自由気ままに、生きてゆきたい!

小さい手、大きい手・・・触れる、握る、拍手する。心が通い、愛が生まれる。みんながいて、私がいる。みんなの中の私!

敷島公園のばら園 その一

2009-05-31 17:49:04 | 旅行 風景
日本、ドイツ、フランス、アメリカ、イギリスなどの約600種・7000本のバラと
緑の芝生広場、そして周囲には赤松の林があります。
600本のスタンダード仕立てのバラは全国でも有数の規模です。


<
< < < < <
< < < < <

non_nonさんのソースをお借りしました


一度にできないので2回に分けました。
↓も見て下さい します。


中山道を往く その四  深谷・本庄・新町

2009-05-25 09:38:07 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、草津宿で東海道と合流し、
京都三条大橋に向かった。


69-9 深谷宿 日本橋から18里32町(74.6㌔) 人口1.928人 総家数525軒 本陣1軒 脇本陣4軒 旅籠屋80軒
深谷は戦国時代以前から、上杉氏の城下町として発展していた。
1627(寛永4)年の廃城後は、宿場町・市場町として発展し、
5と10の日には六斎市が開かれた。また商人や遊女の多い宿場町だった。


見返りの松
宿外れにあたる交差点にあり、昔、旅人たちが
遊女との別れを惜しんだ所といわれている。




深谷城跡
 2枚です。マウスオンして下さい します
<


高島秋帆幽囚の地
1796(寛政10)年、長崎の町年寄の家に生まれる。
父の跡を継ぎ町年寄を務めたが傍らに広く蘭学を収め、
特にオランダ人を通し砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。
1841(天保12)年、44歳の時に幕府の命により江戸近郊の徳丸ヶ原で
西洋式調練を実施し、兵術・砲術を紹介した。
その結果、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門をはじめ多くの幕臣が入門した。
しかし中傷により獄に投ぜられ、1846(弘化3)年、より1853(嘉永6)年に許されるまでの7年間、
岡部藩陣屋があったこの地に幽囚された。江川太郎左衛門らは赦免願いに尽力した。
ペリー来航により幕府は近代兵学の必要性から急遽、秋帆を赦免した。
その後幕府の砲術方教授となり1866(慶応2)年、69歳で没した。




渋沢栄一生家
通称「中の家」と呼ばれ、「日本経済の父」または「日本資本主義の父」と
呼ばれた渋沢栄一は23歳までこの地で暮らした。

 4枚です。マウスオン・クリック・Wクリックして下さい します
<


69-10 本庄宿 日本橋から21里14町(85.2㌔) 人口4.554人 総家数1212軒 本陣2軒 脇本陣2軒 旅籠屋70軒
本庄は、小笠原氏の城下町であったが、1612(慶長17)年、の廃城後は、
中山道の宿場町・商人の町として発展した。深谷宿と並んで街道有数の
歓楽街を形成し、旅籠屋は70軒を数えた。飯盛女の客引きも激しかったという。

田村本陣の門跡
南の内田本陣に対して、北本陣と呼ばれていた。
皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる



陽雲寺
1540(天文9)年に金窪城主・斉藤盛光が創建したが、
1582(天正10)年の神流川の合戦で焼失した。
その後金窪村の領主となった武田信玄の甥・川窪信俊が再興するとともに、
寺号を信俊の養母であり、信玄の夫人であった陽雲院の名をとった。



69-11 新町宿 日本橋から23里14町(93.0㌔) 人口1.437人 総家数407軒 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠屋43軒
新町宿の開設は遅く、1724(享保9)年、笛木宿と落合新宿が合体して出来た。
両町の境に高札場跡があり、この附近に旅籠や茶店が集中していた。
現在は宿場の面影は残っていない。

行在所公園
明治天皇が、明治11年8月から11月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸
(視察)を行なった際に新町に宿泊された施設。
当時は木造瓦葺平屋建の本屋と付属棟の2棟で、旧中山道に面して正面を設け、
周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてあった。
3枚です。クリックして下さい します<
<
<

弁天島
温井川の中ノ島に弁天さまを祀っていた。治水の関係で、今は手前に祀ってある。
ここには昔、清水が湧いていて旅人の喉を潤した。


                     京都三条大橋まで残る112里20町8間

見沼氷川公園

2009-05-20 19:31:42 | 2009 ウォーク
尋常小学校唱歌「案山子」発祥の地
国定教科書の編さん官であった武笠 三が、他のいくつかの唱歌と共に作詞した。
彼は、ここ三室に生まれた人である。かつて1200ヘクタールの沼であった見沼は
江戸中期に干拓され、稲穂がたわわに稔る田園となった。作詞者の感性を育んだ光景である。



案山子
山田の中の一本足の案山子
天気のよいのに蓑笠着けて
朝から晩までただ立ちどおし
歩けないのか山田の案山子

山田の中の一本足の案山子
弓矢で威して力んで居れど
山では烏がかあかと笑ふ
耳が無いのか山田の案山子
               春彦 書



ベニバナトチノキ
   4枚です。 マウスオン・クリック・Wクリックして下さい します。
<
あしかがフラワーパークで写しました>

熊子さんのソースをお借りしました




中山道を往く その三  鴻巣・熊谷

2009-05-18 06:56:16 | 中山道
中 山 道 (中 仙 道)
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道の一つ。
東海道に次ぐ幹線道路で、1602(慶長7)年から整備が始まり、
日本橋を起点に近江国・守山宿までの67宿の街道で、草津宿で東海道と合流し、
京都三条大橋に向かった。


69-7 鴻巣宿 日本橋から12里8町(47.7㌔) 人口2.274人 総家数566軒 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋58軒
鴻巣宿は、江戸時代から雛人形の産地として知られていた。
この宿場で開かれる雛市は、江戸十軒店、武州越谷と並んで
「関東の三大雛市」と呼ばれ、大いに賑わった。

勝願寺
鴻巣公園に隣接する浄土宗の寺で、関東十八壇林の一つとして知られる。
徳川家康もたびたび参詣したといわれ、将軍家の家紋である三葉葵を
使用することを許されている。真田信重夫妻や小松姫の墓がある。



氷川八幡神社
この地に発祥した嵯峨天皇の流れをくむ箕田源氏の由来を記した碑「箕田碑」がある。
「世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら」という
渡辺綱の辞世の句があり、源経基、仕、綱らの文武の誉れをしのんでいる。




吹上「間の宿 (あいのじゅく)
幕府公認ではなかったが、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かった事や
{日光火の番道}と{中山道}が交差していたことなどの理由により、
「お休み本陣」や「立場」が設置された。


69-8 熊谷宿 日本橋から16里14町(64.0㌔) 人口3.263人 総家数1075軒 本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠屋19軒
江戸時代は忍藩領で、絹・綿織物などを商う市が立ち賑わった。
また川越・秩父・足利方面へ通じる交通の要衝の地として発展した。
昭和20年の大空襲で町内の殆どが焼失し、宿場の面影は皆無である。

熊谷寺
源頼朝に「日本一の剛の者」といわしめた武士、熊谷次郎直実開山の古刹。
後に徳川家康が七堂伽藍を整え、関東最初の念仏道場とした。



星渓園
熊谷の発展に力を尽くした本陣竹井家の別宅
星川の源となっていた玉の池を中心に、百数十種の植木のほか、
庭石・燈篭が随所にある。


 2枚です。マウスオンして下さい します
<


一里塚
ケヤキの一里塚があった




国済寺
1390(康応2)年 深谷上杉氏の祖、上杉憲英が開祖。
総門、山門、本堂が直線的に配置された禅宗伽藍で、
江戸時代中期の簡素な美しい建物である


 2枚です。マウスオンして下さい します
<


あしかがフラワーパーク

2009-05-15 16:03:04 | 旅行 風景
このフラワーパークには、4月中旬~5月中旬まで、うす紅藤、むらさき藤、
大藤、白藤、きばな藤が次々と咲き誇ります。
藤棚の大きさ、トンネルの長さは、他に例をみません。
連休に行きそびれたので他の藤はみんな終わっていましたが
きばな藤が満開でした。

<
きばな藤のトンネル
< < < < <

non_nonさんのソースをお借りしました

パークには、一年中、季節の花が咲いています。
今は、石楠花、てっせん、薔薇が満開でした

<
シャクナゲ1
< < < < <
< < < < <

non_nonさんのソースをお借りしました


おまけの写真!!
フラワーパークのあちこちで、沢山の庭師の方々が手入れをしていました。
300本以上ある大きな藤から小さな野草・山野草まで数えきれない花たちが私達の心を、目を癒してくれる
この地道なお手入れのお陰だと、感謝をこめてしました。


近所の花たち

2009-05-11 00:31:26 | 旅行 風景

   ご近所の大きなカルミアの木です。
  4枚です。マウスオン・ワンクリック・Wクリックして下さい します

<

   熊子さんのソースをお借りしました

マウスオンスライドショーです。
<
つつじ
< < < <
<

      ↑↓ non_nonさんのソースをお借りしました
<
てっせん
< < < < <