はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音2-8

2014-12-17 11:36:39 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺
 2:00>
 霊山寺 0:25> 帆掛山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                       霊山寺(久能道)

        
          久能寺観音道道標         静岡駅前の久能山東照宮案内
          道標の場所
 鉄舟寺からは太い車道を避けて山沿い、と云っても西にある日本平の付根の道は百地蔵で歩いて
いるので、今日は1本外側の道を歩く事にした。このどちらかの道がかっては「久能道」と呼ばれた道
らしいが、どちらの道も古道らしき面影は感じられなかった。しいて言うなら山際の道の方が誓願寺、
楞巌寺、玉泉寺、東海寺、能満寺などの寺があり面白味があるかな。

 旧東海道に出て少し西に行った所に「久能寺観音堂」の道標が建っていて、案内板には
「安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺
観音堂は、この平川地から有東坂、矢部、妙音寺、鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道の事で
ある。 有度まちづくり委員会」
とあった。
 普通に読めばそれだけの案内板だが、私は文中の妙音寺に引っかかってしまった。
何故久能寺の手前にある妙音寺村が旧東海道に久能寺の道標を建てたのか? そもそも妙音寺村は
何処にあったのか? 
地図で探してみると平川地、有東坂、矢部などの地名は今も残っていたが、妙音寺は地名も寺も見当
たらない。鉄舟寺近くには---- アッあった!
鉄舟寺前の県道脇に 「妙音寺自治会館」 が、その県道を少し行った所には妙音寺バス停もありました。
たぶん江戸時代にはこの辺りに妙音寺村で妙音寺が建っていたのでしょう。
しかしこれでは何故妙音寺村が旧東海道に道標を建てたかは判りません。さらに調べていくとこんな
興味深い説に辿り着きました。
「古来有度山北東部は大沼、船越堤、上原堤など今でも名前の残る湿地帯だった。当時妙音寺村では
大沼の渡しの権利を持ち、旅人や農民を大沼の対岸に渡す稼業をしていた。
ところが今川の末期、。甲斐の武田がこの地を制すと盛んに開拓を行い、湿地や沼は埋め立てられて、
次第に農地として開墾されていった。そのため妙音寺村では家業の渡しが出来なった。
妙音寺村は更に不幸が重なり、久能山山頂にあった久能寺が武田の砦を作るため強制移転となり、
その移転先が妙音寺村だったのです。
土地も仕事も無くなった妙音寺村だったが、徳川が駿府を治めるようになると、新たに安倍川の渡しを
行う事になり、その仕事を渡しに慣れている妙音寺村の住民に任せる事にした。
そのため妙音寺村の住民は安倍川の西岸に移住させられ、安倍川の渡しに従事するようになった。
そして村内には新たに妙音寺を建造した」
のだそうです。
確かに安倍川西岸の安倍川橋近くには今でも妙音寺と云うなのお寺は建っている。だがこれだけでは
妙音寺村が東海道に道標を建てた理由にはならない。
話はさらに続く。
「村は移転しても移せないものがあります。それは先祖のお墓です。つまり久能寺観音みち道標は新た
な妙音寺村の人々がお墓参りのみちの道しるべとして建設したのではないでしょうか?」
と閉めてある。

 この様な説は私の妄想的歴史観に若干似ていて大好きなのだが、少し気になる点もある。
先ず大沼の渡しをやっていた妙音寺村だが、大沼が開拓され農地になったのなら、そこを耕せば渡し
稼業より安定した生活が送れただろう。
更に大沼の渡しは舟で人や荷を対岸に運んでいただろうが、安倍川は舟は使わず人による“川越”
“渡し”ではない。
更に言うならば、武田の駿河進攻で今川が駿府から逃げ出したのが永禄11年(1568)。その武田も
天正11年(1582)滅亡してしまった。世の中が落ちつき将軍を譲って駿府に来た家康が、薩摩土手を
築いたのが慶長10年(1605年)で、この時初めて安倍川の流れは現在の流れとなった。
この間約40年もあり、大沼の渡しを家業にしていた人達は皆年を取ってしまった。一方農地は40年
も耕してきたのだから土地も肥え愛着も湧いていただろう。果たして簡単に安倍川へ移住できたか?
マー疑問はあっても面白い説だと思う。特に道標が子孫の墓参りのためだったとは泣かせる話だ。
      妙音寺自治会館の場所           安倍川西岸の妙音寺の場所

 話がまたまたおかしな方向に行ってしまったので久能道に戻そう。
昨年百地蔵を歩いているとき静岡駅南側の八幡山の麓で久能道の道標を見た覚えがある。場所から
いって清水の久能寺(現鉄舟寺)とは考えられないので、久能山の久能寺の遍路道だったと思われる。
ならば武田信玄の駿河進攻よりも前の道標ではないか、と思い写真を探したのだが見つからない。
写したと思ったが写さなかったのだろうか。
代わりに出てきたのが静岡駅南口に建っている 「久能山 東照宮」 の記念碑の写真だった。
これには 「従是 貮里拾壹町」 とあるから、久能山の道標の一種と考えても良いのかもしれないな。
この立派な記念碑は 「大正四年四月十七日」「三百年祭 奉齊會」 とあるのを見ると、久能山が今年
「久能山東照宮御鎮座四百年」
と盛んに宣伝し、静岡市も 「徳川家康没後400年」 の催しを行っていた。
その300年の時にこの記念碑を建てたのだろう。
ここでまたまた屁理屈を。この記念碑の大正4年は西暦で云えば1915年。今年は2014年。
因みに徳川家康は元和2年4月17日に亡くなっている。西暦なら1616年。マー大正時代は“満”とか
“数え”等があるので置くとしても、今年の没後400年は数が合わないのではないか。
下衆の勘繰りで云うならば、昨年久能山東照宮が国宝に指定されて、上がった熱を冷まさないために
早めたのではないかと。     間違っていたらご免なさい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿