生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

祈り

2017年05月13日 | 「ブッダの言葉」序
「この杯は取り下げてほしい(つらいこの状況を変えてほしい)。だけど、私が望むことでなく、あなたが望むことが成りますように」祈りが人生で一番大事だということ、この思いは、30年前から何も変わらない。なぜ祈りが一番大事か、30年前より、今のほうが明確に言える。天からの恵み、Grace(恩恵)を、普通にしていると(祈りがないと)、歪めて無駄にして、自分を害し、人を害してしまうからだ。この30年の間に、呼吸法とか瞑想とか身体技法が大事ではないかと思い、これらを探求したこともあった。一定の効果のある身体技法や瞑想があるのは確かだ。(例えば、パソコンや自動車が、一定の効果のある有用なものだ、というのと同様に)だけど、祈りなしに、パソコンや瞑想の限定された有用性だけに頼って何になるのか?「私が望むこと」、これが大事なのは当たり前だ。死ぬまで、「私が望むこと」の重要性は何も変わらない。だけど、だからこそ、決してわかることのない、腑に落ちることのない「あなたの望むこと」、これを祈ることの大事さに新たに気づかされること、愕然とさせられること、これは常に新しいものだと思う。私個人が人生で、一番具体的に探求したのは、「坐る」ことだ。明確に気づいたこと:普通に(自分の思う自然に)坐っていると(つまり祈りがないと)、必ず、自分の膝を歪め、腰を歪め、心を歪め、恩恵(Grace)を台無しにする坐り方になってしまう。(人にそれを勧めたら人を害してしまう。)これは、いかなる身体技法によっても解決できない問題であることを悟った。「坐る」という誰でも必ず日常的にしている行為一つをとってみても、「自然(普通)にしていることは、自分を歪め苦しめることなので、自分の自然(普通)を放って大地に身を立て直すこと」、つまり祈りが必要だ。この祈りは、パソコン使う技術や車を運転する技術と、何も矛盾しない。ただ、パソコンや運転の技術なら教えてもらい、習得することが可能だが、そのような仕方で、「祈り」や「歪みなく坐ること」を習得することは決してできない。そもそも「祈り」や「ただ坐ること」に習得はない。ただ祈ること、ただ坐ることがあるだけてす。祈り、坐ることに、生涯をかけたいと思います。なぜなら、私にとって、自他を害さない道、恩恵を無駄にしない道は、これしかないからです。(5月12日、ナイアガラにてこれを書く。)
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2 コメント

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私も (natukusa)
2017-05-18 00:18:35
「私が望むことでなく、あなたが望むことが成りますように」
私もそのように強く思っています。
じょうどう (natukusaさまへ)
2017-05-23 09:00:09
「この杯は嫌だ、違う杯が欲しい」は、そのまま脇へおいて、私もこの祈りに生きていれればと思います。

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