歩行記録 H27-8-28(金)
歩行時間:6時間25分 休憩時間:2時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分 到着時刻:17時55分
歩 数: 40、334歩(推定距離30.2km) GPS距離29.0km
行程表
内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅
50番大御堂寺(源義家)
大御堂寺大門 大御堂寺
50番大御堂寺(おおみどうじ)と51番野間大坊と同じ境内にあり、本堂が大御堂寺に、本殿が野間大坊になっている。
弘法堂は本殿の左側に祀られていた。
大御堂寺の歴史は古く、寺のHPには、「天武天皇の時代に “阿弥陀寺” として建立され、その後衰えた寺を行基菩薩が
中興します。 のちに弘法大師が知多半島をまわった折に、護摩修行を行いました。その後白河天皇が阿弥陀字を勅願寺と
して阿弥陀寺を 「大御堂寺」 と改称されました。
平安時代末期に入り、平治の乱で平清盛に敗れた 「源義朝」 が、この大御堂寺のある野間へ家臣を頼ってやってきました。
その家臣の裏切りにあい、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。 義朝公のお墓や、義朝公の御首を洗ったとされる
「血の池」 等いわれのものが境内に多数あります。 後に源頼朝公が、亡くなった義朝公の菩提を弔うために、延命地蔵尊と
不動明王・毘沙門天をおさめました。そして七堂伽藍を造営します。」
これで大御堂寺と野間大坊の関係が凡そ理解できた。ようは野間大坊は大御堂寺の十四坊の一坊と云う事だろう。
大御堂寺の門は山門といわずに 「大門」 と呼ぶのらしい。その大門の周りは柵が設けられ立入禁止になっていた。
案内板によれば
「建久元年(1190)、源頼朝公が亡き父義朝公の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した折に創建された。」 とある。
一方大御堂の案内板は
「大御堂寺一山の根本堂。現在の建物は3度の火災等により、宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建されたもの。」
とあるがどちらも文化財の事には触れていない。不思議に思い寺のHPを確認するが、本堂にある仏像は県重要文化財に
指定されていたが、建物については記載がない。何故だろう?
鎌倉時代のしかも天下の将軍頼朝が創建した建物が文化財でないなんて? 不思議だ。
源義朝の墓 血の池
大御堂寺の横に 「源頼朝公御廟」 があった。中央にある義朝の宝篋印塔を埋め尽くすように、長い板切れが置かれている
のは1本500円で売っている木太刀で、これに願い事を書いて奉納するらしい。。
何故絵馬でなく木太刀かと云うと、義朝が家臣の裏切りにで入浴中に襲撃を受けた際、
「我れに木太刀の一本なりともあれば」 と無念の叫びをあげたとされる故事に因んだとされる。
入浴中に殺害されて有名なのは町奴の幡随院長兵衛だが、ここにもこんな事件があったのだと初めて知りました。
(義朝の墓所の写真を何故か撮り忘れてしまい、ネットから複写させてもらいました。)
その義朝の首を洗った 「血の池」 も境内にあり、この池の水は国家の一大事が発生すると赤くなると言い伝えられている。
ではいつ水の色が赤くなったのかと、突っ込みを入れたくなるが、「今は水草が生茂り水面が見えません。」と逃げられそうだ。
源義朝の墓に関して以前下田街道を歩いた時、河津町小鍋の 「小鍋神社」 にこんな案内がされていた。
「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、
又、国の主とぞなりたまへ」 と激励したと「源平盛衰記」に見え、また後にこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。
文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる」
中々面白い話だったので文覚(もんがく)上人について調べてると、文覚上人は伊豆に流罪になり、同じく伊豆国蛭ヶ島に
配流の身だった源頼朝と知遇を得ているのであながち出鱈目の話でもない。
だが何故文覚上人が源義朝の髑髏を持っていたのか、まして蛭ヶ小島と離れたここに義朝の髑髏を埋葬したのかも分からない。
しかも頼朝が父親の髑髏を見て、そのままにするのが不自然で、普通なら近くに手厚く埋葬するだろう。
所詮は他愛のない作り話なのだろうと思った事がある。
マニ車 愛染明王堂と弁財天堂
マニ車が収められているお堂の前に 「インドネパールより伝来 般若心経が刻まれています。世界で最初のマニ車。
一回まわす事により、苦しみ悪を除きます。」
これを読んで疑問を感じないあなたは協調性豊かで素直な人。先ほど天邪鬼に睨まれる程のヘソ曲りの私には到底承服でき
ない話です。何故かですって、最初に “インドネパールより伝来” とありながら “世界で最初のマニ車” となっている。
これが “本邦最初” ならそんな物かと思うのだが。
これではまるで日本の文化のあれもこれも、全て伝授したと言っている、何処かの国と同じになってしまいそうだ。
境内の片隅にヒッソリ建っていた愛染明王と弁財天のお堂。下に置かれた石は ・・・・・・・
歩行時間:6時間25分 休憩時間:2時間20分 延時間:8時間45分
出発時刻:9時10分 到着時刻:17時55分
歩 数: 40、334歩(推定距離30.2km) GPS距離29.0km
行程表
内海駅 0:45> 48番 0:25> 49番 0:15> 56番 0:05> 52番 0:05> 53番 0:05> 51番 0:05> 50番 0:20>
55番 0:30> 57番 1:35> 番外 0:05 58番 0:05> 59番 0:20> 60番 0:30> 61番 0:15> 62番 0:25>
63番 0:10> 65番 0:10> 64番 0:15> 常滑駅
50番大御堂寺(源義家)
大御堂寺大門 大御堂寺
50番大御堂寺(おおみどうじ)と51番野間大坊と同じ境内にあり、本堂が大御堂寺に、本殿が野間大坊になっている。
弘法堂は本殿の左側に祀られていた。
大御堂寺の歴史は古く、寺のHPには、「天武天皇の時代に “阿弥陀寺” として建立され、その後衰えた寺を行基菩薩が
中興します。 のちに弘法大師が知多半島をまわった折に、護摩修行を行いました。その後白河天皇が阿弥陀字を勅願寺と
して阿弥陀寺を 「大御堂寺」 と改称されました。
平安時代末期に入り、平治の乱で平清盛に敗れた 「源義朝」 が、この大御堂寺のある野間へ家臣を頼ってやってきました。
その家臣の裏切りにあい、義朝公はこの地、野間で殺されてしまいました。 義朝公のお墓や、義朝公の御首を洗ったとされる
「血の池」 等いわれのものが境内に多数あります。 後に源頼朝公が、亡くなった義朝公の菩提を弔うために、延命地蔵尊と
不動明王・毘沙門天をおさめました。そして七堂伽藍を造営します。」
これで大御堂寺と野間大坊の関係が凡そ理解できた。ようは野間大坊は大御堂寺の十四坊の一坊と云う事だろう。
大御堂寺の門は山門といわずに 「大門」 と呼ぶのらしい。その大門の周りは柵が設けられ立入禁止になっていた。
案内板によれば
「建久元年(1190)、源頼朝公が亡き父義朝公の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した折に創建された。」 とある。
一方大御堂の案内板は
「大御堂寺一山の根本堂。現在の建物は3度の火災等により、宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建されたもの。」
とあるがどちらも文化財の事には触れていない。不思議に思い寺のHPを確認するが、本堂にある仏像は県重要文化財に
指定されていたが、建物については記載がない。何故だろう?
鎌倉時代のしかも天下の将軍頼朝が創建した建物が文化財でないなんて? 不思議だ。
源義朝の墓 血の池
大御堂寺の横に 「源頼朝公御廟」 があった。中央にある義朝の宝篋印塔を埋め尽くすように、長い板切れが置かれている
のは1本500円で売っている木太刀で、これに願い事を書いて奉納するらしい。。
何故絵馬でなく木太刀かと云うと、義朝が家臣の裏切りにで入浴中に襲撃を受けた際、
「我れに木太刀の一本なりともあれば」 と無念の叫びをあげたとされる故事に因んだとされる。
入浴中に殺害されて有名なのは町奴の幡随院長兵衛だが、ここにもこんな事件があったのだと初めて知りました。
(義朝の墓所の写真を何故か撮り忘れてしまい、ネットから複写させてもらいました。)
その義朝の首を洗った 「血の池」 も境内にあり、この池の水は国家の一大事が発生すると赤くなると言い伝えられている。
ではいつ水の色が赤くなったのかと、突っ込みを入れたくなるが、「今は水草が生茂り水面が見えません。」と逃げられそうだ。
源義朝の墓に関して以前下田街道を歩いた時、河津町小鍋の 「小鍋神社」 にこんな案内がされていた。
「昔、文覚上人が伊豆の源頼朝に父義朝の髑髏を見せ、「疾く、疾く、謀反を起こし、平家を討ち亡ぼして、父の恥をぞ清め、
又、国の主とぞなりたまへ」 と激励したと「源平盛衰記」に見え、また後にこの地に義朝の髑髏を埋め弔ったと伝えられている。
文覚が髑髏を葬った場所は、神社の南側にある四抱ばかりの樫の巨木の根本であると伝えられ、この木を髑髏樹と呼んでいる」
中々面白い話だったので文覚(もんがく)上人について調べてると、文覚上人は伊豆に流罪になり、同じく伊豆国蛭ヶ島に
配流の身だった源頼朝と知遇を得ているのであながち出鱈目の話でもない。
だが何故文覚上人が源義朝の髑髏を持っていたのか、まして蛭ヶ小島と離れたここに義朝の髑髏を埋葬したのかも分からない。
しかも頼朝が父親の髑髏を見て、そのままにするのが不自然で、普通なら近くに手厚く埋葬するだろう。
所詮は他愛のない作り話なのだろうと思った事がある。
マニ車 愛染明王堂と弁財天堂
マニ車が収められているお堂の前に 「インドネパールより伝来 般若心経が刻まれています。世界で最初のマニ車。
一回まわす事により、苦しみ悪を除きます。」
これを読んで疑問を感じないあなたは協調性豊かで素直な人。先ほど天邪鬼に睨まれる程のヘソ曲りの私には到底承服でき
ない話です。何故かですって、最初に “インドネパールより伝来” とありながら “世界で最初のマニ車” となっている。
これが “本邦最初” ならそんな物かと思うのだが。
これではまるで日本の文化のあれもこれも、全て伝授したと言っている、何処かの国と同じになってしまいそうだ。
境内の片隅にヒッソリ建っていた愛染明王と弁財天のお堂。下に置かれた石は ・・・・・・・
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