川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

よいよい神事行われる

2014-02-12 05:17:23 | 日記

(オハゲを先頭に地区の人達が疾走します)

 建国記念日の2月11日、松阪市和屋町・立田町・朝田町で「よいよい神事」と呼ばれる伝統行事が行われ、私も久し振りに見せていただきました。この神事は豊年、無病息災、厄払いなどを祈願する祭りで、700年も前の鎌倉時代から伝わる神事です。

 このよいよい神事は佐奈から始まったもので、平治2年(1160)1月4日、平時の乱に破れた源義朝が身を寄せていた源氏方の尾張国野間(現愛知県美浜町)で、家人の長田忠致(おさだただむね)に殺害されました。長田忠致はこの手柄によって平家に重く用いられましたが、その後平氏が滅び源氏の世になったとき、今度は源氏に追われる身となりました。この地方に逃げてきた長田忠致が、最後はこの地で、源氏の武士脇野九郎左衛門に討ち取られました。この時長田忠致通った道を清めるために、この神事が始まったと言われています。
 同じこの日に早馬瀬町でも「よいよい神事」という行事があり、同じ流れを組む、神事と思われます。

 

(畠田神社で酒を酌み交わします)

 和屋町では畠田神社に地区の人たちが着物、わら草履姿で集まり、酒を酌み交わした後この神事が始まります。午前11時頃、畠田神社で祈願したあと、先に幣(へい)つけた「オハゲ」と呼ばれる笹を持って次の立田町まで疾走します。この時先頭のオハゲは25才の厄の人が持ち、その後に地区の人達が続きます。途中辻々で拝礼しながら進み、立田との村境にオハゲを立て立田に引き継ぎます。

 立田町では午前中から地元の人達が「式内穴師(しきないあなし)神社」で準備をします。厄年の人達が酒や肴を奉納し、全氏子もお供物を供え祭礼をします。地元の人の話ではこの穴師神社は、奈良時代に奈良の大仏の鋳造に使われた丹生水銀の発掘集団が、この地に移り住んだ時に建てられたもので、奈良県桜井市穴師にある「穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社」が分社されたものであると言うことです。

 立田町では午後2時ごろ、このオハゲを若者(今は消防団)が引き抜き、「よいよい」という掛け声をかけながら、次の朝田町に向かいます。最後は朝田町の土の宮「式内意非多(しきないおいた)神社」の入口にこのオハゲを立て神事は終わります。この神事は戦時中でも子どもたちを中心として続けられ今日にいたっています。


和屋町の松名瀬輝雄さんにいただいた資料では神事の由来について次のように示されていました。
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よいよい神事の由来について

 源氏と平家が戦い、平家が勝利した頃の話しです。
 平治の乱で平家に破れ、東国へ逃げようと尾張にたどり着いた源義朝は、長田荘司忠致に殺されてしまいます。源氏方でありながら、源氏を裏切り義朝を討った長田荘司忠致は、この手柄によって平家に重く用いられた。
 ところが平家が滅び、源氏の世の中になると、鎌倉に幕府をおいた頼朝は、「父義朝を討った長田荘司忠致を召し捕れ」と天下に命を出した。
 伊勢路に潜伏していることを知った頼朝は、鎌倉から武士を使わし四方八方手を尽くし、ついに朝田に潜んでいる事を突き止めた。建久元年(1190)朝田の庄屋慶太夫の邸宅を、早朝から多くの武士が物々しく取り囲みました。慶太夫は驚いて自宅に内密にかくまっていた長田荘司忠致に、「鎌倉の追ってが・・・・」と急を告げた。
 長田荘司忠致は月を手に裏庭に飛び出し、細いあぜ道を朝田から立田・和屋を通り佐奈へと逃げました。しかしそこを追い出され朝田に舞い戻ってきました。大勢の追っ手にはかないません。ついに追ってきた源氏の武士脇野九郎左衛門に首をはねられてしまいました。その首は飛んでいって土を噛んだと言うことです。
 ところが長田荘司忠致が通った道沿いは、翌年から凶作に見舞われました。農民達は、道々に弊をつけた柳の枝を並べ、災いを払うためのオハゲを担いで、ヨイヨイと掛け声をあげながら道々を清めました。
 また、忠致の首が土を噛んだ事から意井多神社は「土の宮」と呼ばれるようになったそうです。


                    よいよい神事(四藺生神事)
           和屋町(畠田神社)・立田町(穴師神社)・朝田町(意井多神社

 
 この行事は、和屋町・立田町・朝田町の三町に鎌倉時代から伝わる700年以上も続いている伝統的な神事です。朝見村百年史には「毎年正月11日(今で言う2月11日)の祭礼には、昔は佐奈の金剛山と言う所から、大きな弊が送られてきて、和屋の村人腰に刀を差し、村の東にある貝吹塚というところで出迎えた。その時には、ほら貝を吹きながら弊を受け取り、声高らかに「山よかれ」と叫んだ。この弊を立田との村境まで送り、そこに弊を建てて帰る。
今は佐奈より持ってこず、和屋で『白弊(おはげ)』を作ると記載されている。

 当日、和屋の参加者(氏子)達は、朝風呂で身を清め和服に草履履きで、畠田神社境内に集まります。午前11時に神社前に整列し礼拝をすませると、宮係が羽織袴姿で威儀を正した25歳の厄男におはげ(5m程の長さの青竹に弊をつけたもの)を渡します。厄男と前後の2人は「山よかれ」の声でおはげを担ぎ、多くの参加者が後に続き、畠田神社出発よいよいと声を掛け、辻まで行進(昔は和屋には7つの塚があって、それを廻ったと言う)そこで、まず伊勢神宮に向かって礼拝します。途中、面塚山、川上山、アララギ山に礼拝それがすむと、よいよいの掛け声勇ましく、立田町との村境を流れるセンダチ川まで走ります。そしておはぎを土中深く突き差して帰ります。
 一方和屋では42歳の厄男2人が、畠田神社から獅子頭と天狗の面をいただき和屋町の西のはずれあで、おはげを立田へ送った一行を待ちます。一行と合流した所で酒が振る舞われ、祭りは次第に盛り上がります。その後、宮係の合図で、厄男が獅子頭と天狗の面をかぶり神社へ向かおうとする途中、獅子頭を迎えた家庭では「おひねり」を差しだし、家庭円満・健康祈願と子供の成長を獅子頭で祈願していただく。みんなで獅子頭の布(獅子の胴体に見立てた布)を思い思いに掴みます。一二歩進んだところで奇声が発せられると布を後方に引っ張ります。そんな事を二三回繰り返した後、布を引っ張り合います。獅子頭を放すまいとする厄男と引っ張り合い揉み合う男達、よいよいの掛け声は一層大きくなり、田んぼに落ちても尚、引っ張り合います。獅子の布が破れれば破れるほどその年は豊作とあって、力任せに引っ張り破れるごとに歓声が上がります。この大騒ぎがすむと、宮係を先頭に神社に戻り、獅子頭を奉納した後「神事の歌」を歌い豊作を祈願して祭りは終わります。

 立田町では穴地神社に幟を建て、厄年の氏子が酒や肴(タイ、ハマチ、煮物)を奉納するほか、全氏子が米一升を捧げこれらのお供物を並べて祭礼を行います。各家々では、長さ50㎝ほどの柳に、和紙で作った弊を垂らした縁起物を作り、門先に掲げます。午後4時頃村の若者(かつては青年団だったが、近年は消防団)がおはげを引き抜き柳の小枝を手にした氏子達と共に、「よいよい」と勇ましい掛け声を響かせながら朝田へ向かいます。

 朝田町では、早朝より身を清め意井多神社に参拝した厄男が、獅子頭を持ち一行の先頭に立ち村境でおはげの来るのを待ちます(迎える屋久は42歳の厄男がこれに当たったが現在は当番制)立田の一行は、獅子頭をおはげで叩いた後、おはげを朝田に手渡した弊の付いた柳の枝を村境の道端に突き刺して帰ります。
 朝田の一行は、おはげを受け取ると「四藺生」声で出発、よいよいと掛け声を掛けながら意井多神社まで歩き、神社の入口におはげをたてて神事が終わります。

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