旧暦正月小6日
↓旧仙洞御料庄屋 重要文化財 旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)の掲示が見える
主 屋
↓玄関入った所
↑主屋の南西側はのちの増築で、縁側がガラス窓で囲まれたサンルーム
↑主屋南西部の縁側の外観。この部分はのちの増築で、床下を石で塞いである
↑台 所 右に配電盤
1つ上の写真の右壁面に見られる大理石の石板に取り付けられたメーター、スイッチ群の巨大な配電盤 このように古い配電盤が残されているのは非常に珍しいそうだ
↑長 持
↑長押や鴨居には随所にこのような釘隠 他に形の違う釘隠があった
大正時代の電灯
電話室 1907年、吹田村に電話が開通し、当家がその最初で1号機-0001番、2号機-0002番は、アサヒビール、3号機-0003番は吹田役場だったそうだ
↑訪問当日 能の人間国宝・三島元太郎師の講演会
日中温暖 旧歴正月小朔
去る1月18日毎日新聞のイベント情報で普段は年末年始を除き無料で公開されている〝旧西尾家住宅〟であるが今月24日から31日までは同家に伝わる能装束や能人形が展示され11時と14時に展示解説・講演が吹田市在住の能の人間国宝・三島元太郎師により行われるとのことで訪問した。主に関心があったのは住宅と展示である。此処に着いたのが丁度講演の始まる時間であった。
講演は事前の予約が必要だったようで、その間家屋の内部の見学が出来ず庭園を女性ボランティアの解説で見て回る。
↑外からの眺め 右奥が入口
↑入 口
↑主 屋
↑屋敷全体の模型
↑庭園入口
↑庭園には敷石が
〝旧西尾家住宅〟について
江戸時代の吹田村は、仙洞御料[せんとうごりょう]、旗本竹中領[はたもとたけなかりょう]、旗本柘植領[はたもとつげりょう]の相給とされ、 西尾家は仙洞御料方の庄屋[しょうや]を務めていました。こうした伝統を受け継いだ西尾家第十一代與右衛門義成[よえもんよしなり]と十二代義雄[よしお]によって、明治中期から昭和初頭にかけて建築し整備されたのが、現在伝わる建物や庭園です。
十二代義雄は東大農学部出身で建築家武田五一[たけだごいち]、植物分類学者牧野富太郎[まきのとみたろう]、音楽家貴志康一[きしこういち](貴志はこの家で誕生、母かめは旧姓西尾で、つまり実家で康一を産んだ)といった 著名人との交流があったという。
[吹田市観光ウエブ等]より一部引用
*続 く
寒さ今冬1番 旧暦10月小25日
旧三井家下鴨別邸とは
旧三井家下鴨別邸は、下鴨神社の南に位置し、三井家11家の共有の別邸として三井北家(総領家)第10代の三井八郎右衞門高棟(たかみね)によって建築されました。この地には明治42年(1909)に三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)が遷座され、その参拝の際の休憩所とするため、大正14年(1925)に建築されたのが現在の旧邸です。建築に際しては、木屋町三条上るにあった三井家の木屋町別邸が主屋として移築されました。昭和24年(1949)には国に譲渡され、昭和26年(1951)以降,京都家庭裁判所の所長宿舎として平成19年まで使用されました。近代京都で初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから平成23年に重要文化財に指定されました。[配付された案内より]
↓鳥居が見えているように、ここは下鴨神社への南の入口です、左が旧三井家下鴨別邸
正午前に最初訪れた時は前述したように大勢の人で入場制限されていたが、再度訪れた15時頃は15人ほど入口付近で列をなしていたが、間もなく入れた、しかし3Fの望楼(通常非公開)に登るには1Fで待たされ更に2Fで30分待たされる↓60名が待っていて指示により20名づつ交代で登る
↑玄関入った所の杉戸絵 原在正(はら ざいせい)「孔雀牡丹図」
旧暦10月小18日
↓客間・和室 1/4円形の珍しい障子窓
↓和洋折衷 床は当時では珍しいチーク材を使った寄木貼り
↓継ぎ目のない長い板を使ったら廊下
旧暦10月小17日
↓応 接 室
↓応接室の天井 楠の1枚板を使用
↓執 事 室 秘書の役割を持った執事を常駐させていた 左奥には内玄関とつながる窓口
↓内 玄 関
↓女中(現在のお手伝いさん)部屋 ここから大玄関、内玄関が良く見え人の出入りが分かる
↓この板の〇印が点灯するとベルが鳴りどの部屋から呼び出しがあるのか女中部屋から分かる
↑食 堂 アールデコ調の照明 ↓床は色の異なる木材を使った寄木貼、70年経つても破損や狂いがない
↑食 堂 ↓食堂への調理場からの配膳口
旧暦10月小16日 昨夜は雨でスーパームーンは見られなかったが、さて今夜十六夜の月は見られるか微妙である。
去る12日(土)樟徳館(しょうとくかん)[近鉄長瀬駅から徒歩約5分]を見学して来た、きっかけは11月9日の毎日新聞を見て知った。大勢の見学者で混雑した。
樟蔭学園は11月12日・13日の2日間、同学園が保有する登録有形文化財「樟徳館(しょうとくかん)」(東大阪市菱屋西2)を一般公開する。
同学園の創立者・森平蔵は1875(明治8)年に兵庫県で生まれ、16歳で大阪市内の木材商に見習い奉公に入り、26歳で独立開業。独立後は木材販売や植林業で成功を収め、木材を運搬する船舶に着目して汽船会社を設立した。大正初期の大阪では商家の子女を中心に教育に対する意識が高まっていたが、学校数が不足しており、平蔵は私財を投じて高等女学校設立することを決意。1917(大正6)年に設置認可を受け、翌1918年に樟蔭高等女学校を開校した。
同館は、帝国キネマ映画長瀬撮影所の跡地を入手した平蔵が、構想を含め1939(昭和14)年の完成まで7年の歳月をかけて建築した私邸。大阪有数の材木商だった平蔵は、現在では入手困難な銘木を日本中から集め、原木から製材するための専用の製材所を隣地に設けるなど材木にこだわり、「関西で最高の松普請」といわれる大正モダンの香り漂う住居を築いた。建物は平蔵が1960(昭和35)年に亡くなった後、遺志により同学園に寄贈され「樟徳館」と名付けられた。
建築面積1305平方メートルの建物は、外観は純和風、内観は和洋折衷の装飾が施されているのが特徴で、応接室は天井に大きなクスノキの一枚板、壁には西陣綴(つづ)れ織のクロス、曲線を用いた火灯(花頭)窓など、当時の最高技術が集結。2000年には「造形の規範となり、再現が容易でないもの」として、母屋・土蔵・鎮守社・門・東塀・南塀の6点が国の登録有形文化財に登録された。現在では、NHK連続テレビ小説「あさが来た」や「カーネーション」など、ドラマの撮影にも使われている。
過去の一般公開時は、地域の人や建築関係者、建築に関心のある学生など、2日間で約2000人が来場した。一般公開する2日間には「樟徳館の魅力」と題し、同学園監事の藤原準二さんが解説する説明会を、各日11時からと13時からの2回行う。
同学園スタッフは「木造2階建ての関西最高の松普請。今では入手困難な材木や、今ではできない技法を使った建築美を肌で感じていただけたら」と話す。
開催時間は11時~16時(受付は15時まで)。入場無料。[東大阪経済新聞より引用]
↑学園監事の藤原準二さんの解説
*続 く
時々気温下がり凌ぎやすい 旧暦8月大23日
特別展示場入口付近 「大型手回しオルガン」 下・その裏面
↑↓館内からの眺め 下・中央パティオ(スペイン語で中庭)「未来の遺跡」
↓館入口付近の水の流れ
↓万博公園のバラ園
↓春過ぎに開業した観覧車・日本1高い (バラ園付近から撮影)
萩も色ずき秋が見える
一時 旧暦8月大21日
本館展示物を無作為に少し掲載します
↑オセアニア
聖母像 ペルー
↑オーストリア チロル地方 カーニバルの仮面と衣装
奴隷貿易 足環 腕輪 鎖
↑イスラム 覆う文化
↑花嫁の部屋 イスラム
↑エジプト ダンサーの衣装
↑ニュージーランド 倉庫