生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

講演録2 自己紹介

2012年02月21日 | 「ブッダの言葉」序
私がどのような過程を経て、そのように思うようになったのか、
私がこれまでどのようなことをしてきたのか、
ごく大雑把に自己紹介させていた だきます。

大学は東大の理科類というところに入りまして、
普通に理系で学んでいました。
ですが、だんだん、「そもそも科学とは何か」とい う
疑問が大きくなってきました。

たまたま河合隼雄先生の『宗教と科学の接点』(岩波書店)を
読んだことも大きなきっかけでした。
それで、大 学時代の専門課程は、教養学部で、
「科学史及び科学哲学」というところに進学し、科学論を学びました。
河合先生やユングの本を読むにつれ、それを本当に学びたい
という思いが強くなってきました。

それで、京大の大学院に入り、河合先生や山中康 弘先生のもと、
臨床心理学を学びました。

臨床心理学を学んで、私が一番衝撃を受けたのはフロイトでした。
それまでも教科書や解説書などでフ ロイトや精神分析のことは
多少聞いていましたが、フロイト自身の著作を読んでみましたところ、
「通常言われているフロイトや精神分析と全然 違うじゃないか!」
と本当に愕然としました。
何にどう愕然としたか、ということも、今日の講演に関係していますので、
後で話します。

これとは別に、宗教に対する関心が、高校生の頃から漠然とあり、
大学に入ってから、だんだん強くなってきました。
遠藤周作の本が好きでよく 読んだりしていました。
(河合隼雄先生の名前も遠藤の本で初めて知りました。)

大学に入ってからは、仏教や禅にも関心が出て、
鈴木大拙の 本を読んだり、禅の手引き書を買って、
自分なりに坐禅もしたりしました。

そのような関心があったため、京都に行ってから、
大学院生として臨 床心理学を勉強するのと並行して、
相国寺という禅寺で禅の修行を始めました。

坐禅とは何だろう?
禅や仏教とは何だろう?
と自分なりに探求 し、師匠についたり、
本を読んだりもしながら探求しました。

そのうちに、坐禅や仏教は何かという疑問が、
ますます大きくなってきまして、
「これはもっと本腰を入れて取り組まないとダメだ」
と思うよう になりまして、出家して修行しました。

2010年12月に大阪天王寺区にある小さな禅寺の
住職となり、今にいたります。
宗派としましては、 広く言えば禅宗で、
法務局の登録上は、「臨済宗」というのに属しています。

臨済宗というのは、中国の9世紀の臨済という
禅僧の名前から来て います。
この臨済に関しても今日の講演と関係していますので、
後で話します。

「坐禅の探求」と言いましたが、これは心の問題が極めて大事
であることはいうまでもないですが、身体、呼吸という側面も重要です。
それで、 「坐禅とは何か?」の探求の一環として、
身体や呼吸のことも、20年くらいにわたり探求し続けています。
このことも、今日のテーマの中で大 事なことの一つですので、
取り上げたいと思います。

今日の講演の目的と、私の自己紹介を大雑把にいたしました。
前もって、このような道を歩むだろうとは夢にも思ってなくて、
その都度、人に出 会ったり、宗教に出会ったり、
出来事に出会ったりする中で、迷っては決断するなかで、
このような道を歩んできました。

これらを貫く問題意識 は、今日のテーマである
「自由」と「一番身近な日常」をいかに生きるか、
ということになると思います。

今日の話の流れ、目次みたいなものを言っておきます。
はじめに、「自由に生きるとは?」、そこにある問題に関して取り上げます。
次に、臨 済、フロイトが、いかに自由の問題に立ち向かったかを
述べていきます。
最後に身体といいますか、人間の一番基本の振る舞いである、
呼吸する とか坐る立つ歩くなどの行為に即して、
いかに自由に生きていくかをお話ししたいと思います。
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「仕組まれた自由」をめぐる講演録

2012年02月16日 | 「ブッダの言葉」序
去年の1月に、大阪松蔭女子大学という大学で、
一般の人に向けて、講演を実習をしました。

前もって、メールで、題名や内容に関して、
いろいろやりとりしました。
私は、「これこれのことを話して、
これこれのように体を使ってやります」
みたいに話しまして、
最終的に大学側がつけた題名は:

人間の基本に立ち返る
ーーただ坐り、立ち、歩き、呼吸して、
心も体も自由に生きるーー

「題が長い」と思ったのですが、
この題名でやりました。

で、大学は、「紀要」といって、
論文集というか、そういう冊子を出しているので、
講演を44枚分の原稿として書くよういってきました。

一年前のことは、あんま覚えてませんので、
今の時点で大事だと思うところを
書き下ろそうと思います。

今の時点で内心思う題名は:

「仕組まれた自由に誰も気づかずに」という問題と、
私たちの一番身近な日常

これも長いですかね?

ともかく、このブログで連載します。
はじまり。


講演の題名が、少し長めですが、
この題の中で一番重要な言葉は、「自由に」です。

いかに自由に生きていくか?
そこにどのような問題がある のか?

このことをみなさんと共に考え、そして各自が
より自由に生きることを探求していってもらいたい
というのが、この講演で目指すところ です。

「人間の基本」ということも題名に入っています。
私たち誰でも、呼吸したり、坐ったり、立ったり、
歩いたり普通にしているわけですが、
この ような日常普通にしていることと離れて、
「自由」を探求しようと思っているのではありません。
私たちが日常普通にしていることを通して、と いうか、
日常の振る舞いに即して、自由に生きることを
探求できるのではないかと思っています。

つまり、「自由に生きるという課題を、
一番身近な日常に即して探求していく」ということが、
今日の講演の一番の目的です。
といいますか、 「今日の講演の目的」にとどまらず、
私の生涯の目的といいますか、この課題を人と共に、
探求し行じていくことを、私自身の生涯にしたいと 思っています。
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確信ーーすべてを貫くもの

2012年02月09日 | 「ブッダの言葉」序
最近、確信したことがあります。
(今年1月30日に確信し始め、2月9日に完全に確信)

禅にしても、ブッダの教えにしても、
特別に何らかの特定のことを説いたものではない
とはっきと思います。
特定のことというのは、仏教的な見方だとか、坐り方だとか、
瞑想法だとか・・・。

私たち人間を縛っている一番の元、
それは何だと、みなさん、思いますか?

臨済や百丈は、「無縄自縛」と言っています。
(8世紀、9世紀の中国の禅僧)

「縄がないのに、自分で自分を縛っている」というのです。

一見、意味不明な言葉ですね。
縄があれば、その縄で、自分を縛ることできるでしょうが、
縄が無いのに(無縄)、自分を縛る(自爆)とは、いったい?かく

「思い込み」・・・それがいかに私たちを縛っているか。
この恐ろしさ、うっかりさ、無自覚さ・・・
これが私自身の、そして人間の根本問題だと思います。

これは私が、東大で専攻した科学論(パラダイム論)でも、
京大で河合隼雄先生のもと学んだ臨床心理学でも、
そして禅でも、
このblogの題名であるブッダの言葉においても、
実に根本問題です。

極めて単純なことですが、どこまでも奥深いことです。
以上のことをめぐって綴っていきます。
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もったいないこと(続き)

2012年02月03日 | 「ブッダの言葉」序
更新滞っていてすいません。
滞っているときは、迷いに沈んでいる場合が多いです…

さて、先の文章の続き。
まず、気づきや思いなどは、決して無意味でないですね。
「もったいないことしていたなー」と気づくことは、
人生でものすごく大事なことだと思います。

「もったいない」に限らず、いろいろな気づきや思いは
とても大切だと思います。

「人を傷つけてしまっていたのか」
「こんなに気づかずに(自分や人に)害を与えていたなんて」
とかの気づきはとても大切だと思います。

仮に死ぬ前に、
「俺は人生何て無駄にしてきたのか」
「とりかえしのつかないことをしてしまっていたのか」
と死ぬ直前に気づいて、どうにもならないとしても、
そのような気づき自体、 決して無駄でなく、
とても大切なことだと私は思っています。

なお私は、悲観論者でもないですし、
人生無意味だと思っているわけでも 決してないです。

その上で、例えば、
「呼吸を数えるの10年もやったりして、
これはそう意味ないな。無駄なことしていたな。
意味があると信じこんでいたのは、ちょっとした洗脳状態
みたいだったな」と思うわけです。
「10年間無駄なことしていたな」と思うわけですが、
このように思えたこと自体は、恩賜のように、
ありがたく思っています。

もちろん、私が今はしないことを他人がしている場合、
それを否定するのは、思い上がり、独りよがりだと思います。
人のしていることや大切に信じこんでいることを、
無造作に批判したり、否定するのは、良くないことだと思います。

その上で:
貴重なもの、ものすごい愛情がこめられた大事なものを、
大切にせず、すぐ壊れるようにゾンザイに扱って壊してしまうのは、
その物に対しても、愛情をかけてくれた人にたいしても、
もったいない、もうしわけないことですよね。

全く気づかなかったら、仕方ないですけど、
気づいたら、なろうことなら大切なもの、
愛情のこもったものは 大切にしたいですね。

「実は大切に扱うと、こんなにすごく貴重な宝なのに、
何てひどく扱って、無駄にしているんだ!」
あるいは、「自分自身、なんて無駄にしてしまったんだ!」
という、驚き、おののき、身のおきどころのなさ…

これに気づくことは、実に大切なのではと、
最近痛感しています。

法華経というお経がありますが、その中でも、
繰り返し繰り返し、 そのテーマ、喩えが出てきます。

このように私自身思います。
「自分は、ものすごい愛をこめて与えられたものを、
メチャクチャぞんざいに無駄にして、
愛情をこめて見守ってくれている人(あるいは神様)に
いたたまれない思いをさせているのでは?」
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