はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音2-6

2014-12-06 10:29:06 | 寺社遍路
歩行記録                                 2014-10-4(土)
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間20分   延時間:11時間05分
出発時間:6時05分   到着時間:17時10分
歩  数:  42、893歩   GPS距離30.9km
行程表
 静岡駅 0:40> 竜雲寺 0:15> 愛宕神社 1:30> 平沢寺 0:55> 日本平 1:10> 鉄舟寺 2:00>
 霊山寺 0:25> 帆立山 0:15> 梶原山 0:30> 桃林寺 0:45> 草薙駅 

 
                 鉄舟寺(薄墨の笛)
 
           鉄舟寺仁王門                      鉄舟寺
      鉄舟寺の場所
 日本平から清水運動公園に下るハイキングコースの途中に「望岳台」があるらしいが、その事を思い
出したのは運動公園に着いてからだった。今更戻る気にもなれず見学は止めにする。
 鉄舟寺の手前にある寺の門前に「富士山の眺めの良いお寺 観富山龍華寺」とあった。寺の山号が
観富山なら富士山の眺めもいいだろうと入る気になった。しかしその横の案内板に「拝観料300円」とある
のを見つけやっぱり止めにした。
どうも清水の寺は観光慣れしたのか、左程見る物も無いのに金を取るので好きになれない。

 鉄舟寺は駿河一国33観音や駿河一国百地蔵の札所なので馴染みの寺だ。その鉄舟寺の山門を潜り
階段の参道に向かうと 「ここより有料」 の立札が立っていた。本来なら有料の所は入らないが、今日は
特別で見たい物があるので仕方ない入るとしよう。見たい物? それは 「薄墨の笛」 です。
この薄墨の笛については過去何度もブログに書いてきたので、ここでは流れだけを紹介します。

           
                            薄墨の笛(複写)
 
        足柄峠の吹笙之石(笛吹石)                蒲原の義経硯水
伝承1
「八幡太郎義家の弟、森羅三郎義光は笙(しょう)を豊原時元から学び秘曲の奥義を伝授された。
師亡き後義光は奥州で苦戦していた兄八幡太郎義家を助けるために奥州へ向かった。
師の子は秘曲の奥義が絶えることを恐れ義家の後を追い、足柄峠で奥義の伝授を受ける。
そのとき義光が座った石が吹笙之石(笛吹石)として今に残る」

伝承2
「薄墨の笛は義光から八幡太郎義家の孫の源義朝(源頼朝・義経の父)に譲られる。義朝は平治の
乱で敗れると、薄墨の笛を妻の常盤御前に与え都を落ち延びた。
常盤は我が身を平将門に捧げ我が子の助命を願い、幼き牛若丸(義経)が鞍馬寺に預けられるとき
牛若丸に薄墨の笛を託した。(牛若丸が五条の橋で弁慶と戦ったとき吹いていた笛)」

伝承3
「義経が鞍馬寺を脱出し、金売り吉次と奥州を目指して東へ下る途中、三河の矢作宿で美しい姫君・
浄瑠璃姫と恋に落ち、一夜の契りを結んだ。しかし大事な旅の途中のこと、義経は姫と別れ、その際に
薄墨の笛を手渡して奥州に向け旅立った。」

伝承4
「駿河の国に入った義経は、海路で有度浜から狩野川の河口沼津を目指したが、突然激しい風雨に
見舞われ、蒲原の浜に打ち上げられてしまった。それが元に病の床に臥した義経は涌水(義経硯水)で
浄瑠璃姫に手紙を書いた。蒲原に駆けつけた浄瑠璃姫は必死の介護をしながら神仏に願うと、さしもの
病もほどなく回復したが、またもや義経は浄瑠璃姫を置いたまま奥州を目指し旅立ってしまう。」

伝承5
「残された浄瑠璃姫の悲しみは日に日に深まり、三河の国へ帰る気力も失せ、蒲原の地に病に臥すと
義経から譲り受けた薄墨の笛を久能寺(久能山)に預けて、十六歳の若き命の御霊は浄土の世界へ
飛び去ってしまった。」

伝承6
「武田信玄の駿河進攻の際、要害の地にあった久能山の久能寺は、村松の地に移転を余儀なくされ、
薄墨の笛と共に清水村松に移転する。
時は移り豊臣秀吉の小田原征伐で功を挙げた中村一氏が、駿河国を任された際に久能寺にあった
薄墨の笛が破損している事を知り修理する。」

伝承7
久能寺は江戸時代後期になと衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。その後、
山岡鉄舟が寺を復興し、寺号を鉄舟寺と改めた。
鉄舟寺の薄墨の笛は静岡市の文化財にも指定され、今では薄墨の笛で鑑笛会も開催されている。」

 (薄墨の笛の音色を聞く事ができます

 足柄峠で奥義譲受のため義光が吹き、京の五条大橋では牛若丸が吹いた薄墨の笛は 
「森羅三郎義光 ⇒ 源義朝 ⇒ 常盤御前 ⇒ 牛若丸(義経) ⇒ 浄瑠璃姫 ⇒ 久能寺 ⇒
 鉄舟寺」
と渡り歩いて、今は鉄舟寺の宝仏殿に収まっている。

 そんなわけで今回はどうしても薄墨の笛を見たくて300円も払って宝仏殿に入る事にした。
オッとその前にこんな話もあったので備忘録代わり紹介しておきます。
薄墨の笛と同じ源平時代には 「一の谷の 戦敗れ 討たれし平家の 公達あわれ ----」 の歌曲
で有名な 「青葉の笛」 があります。この歌曲の主人公・平敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期
の武将・平清盛の甥で17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、馬で海上の船に逃げようと
した敦盛を、源氏の熊谷直実が 「逃げるとは卑怯なり」 と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦
盛を馬から組み落とし、首を斬ろうとすると、我が子と同じ年頃の若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛
を助けようとしたが、敦盛は 「すみやかに首を取れ」 と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
 その熊谷次郎直実は、志太地区には縁があり、大崩山塊に咲く熊谷草や熊谷直実の伝説が残る藤枝
の熊谷山蓮生寺もあるが、今回は省略------

 青葉の笛は現在神戸の須磨寺の寺宝として展示されているが、黄金の厨子にある笛はボロボロに
風化し吹く事は勿論、手に取ることさえ出来ないような状態だそうです。
同じ時代の、源義経と平敦盛の二人の笛が、かたや現役で片やボロボロ? 一体何故だろう?

  
                 山岡鉄舟銅像                     撤収の遺墨
 鉄舟寺と云えば寺の名前の元になった山岡鉄舟の紹介をしない訳にはいかない。
静岡県で鉄舟と聞いて思い浮かぶのは、・西郷隆盛との会見 ・咸臨丸の壮士の墓 ・鉄舟寺再建 
・相良油田
などがあるが、この全ての話に清水次郎長が関係していたとは知らなかった。

 駿府で西郷隆盛と江戸城無血開城の会見をするため駿府に向かった鉄舟は、薩埵峠で官軍に行く
手を阻まれ地元の料亭 「望嶽亭」 に逃げ込んだ。望嶽亭の主は鉄舟を匿うと同時に、親交のあった
清水次郎長に連絡して、鉄舟を舟で清水の次郎長宅に送った。身なりを整えた鉄舟は次郎長の知人
「松崎屋源兵衛」 宅に案内された。
ここで山岡鉄舟は西郷隆盛との会見を行い、有名な江戸城無血開城を成功させる談判を行った。
この逸話の証拠物件と云うべき、鉄舟が持っていたピストルが、望嶽亭で大切に保管されている。

 そうこうしているうちに清水湊で幕府の軍艦 「咸臨丸」 が新政府軍から攻撃を受け沈没した。賊軍の
屍が湾内に浮遊するも、官軍の咎めを恐れ誰も手を出さなかったなか、一人次郎長が屍を拾い集め、
手厚く供養し葬った。それを聞いた鉄舟はいたく感心して「壮士の墓」 の墓碑銘を次郎長に贈った。

 清水の由緒ある久能寺が荒れ果てていたのを惜しんで、鉄舟は再興を図った。その資金とすべき自ら
揮毫した沢山の書とともに募金の趣意書を次郎長に送り協力を依頼している。
ただ惜しむべきは、鉄舟寺の完成を鉄舟は見る事ができなかった。

 

 ここまでは一般的な話だが、相良の油田に鉄舟が関係しているとは知らなかった。
その相良油田とは太平洋岸で唯一の産油地だったが、産油量の激減などのため昭和30年(1955)に
廃止になり、今では 「油田の里公園」 として周辺が整備されている。
この油田で採掘された石油は希少な軽質油で、精製せずにそのままで自動車が動くほどだったいう。
その油田に鉄舟何故関わったのか?
相良油田の社長石坂周造は鉄舟と同じ 「浪士組」 のメンバーで、しかも鉄舟の妻の妹と結婚していた。
そのため鉄舟は資金集めに協力して次郎長に手紙を出し、油田開発に協力してくれるよう依頼していた。
次郎長も親分鉄舟のため一肌脱ぎ株券募集に奔走して資金集めに協力した。この株券は明治25年に
発行されたもので、一株が25円という巨額のものだった。
しかし相良油田は採算的には失敗に終わり、債務の償還のため山岡鉄舟は莫大な負担を余儀なくされ、
その連帯保証の債務は26万円に達し、鉄舟が侍従として明治政府に仕えた月給350円のうち250円を、
亡くなるまでの十数年間も差し押さえられたという。

さてそろそろ宝物館に入ろう。

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