経緯 推測

日本原産のサンショウは、1759年にリンネ(Carl Linnaeus 1707-1778)によってファガラ・ピペリータ(Fagara piperita) と命名されていた。
しかし、スイスの大植物学者で、『植物界の自然体系序説』でリンネの植物体系の矛盾を修正する考えを出したドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)により
1824年に“胡椒のようなピリ辛な味がする実を持つ黄色い木”を意味するザントキシラム・ピペリィトマ(Zanthoxylum piperitumと命名され、今ではこの学名が国際的に認められている。

変わって認められるには根拠が必要で、日本でサンショウを採取した植物標本などのサンプル等が必要となる。
誰が採取したのだろうか?という疑問が残る。
日本の開国は、1854年3月31日に締結した日米和親条約からなので、1824年は鎖国中になる。
鎖国中に日本に来れるのは長崎出島に拠点をもつオランダしかない。
長崎出島を根城に日本の植物及び情報を収集し、命名者ドウ・カンドールがこの情報に接する可能性がなければならない。

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)か、
ツンベルク(Carl Peter Thunberg , 1743-1828、長崎出島滞在期間:1775年8月-1776年12月)になるのだろうが、
ツンベルクよりも後に来日したシーボルト(長崎滞在期間:第一回1823年8月-1829年12月)も1823年に長崎に到着しているのでギリギリの可能性があることが分かったが、1日で行き来出来る飛行機の時代ではないのでシーボルトの植物標本などをみて命名したのではなさそうだ。

だとするとツンベルクの可能性が高くなる。
ツンベルクは、日本滞在1年半と短いが、1784年に発表した『Flora Japonica(日本植物誌)』には、約812種の日本の植物を記載し、新属26、新種418を発表している。
そして、その中にサンショウの標本もあり、名前は、師匠であるリンネが1759年に命名したFagara piperita (ファガラ ピペリータ)を踏襲していた。

(植物標本)ツンベルクの植物標本、サンショウ

左がイヌサンショウ、右がサンショウ
(出典)Thunberg's Japanese Plants

ドウ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)は、ツンベルクの『Flora Japonica(日本植物誌)』をみて、学名を修正した可能性が高そうだ。

ちなみに、サンショウが属していたミカン科Fagara属には185の植物で構成されているが、1つを除く184の植物は名前を正式に認めてもらえない状態にあり、リンネが命名し、ツンベルクが追認した日本原産のサンショウの学名、Fagara piperita (ファガラ ピペリータ)も未承認のままになっている。

な~んだ、という結論だったが 学名の変更には、リンネという偉大な師匠の弟子という立場と、リンネの体系そのものを修正しようという立ち位置の違いが出てしまったのだろうか?

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