生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「禅定」に関して

2017年06月17日 | 「ブッダの言葉」序
禅定とは、
「今ありのままを見つめる」とか、
「心を静める」とか、
「無になる」
とかの実践の意味で用いられている言葉かと思われます。
(具体的には、例えば、呼吸を数える数息観など)

禅宗(正確には臨済宗)で大事にしている、
いわゆる禅宗四部録の中に
「坐禅儀」
というものがあります。

そこに「禅定」に入ることが大事だと、繰り返し説かれています。
六百数十字の短い文章ですが、その中に「12回」も、
「定」の文字が用いられています。

例えば、
「定力を護持するのが大事」「禅定の一門が急務だ」などと

道元さんは、その「坐禅儀」のことを、
「坐禅を何もわかってない人が書いたものだ」
「捨てて見るなかれ」などと明記してボロクソに言っています。

「坐禅儀」に12回、「定」が用いられてますが、
道元さんが書き直した「普勧坐禅儀」では、
「坐定」の一回だけで、それ以外、「定」を全カットしてます。

「禅定」というような、
心を静めるとか、
今ありのまま見つめるとか、
そういうのは、心理学的にも実益としても意味を持つのは確かだと思います。
ですが、「実際に役立つから、それが仏道」というものではないですね。
(でしたら、電車もパソコンもスマホも実生活に役立ちますが、
それイコール仏教ではないですね。)

道元さんは、「定」が、真の仏道(生きる上で根本の大切なもの)
とは無関係だと確信しています。

私自身、「ありのまま見る」とか「今を感じる」とか、
口当たりのよい言葉に迷ってましたが、
そのようなことをしていても、(一時しのぎにはなったとしても)
私の心が本当の意味で満足するとか、本当に人のためになるということは
「ない」との確信が、ますます強まってきました。

ちなみに、「臨済宗」では、「禅定」を大事にしているのでしょうか?

臨済宗のことは、よくわかりませんが、少なくとも、
臨済禅師をはじめとして、六祖禅師、馬祖禅師など、
最盛期の禅師方で「禅定」を大事にしている人は誰一人いません。
 (疑問に思われる方は、私の編纂した
『禅の言葉』(アマゾンで購入可)でご確認ください。)

ここは、本当に大事なことだと痛切に思います。

「心をどのような状態にもっていくか」
などと気にしていたら、永遠に私は救われるはずないし、
心が本当には落ち着くことさえないと、確信しました。

そのようなことは、放っておきませんか?
(もちろん、禅定や瞑想をするのは、
趣味とか、身体技法と同レベルのこととしては、
確実に意味をもつと思います。)
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