自由気ままに、生きてゆきたい!

小さい手、大きい手・・・触れる、握る、拍手する。心が通い、愛が生まれる。みんながいて、私がいる。みんなの中の私!

馬事公苑

2010-09-29 20:24:52 | 東京を歩く
馬事公苑の由来と苑訓
馬事公苑は騎手の養成、馬事普及および馬術振興のため
昭和15年9月29日に開苑した。
当時の苑訓として
至誠を以って騎道作興すべし
努力を以って百錬自得すべし
和協を以って人馬一如たるべし

この苑訓は、時が移り人が変わっても、馬を愛し、
馬術を志す人の心に脈々と受け継がれている。


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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

赤坂   氷川神社・南部坂

2010-09-27 10:18:37 | 東京を歩く
氷川神社
創建は天歴5年(951年)武州豊島郡人次ヶ原、俗称・・・古呂ヶ岡
(赤坂四丁目一ツ木台地)に祀られた。これよりおよそ百年後の1066年
関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく
祭事が行われた。江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍・徳川吉宗が
享保元年(1716)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729)に老中岡崎城主・
水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営した。
享保15年(1730)4月26日に一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、
28日に将軍直々の御参拝があり、以後十四代・家茂まで歴代の朱印状を
下附され、より一層の御神徳を高め、開運、厄除、良縁の鎮守神として尊崇を
深められた。明治元年11月8日、准勅祭社に定められ、同15日、
勅使・植松神祇判官参向奉幣があった。日枝・神田・富岡・根津・芝大・品川・
亀戸・王子・白山の九社と共に「東京十社」といわれる。
現社地は、元禄のころは、忠臣蔵の浅野匠頭の夫人・遙泉院の実家
浅野土佐守邸跡で、大石内蔵助が討入り前に訪れて別れを告げたといわれている。

この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つが一体となった、いわゆる権現造の形式。
吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の
質実簡素な気風を見る事が出来る。通常、将軍の寄進するような社寺であれば、
軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするが
この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立たない。しかしただ質素なだけではなく、
大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られる。
また全体は失漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで
引き締まった印象となっている。



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大鳥居
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南部坂
大石良雄が仇討の前日雪の中、遙泉院を尋ね、それとなく別れを
告げた「南部坂、雪の別れ」で有名
あまりにも急なので難歩坂ともいわれた。
 



赤坂  高橋是清公園・圓通寺・報土寺

2010-09-25 12:26:34 | 東京を歩く
高橋是清公園
日本の金融界における重鎮で、大正から昭和の始めにかけて
首相・蔵相などを努めた政治家・高橋是清(1854~1936)の邸宅があった所。
高橋是清は、昭和11年(1936)2・26事件によりこの地において
83歳で世を去った。没後、昭和13年(1938)10月に東京市に寄付された。




圓通寺
日蓮聖人御みずから魂を入れた木像三体を安置している江戸三祖師の一つ
圓通寺は、江戸時代から「願いが叶う寺」として信仰を集め、
また「時の鐘」を託された江戸七ヶ寺の一つ
クリック・2枚です。
<<圓通寺


報土寺
慶長19年(1614)に赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され
幕府の用地取り上げにより安永8年(1780)に三分坂下の現在地に
移転した。この築地塀は、その頃造られたものといわれている。
築地塀とは、土を突固め上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に
用いられる塀。塀の中に瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいう
報土寺の練塀は、坂が多い港区の中でも特に急坂として知られる
「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりいなっている珍しいもの。
クルック・3枚です。
<<築地塀

また、雷電為衛門の墓がある。
雷電は、明和4年(1767)信州小諸の大石村に生れた。
生まれながらにして壮健、強力であったが、顔容は穏やか
性質も義理がたかったらしい。天明4年(184)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、
寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の
地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績を残した。
雲州松江の(島根県)松平候の抱え力士であったが引退後も相撲頭に
任ぜられている。文化11年(1814)当寺に鐘を寄付したが異形であったのと
寺院、鐘楼新造の禁令にふれたために取壊させられた。
文政8年(1825)江戸で没し当寺に葬られた。
マウスオン2枚です 
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赤坂には沢山の坂がある。市三坂・檜坂・乃木坂・薬研坂・
圓通寺坂・三分坂・転坂・元氷川坂・氷川坂・南部坂

薬研坂・・・中央がくぼんでいる形が薬を砕く薬研に似ている事からついた。
  昔は何右衛門坂ともいった。
圓通寺坂・・・元禄8年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名からとった。
三分坂・・・急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円あまり)増したためという。
坂下の渡し賃一分に対していった説もある。     

現在の薬研坂



赤坂  乃木神社

2010-09-23 07:55:55 | 東京を歩く
赤坂の地名は全国に点在し、その多くが「赤土の坂」が由来です。
東京の赤坂は、南部坂から茜色の夕焼け説、江戸城赤坂御門の字が
赤坂であったとの説など様々・・

乃木神社
明治時代に活躍した軍人、乃木希典を祀った神社。
陸軍大将・乃木希典は、嘉永2年(1849)長府藩士・乃木希次の長男ちして生まれた。
明治4年(1871)陸軍少佐に任官、その後陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵となる。
乃木将軍の軍人としての評価の議論は分かれるが、人格高潔なことにおいては
衆目の一致するところ。大正元年(1912)9月13日、乃木夫妻は明治天皇の
崩御に殉じて自刃した。これは当時多くの人々に衝撃と感動を与えた。
同2年、東京市長の阪谷芳郎が中心となって、乃木希典を敬慕する人々による
中央乃木会を設立。同8年(1919)神社の創建を申請・許可され
同12年(1923)11月1日に鎮座祭が行われた。
昭和20年5月の東京大空襲で焼失したが、昭和37年に復興した。
乃木邸は乃木希典が明治12年に購入し、明治35年に改築したもの。
乃木夫妻殉死後、遺言により東京市に寄付され神社の建立とともに保存されている。

一の鳥居→二の鳥居→拝殿

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表玄関


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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。


乃木大将と辻占売少年像
明治24年、乃木希典が用務で金沢を訪れた時の事。
当時八歳の今越清三郎少年と出会った。
少年は辻占いを売って一家の生計を支えていた。
この姿に感銘を受けた乃木は、少年を励まし、金弐円を渡した。
少年はこの恩を忘れる事なく努力を重ね、
金箔業の世界で大きな実績を積み上げた。


青山霊園にある「乃木夫妻の墓」


ひたち海浜公園

2010-09-21 15:10:15 | 旅行 風景

ひたち海浜公園のコキア
春、丘一面にネモフィラが咲いていた「みはらしの丘」に
今、コキアが色付き始めていた・・・
フワフワ・モコモコと元気に成長したコキアは
50cm~60cmになって、7月頃、爽やかなライトグリーンだったのが
ポツポツと赤みが差してきた。
10月の中旬には丘一面が真っ赤に染まるだろう。
近くに住んでいたら、ライトグリーンから真っ赤になるまでの
グラデーションが楽しめるんだろうな~~

コキアの実は「とんぶり」と呼ばれ、薬用、食用になる。
形や色、歯ざわりがキャビアに似ていて、日本のキャビアとか畑のキャビア
と呼ばれている。枝や茎を乾燥させてほうきを作るところから
箒木(ほうきぎ) 箒草(ほうきぐさ)ともいわれる。
クリック・11枚です。
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<みはらしの丘>

これはポスターです。
10月中旬頃には、こんなに紅葉して丘一面が真っ赤に染まります。


みはらしの丘の裾野で、コキアと見事に饗宴する
コスモスも、今はまだ・・・蕾
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公園に咲いていた「サンゴジュ」と「カランコエ」
4枚です。画面の
右上・右下・左上・左下をクリックして下さい。
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奥の細道23  奥州街道   白河小峰城  

2010-09-20 01:14:30 | 奥の細道
白河小峰城
寛永9年(1632)江戸時代の初代藩主丹羽長重が平山城として改築した。
その後、戊辰の役で落城し、城郭は焼失したが、平成3年(1991)から
当時の絵図に基き忠実に復元した。
建材には戊辰戦争の激戦地であった稲荷山の杉を使用しているため
当時の弾痕が柱や床板にそのまま残されている。
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

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奥の細道22  奥州街道   白河宿

2010-09-17 08:51:07 | 奥の細道
戊辰の役古戦場跡
奥州諸藩鎮定に向かった薩長大垣などの西軍と、これを迎え撃つ会津・
仙台・棚倉などの東軍が激しく戦った場所で、両側に会津藩兵戦死の
墓碑と松平容保筆の鎮魂碑ほか多くの戦死者を弔う石碑がたっている。
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仙台藩士戊辰戦没之碑
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女石追分
右は奥州街道、左が会津に向かう白河街道


南湖公園
城郭は寛政12年(1801)白河藩主・松平定信が新田開発と灌漑用水を目的として
造り上げた人造湖である。身分制度が厳しい時代に、土民共楽の地にしたいという
願いがこめられ、庶民に開放された、我が国最古の公園といわれている。

南  湖        クリック・5枚です。   
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北斗さんのソースをお借りしました

松平定信(白河楽翁)公を祀る 南湖神社
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脇本陣・蔵座敷
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蘆花恒春園

2010-09-15 09:44:36 | 東京を歩く

「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる
明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、後半生を過ごした。
 蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていたが、
土に親しむ生活を営むため、明治40年2月27日、40歳の春
当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、
「恒春園」と名づけて昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、
晴耕雨読の生活を送った。昭和11年の蘆花没後10周年忌に際し、
愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈された。

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入ったところ


 
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「涼の日」
公園の噴水で遊んでいた子供たち・・とても暑いだった



奥の細道21  奥州街道   白河関跡

2010-09-12 14:26:42 | 奥の細道
白河の関
勿来(福島県いわき市)・念珠(山形県鶴岡市)とともに奥州三古関の一つ。
奈良、平安時代に、蝦夷の南下を防ぐ砦として設けられたといわれ
後に廃関となり、辺境の歌枕の地として多くの歌人に詠われている。
 クルック・8枚です。
<<白河の関跡
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

白河神社
白河の関を境内とし、相撲二所の関部屋、発祥地として知られる

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古歌碑
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奥の細道の碑
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樹齢八百年の「従二位の杉」
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芭蕉と曽良
「風流の 初やおくの 田植うた  芭蕉」
「卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良」



奥の細道⑳  奥州街道    境の明神

2010-09-10 12:56:11 | 奥の細道

境の明神
下野と陸奥の国境を挟んで境の明神が二社並列している。
古代、国境には玉津島神社・祭神は衣通姫(そとおりひめ)と
住吉神社・祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)を祀るのが
慣わしだったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、
自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。

「奥の細道」においては、みちのく路の第一歩を記した所であり
「風流のはじめや奥の田うえ唄 はせを」の句碑が立っている。

下野(栃木)側の玉津島明神

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下野と陸奥(栃木と福島)の県境
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陸奥(福島)側の住吉明神
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和算額
和算とは、明治以前の数学との事で、奈良時代に中国から移入され
発達したという、日本独特の数学      詳しくはこちら和算  
     
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