生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「瞑想」してきました。

2016年03月09日 | 「ブッダの言葉」序

昨日(3月8日)、「瞑想」してきました!

講師(瞑想の指導者)は小池龍之介さんでした。

その3日前に天正寺で「クリシュナムルティのDVDを見る会」を行ない、彼が「瞑想」に関して語った言葉を聞いたばかりで、こんなにもすぐにクリシュナムルティの語る瞑想の境地を体験できるとは!

今回の「瞑想」で私がした体験は、クリシュナムルティが語ったこと、そのままでした。あまりにもピタリ一致していて、逆に少しびっくりしたほどです。クリシュナムルティのことを「20世紀最大の偉人」と呼ぶ人がいるのも、よくわかります。(私にとって、同時代に生きた人の中で、仏教や禅を学ぶ上で、一番恩恵を受けているのは、クリシュナムルティです。)

クリシュナムルティほど、「瞑想」によって、「brain(脳)」や「mind(精神・心)」に、どのような影響があるかを、的確かつ明確に語った人はいないと思います。

彼が「瞑想」に関して語る言葉を原文で挙げます。

There is the meditation of the Zen Budhists. Then there is the Buddhist meditation, .

To the speaker, all that is no meditation. Because those are all the result of conniving, maneuvering. So gradually, if you practice all of those things, your brain becomes inevitably dull.

 

The practice of meditation is no meditation. Sitting on the banks and looking, you know, making the mind more and more dull, and saying Yes, I've spent an hour, marvelous.

 

意訳しますと:

「禅の瞑想(坐禅や禅定)があります。仏教の瞑想もあります。(他にヒンズー教やチベットの瞑想などいろいろあります。)

私にとっては、それらはすべて瞑想ではありません。なぜかというと、それらはすべて、conniving(黙従、企て)や maneuvering(巧妙な工夫、策略)の結果だからです。そのような瞑想を実践すると、徐々に、必ず、脳が鈍くなってきます。」

「瞑想のpractice(実践、練習)は瞑想ではありません。川岸に坐って、観察(心の目で見ること、瞑想)を行なったりしていると、精神は、ますます鈍くなってきます。ですが、本人は、「素晴らしい瞑想を一時間すごした」などと言ったりしています。」

 

ここでクリシュナムルティが語っていることは、まさに昨日の私の瞑想体験そのものです!

your brain becomes inevitably dull」「making the mind more and more dull

2回、dull(鈍い)という言葉が用いられていますが、心や脳が、ますますdullになることは「避けられないinevitably」と言っています。

私としては、私以外の人の頭が鈍くなると、別に言えません(他人の心の状態までわかりません)が、この佐々木奘堂という私自身は、瞑想を行なうと、必ず「dull」になると、ものすごく実感できています。これは昨日の2時間の経験だけでなく、これまでに千時間を超える時間、瞑想(数息観など、禅定や三昧を心がけた実践)してきてますから、「本当にクリシュナムルティのいう通りだ」と私自身に関しては完全に断言できます。

 

心を観察するのも心です。「気づき」といっても、その気づきも、ある枠内での気づきです。

ここにある盲点を、「瞑想」とか「気づき」とかで乗り越えるのは不可能です。(頭がdullになった中で、「気づきの心」みたいなのを体験できたと思い込むことは十分可能です。)

 

瞑想や禅定などによって、生きることの根本問題に取り組むことは不可能です。このことに明確に気づき、瞑想(禅定)を全く問題ない画期的な開けの中で生きたのが、ブッダであり、禅だと思います。

このようなブッダの言葉や禅が、そもそもあることに、たまたま巡りあうことができ、それを学べるというのは本当に幸いなことだと思います。

 

ちなみに、瞑想は、心理学的に大きな意味をもちますし、有用だと思います。パソコンや電車やリポビタンDのような道具であり、それらは私もよく利用しますし、恩恵を受けています。そのような、必要な人にとっては有用となる道具の一つとして、瞑想は意味をもつものと、私は本当に思っています。必要な人は用いたらいいと思います。

コメント (4)
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