寒の戻りで寒い
〝目が覚めて 今朝も元気だ 彼岸入り〟 (愚作)
彼岸の入りに子規がお母さんに「今日は寒いネ」と言うとお母さんが「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」と答えたのが、巧まずして俳句になっていたと言う。
確かにこの頃寒の戻りがよくあり、数十年前だったが雪が降った思い出がある。
気温の較差が大きい昨今で、着る物に惑わされます。
左は(ミ モ ザ)某店頭で見かける
ミモザの代表的な花言葉は「感謝」と言う、今日も元気に過ごすことが出来て[有 難 う]
春を実感させる暖かさ
ツバキ
最近読んだ電子書籍で、次のドキュメンタリー(ノンフィクション)作品が素晴らしかった、お勧めしたい。
*天路の旅人 沢木耕太郎・著 新潮社
*ある行旅死亡人の物語 武田敦志、伊藤亜衣・著 共同通信大阪社会部
*黒い海 井沢理恵・著 講談社
これは一読に値すると読んでいたらはからずも、各作品新聞の書評欄で賞賛していた。
執念深く食らいついたら離さないスッポンのように執拗な取材で難題を解きすすめる姿勢に感動した。
日中は稍々暖かい
何時もの散歩道で、普段さほど関心が無かったが前々から地面の罅割れは分かっていた、よくよく見ればアスファルトを破って樹の根が露出している、物言わぬ樹なれど、その生命力の強さを感じる。
小さな虫でも害虫でなければ無闇に命を奪えないのに某独裁者は後方にいて平然として命を奪う命令を出し続けている。戦争とはそんな恐ろしいものだ。
つくづく命とは何か考えさせられる。
歩道とサイクリング道 道の左は寝屋川です
今冬1の冷え込み、夜に入り特に冷え込む
〝大阪公立大学工業高等専門学校〟は自宅直ぐ側にある
嘗て高専は全国各地に設立され、当初は大変人気を博し入試はどことも高い競争となり頗る難関だったが最近は稍々落ち着いてきた。 数年後には移転するらしい
ロボットやプロミラリングで大活躍
↑門
↑体 育 館
頗る冷え込む
19日天満宮盆梅展より 境内テント張りで書道展が開催されていました
幼稚園児 小学校低学年
中 学 生
大 人
高 校 生
一時 稍々ひんやりする
《ものずくりイズム館》
1970年の万博を彷彿させる
↓訪問した日付
ここでは新製品の数々が展示されている
↑↓時代を追って映像が大スクリーンに流れる
↓ 〝さくら広場〟
190本のソメイヨシノが植えられている、間もなく満開の景色が見られることだろう
春
創業の地 大阪市北区西野田大開町
今後松下幸之助ような優れた人物は出ないのではなかろうか、単に事業家としての他に近江商人の所謂三方よしの“売り手よし”“買い手よし”“世間よし”の3つのよしの精神に通底する倫理哲学を持っていた。これは儲け第一主義の今の起業家には殆ど見られないのでは。
〝松下幸之助の歩みと業績〟
1 894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)で生まれる。
幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出され後奉公先を五代自転車に移す。
16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。1917年、大阪電灯を依願退職した。
大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)とソケットの製造販売に着手。
1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。 1929年の松下電器製作所への改称した。
1932年を事業拡大のため土地が広い門真市に本社・工場を移転し1935年には松下電器産業株式会社として法人化した。
その後の発展は人口に膾炙するするところである。
1989年4月27日松下記念病院(守口市)において死去。享年94。
先日の新聞報道によると松下一族の副会長が退任し松下の社内での系譜は途絶えるようである。既に「松下電器」「National」が消えており一抹の寂しさを感じる。
《松下開業初期の家内工業》
↓昔のソケットの基幹部品の作成
*続 く
快晴で初夏を思わす温かさ
パナソニックミュージアムオープン1周年記念企画展が3月7日(木)~4月20日(土)まで開催されている、京阪電車「西三荘」駅から徒歩2分、自宅からだと電車で5駅目、約10分で行ける
入場無料
左「松下幸之助歴史館」入口傍で松下幸之助像が迎えてくれる、右は「浮くかたち一垂」のモニュメント 2018年
一番右に「松下幸之助歴史館」その左「ものづくりイズム館」その左「さくら広場」
「松下幸之助歴史館」
「松下幸之助歴史館」受付
展示場入口
*続 く
爽やかな春日和
今日は東北大震災から7年目に当たる。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、今も不自由な毎日を悲しみの中にお送りの方々にお見舞い申し上げます。
7117 11311忘れがたい因縁の数字です7117については些かの関りがあり、その当時を振り返り色々なことが脳裏に浮かびます。
地域での防災訓練に参加しました、主たる目的はAEDの使い方を学びたかったからです。
AEDについてはよく見聞きするが具体的な使用方法を知らなくて機会があれば学びたいと思っていた。器具だけを使えば簡単に目的を達することが出来ると思っていたのは大変な認識不足と分かった。この機器を使うときは必ず補助に人工呼吸をしてくれる人が必要なのです。
↑実際に器具を使い体験自習をしました、これは難しくないが同時に人工呼吸をする人が大変な労力を要する
↑担架の使い方
↑消火器の使い方
↑地震、震度5の体験 もの凄い揺れ
↑殆ど先が見えない煙の中の避難体験、とんでもない所に突き当たる