「この(不味い酒or毒の入った)杯を取り下げてくれ」という思いに関して:
「杯(Cup)」は、「ワールドカップ」とか「~杯」のように、優勝(した人やチームに与えられる美酒を入れる杯)を競って争う大会自体を指す意味で用いられています。
「杯」自体は容器ですから、美味しい酒が入る場合もありましょうが、不味い飲み物も入るでしょうし、ソクラテスが飲んだような「毒」が入る場合もあるでしょう。
美味しい酒(飲み物)を飲みだいと思うのは自然(当たり前)です。不味い飲み物や、ましてや毒は飲みたくないと思うことも当然です。
自分や周りの人(家族や仲間)にとって快適な状況であることを望み、つらい状況を避けたいと望むことも、自然で当たり前のことです。
「状況(環境)」を「杯(酒)」で喩えて表現すると:
「不味い酒or毒の入った杯は取り除けてくれ。美味い酒をもってこい」
というのが、私たち人間の「自然」「当たり前」かと思います。
このような人間の「自然・当たり前」に対して、仏教やキリスト教は、どのような教えを説いているのでしょうか?
私は宗教学者でありませんし、よくは知りません。
ただ、ある種の仏教では、「こんな不味い酒飲めるか。ふざけるんじゃねー」みたいな感情自体を、減らしたり、その感情が発露しないよう訓練するみたいです。
例えば、「不味い・美味い」というアレコレを「考えない練習」したり、「ふざけるんじゃねー」という怒りに対して「怒らない練習」をしたり。
そのような仏教が一定の有効性をもつことは確かでしょう。
ただ私個人は、そのような仏教を明確に苦手です。
私は、「怒らない練習が大事」とか言われるだけで腹が立つ人間ですので、そのような仏教は、私の救いには決してなりません。
ありがたいことに、一番古いお経アッタカヴァッガでは、そのようなことを一言も言いません。
「何々の境地を目指すなんてのは、それじたいが『依りかかり』だから、それが『依りかかり』だと明確に知って、完全に放っておけ」と言っています。
何と素晴らしい言葉でしょう。
何という救いでしょう。
さて、キリスト教は、「こんな酒飲めるか」みたいな人間の自然に対して、どういう教えを説いているのでしょう?
私はよく知りません。
ただ、キリストご自身が、神様に向かって「この杯を取り除けてほしい」と明確に祈ってはいます。
ですから、キリストご自身は、人に対しても、「不味い酒は飲みたくない、などと思ってはいけませんよ」と説くはずがありません。自分でそれ言ってるのですから。
何というありがたいことでしょうか。
「この不味い酒を取り下げろ」の思いが「宗教の極意である」とは、私は思いません。
ですが、そのような思いは、「宗教の極意に反するものでは全然ない」と明確に思います。
西田幾多郎は、「父よ、御心にかなわば、この杯を取り除けたまえ、されど、わが心のままをなすにあらず、御心のままになしたまえ、とかいう語が宗教の極意である」と明確に書いています。
「この不味い酒飲めるか、美味い酒をもってこい」という気持ち自体を無くそうとか減らそうと努力する必要は全くなく(だって絶対に不可能ですから)、私には決してわかることのない、腑に落ちることのない「あなた(天)の望むこと」を祈ればよいのです。
ここに西田のいう「宗教の極意」というか、人生ギリギリの極意があります。
西田は、禅の主義を猛然と実践した人ですが、私が思うにも禅の極意もこれ以外にないと明確に確信しています。
たまたま人間に生まれて、これほどありがたいことに巡り会えたことは、何という奇跡でしょう。感謝以外ありません。
その時だけは自分に祈っていました。
助けてください。と
絶望したからです。
今 考えてみると 絶望の中でも出来ることが祈りであり その言葉に感謝です。
その時だけは自分に祈っていました。
助けてください。と
今まで信じていた神も仏もいないと
絶望したからです。
ですが、不思議にもその時から信心しています。
南無阿弥陀仏!
入りたく在りませんでした。
どちらかといれば おっさん達の愉快なホラ噺の方が・・
この時期を逃した事 今にも繋がっている
「こんな話聞きたくない]
これって・・・・