天正寺で、坐禅会をメインに活動していますが、
そこで一番大切に思っていることを書きます。
天正寺に来る人が、
事業主か雇われている人(従業員)か、
会社の社長か部長か平か、
公務員か民間か、
大きい会社か小さい会社か、
学生か、フリーターかニートか無職か、
なとのことは、全く問題にしません。
それらは、すべて、
社会的立場、肩書き、
いわば「衣」です。
「衣を脱げ(その社会的立場を捨てろ=辞職しろ)」と言うつもりは全然ありません。
「衣(社会的地位等)がつまらないものだ」という思いも全くありません。
ただ、お寺では、それら一切の衣は、全然問題にしません。
一切の衣を脇へ置きませんか?
(一切の衣を脇へ置いたところに立ち返りませんか?)
このことだけが、私が住職をしている禅寺での基本中の基本と思っています。
ただ「脇へ置く」だけですので、
衣を捨てろとか、どうしろというのでありませんから、
難しいことは何もありません。
どういう教えを信じているか、例えば、
仏教徒か、キリスト教徒か、他の宗教の信者か、あるいは無宗教か、
なども(社会的地位と同様)「衣」かと思いますので、
それらの衣に関しても一切問題にしません。
また、社会的地位だけでなく、
「悟りの境地に達した」だの
「無になった」だの、
そういう「心の境地」というような「衣」も
寺では全く問題にしません。
「そのような一切の衣を脇に置いて立つ(脇へ置いたところに立ち返る)」、
これだけを唯一の基本としています。
これが趙州のいう「主人公」、
臨済のいう「随処に主となる」かと思います。
(繰り返しますが、ここでの「主」は、
社会的立場が、雇われている身=従業員か、事業主か
の問題とは何の関係もありません。)
このような教え(ブッダや臨済禅師)に出会えたことは、
本当に生きる勇気を内からみなぎらせてくれるものだと
私自身、実感しています。
このような言葉を常に学びながら、力強く生きていこうではありませんか?
(一切の衣を脇へ置いたところに立ち返りませんか?)
このことだけが、私が住職をしている禅寺での基本中の基本と思っています。
確かに一番大事な事ですね!
世間では、こういう場がすごく少ないんですよね。
そうでない場を開けたらと思っています。
とても素敵でしょうね
以前、心理学の実践方法の一つであるエンカウンターグループに参加した時の記憶が読みかえられました。
その場でも、
職業とか
社会的地位とか
社会から課せられたある種の任務とかも
前に置かず、
本来の自分の声に耳を澄ましてみる...
そのような
外からの形式をそっと横に置いて
本来の自分を見つめる...
自らの中心を探してみる...その試みがありましたね。
筆者様がおっしゃっている衣の意味は
昔経験したエンカウンターグループでの根本と
原則的には通じているのだろうか、と考えさせられますね。