2017年8月7日、松阪市星合町の波氐(はて)神社と鵲橋(かささぎばし)を中心として「鵲七夕まつり」が行われました。この祭りは松阪市立鵲小学校管内の小舟江町、笠松町、星合町、五主町地区で行われるもので、以前は鵲地区福祉会まつり実行委員会が主催していましたが、今は鵲地区七夕まつり実行委員会(福田孝志実行委員長)が主催して行っています。
この七夕祭りは、もともと星合地区(46戸)で昔から行われていました。文政年間(1818~1830)の群馬県の旅人の紀行文に、この鵲地区の七夕祭りを見たとの記述があるということから、百数十年以上の歴史がある事がわかります。平成16年までは星合地区だけで行われていましたが、同地区の子供たちが少なくなってきて祭りの存続が難しくなってきたため、平成17年から鵲地区全体の祭りとかたちを変えました。また平成18年からみこしが登場しました。
この祭りは、以前は午前中に行われていましたが、七夕だから夕方がよいのではということで、7年前(平成22年)から夕方行われることになりました。
波氐神社に集合した子供たちは、みこしの出発地点である東西の神社に分かれます。東は五主の綿積神社を出発し、途中岡田の菅原神社を経由します。また西は小舟江の八雲神社を出発し、笠松の八雲神社を経由して鵲橋にむかいます。
祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれます。今年の織姫は杉森琴春さん、彦星は磯部唯斗君です。波氐神社でお払いを受けた織姫は綿積神社から、彦星は八雲神社からみこしと共に出発します。そして夕暮れが近づく午後7時頃、みこしは星合町と笠松町の間を流れる夜泣川に架かる鵲橋に到着します。橋の両側に立った織姫と彦星は、川を渡れず途方にくれます。そこに鵲が飛んできて、橋を架け二人は再会することができたという話しです。鵲の織姫と彦星もめでたく鵲橋の上で会うことができました。
織姫の杉森琴春さん、彦星の磯部唯斗君は学校で、じゃんけんで決めたということです。織姫と彦星に扮した二人は鵲橋の上で少し照れ気味に再会すると、祭りはクライマックスを迎え、多くのカメラマンが盛んにシャッターを押していました。
この鵲橋のたもとの石碑に大伴家持の歌が書かれています。
『鵲の王多せ類はし耳おく霜乃志ろき越みれ盤夜曽更丹希流』
(鵲の わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける)
古くから伝わる祭りに、新しい形を織り込んで、地区を上げての祭りにされました。今日は地区内の多くの人たちがこの祭りに参加されていました。
私もこの祭りを8年前から見せていただいていますが、多くの人たちからいろいろな話しを聞かせていただきました。
話題になったのはこの地がなぜ「鵲」なのかと言うことです。私が仕事で韓国に行ったとき鵲をよく見ました。日本のカラスくらいの大きさの鳥で、いたるところで見かけました。日本ではカラスは縁起の悪い鳥ですが、鵲は羽根を広げると黒い羽根の中に扇の様に白い羽根が見え、韓国では大変縁起のよい鳥です。日本では九州の方にいるということです。
何も文献はありませんが、中国あるいは朝鮮から渡来した技能集団の人たちが、住みついたところではないかという説を、言われた方もみえました。
この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
この七夕祭りは、もともと星合地区(46戸)で昔から行われていました。文政年間(1818~1830)の群馬県の旅人の紀行文に、この鵲地区の七夕祭りを見たとの記述があるということから、百数十年以上の歴史がある事がわかります。平成16年までは星合地区だけで行われていましたが、同地区の子供たちが少なくなってきて祭りの存続が難しくなってきたため、平成17年から鵲地区全体の祭りとかたちを変えました。また平成18年からみこしが登場しました。
この祭りは、以前は午前中に行われていましたが、七夕だから夕方がよいのではということで、7年前(平成22年)から夕方行われることになりました。
波氐神社に集合した子供たちは、みこしの出発地点である東西の神社に分かれます。東は五主の綿積神社を出発し、途中岡田の菅原神社を経由します。また西は小舟江の八雲神社を出発し、笠松の八雲神社を経由して鵲橋にむかいます。
祭りの主人公の織姫、彦星は鵲小学校の6年生から選ばれます。今年の織姫は杉森琴春さん、彦星は磯部唯斗君です。波氐神社でお払いを受けた織姫は綿積神社から、彦星は八雲神社からみこしと共に出発します。そして夕暮れが近づく午後7時頃、みこしは星合町と笠松町の間を流れる夜泣川に架かる鵲橋に到着します。橋の両側に立った織姫と彦星は、川を渡れず途方にくれます。そこに鵲が飛んできて、橋を架け二人は再会することができたという話しです。鵲の織姫と彦星もめでたく鵲橋の上で会うことができました。
織姫の杉森琴春さん、彦星の磯部唯斗君は学校で、じゃんけんで決めたということです。織姫と彦星に扮した二人は鵲橋の上で少し照れ気味に再会すると、祭りはクライマックスを迎え、多くのカメラマンが盛んにシャッターを押していました。
この鵲橋のたもとの石碑に大伴家持の歌が書かれています。
『鵲の王多せ類はし耳おく霜乃志ろき越みれ盤夜曽更丹希流』
(鵲の わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける)
古くから伝わる祭りに、新しい形を織り込んで、地区を上げての祭りにされました。今日は地区内の多くの人たちがこの祭りに参加されていました。
私もこの祭りを8年前から見せていただいていますが、多くの人たちからいろいろな話しを聞かせていただきました。
話題になったのはこの地がなぜ「鵲」なのかと言うことです。私が仕事で韓国に行ったとき鵲をよく見ました。日本のカラスくらいの大きさの鳥で、いたるところで見かけました。日本ではカラスは縁起の悪い鳥ですが、鵲は羽根を広げると黒い羽根の中に扇の様に白い羽根が見え、韓国では大変縁起のよい鳥です。日本では九州の方にいるということです。
何も文献はありませんが、中国あるいは朝鮮から渡来した技能集団の人たちが、住みついたところではないかという説を、言われた方もみえました。
この祭りは私のブログ「松阪市内の祭り100選」に掲載してあります。
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