はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音1-7

2014-11-07 08:58:04 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                        増善寺(今川氏親2)
          
                松平家の墓                           柘植家の墓
 今川氏親の墓は増善寺墓所の一番の高台にある。最初ここに来た時はその場所が分からず、途中にあった立派な
墓を氏親の墓と勘違いしてしまった。余りに立派だったので興味を覚え調べてみると。
 石で作った鏑木門のような門は、何とも不安定で地震がくば倒れてしまいそうに見える。だが古色蒼然ながら今も
倒れていないのだから地震は強いのかもしれない。この墓は延宝4年(1676)駿府城代に任命された松平勝忠(勝易)
の墓で、この時代は徳川4代将軍家綱の御世となり徳川幕府も安定してきた頃だ。勝忠は1686年に亡くなっているので
この墓は約330年前の墓と云う事になる。それにしてもよく倒れなかったものだ。

 もう一つの墓は織田信長の弟の信治の子と産まれた柘植平右衛門正俊の墓で、何か面白い話はないかと探したが特に
見つからなかった。名字に柘植は母方の姓を名乗っていたのだそうだ。

 
                  今川家霊廟                   今川氏親の五輪塔
 墓所の意一番高い所にあった今川中興の祖・氏親の墓は、途中で大きな墓を見たので小振りに感じてしまった。
廟と言っても格子窓の付いた祠のような感じの中に、三体の五輪塔があるだけの質素な廟だった。その三体の中で
どれが氏親の墓なのかの説明もない。ただ屋根の中に安置されているので五輪塔の石肌に苔は付いていなかった。

 氏親が今川中興の祖とされてい理由は、今川の勢力地域を駿河一国から遠州と三河の一部にかけて広げた事が
主要因だろう。だがこれは母親の兄弟の伊勢新九郎(北条早雲)の助力による事が大きかった。
次いであげられるのは「今川仮名目録」を制定したことだ。がこれも晩年は中風にかかって寝たきりになっていた
氏親だったのに、彼の死の2ヶ月前に制定している。となるとこれも当時政治を補佐していた正室の寿桂尼の力が
大と云う事になる。
この今川仮名目録とは東国では最古の分国法で、戦国大名が領国内を統治するために制定した法令だが、実際は
嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であったともいう。

母親の北川殿と妻の寿桂尼は共に京出身の姫君で、特に寿桂尼は大納言(太政大臣・右大臣左大臣に次ぐ地位)の
娘であった事から、京の文化人が足しげく駿府に来るようになり京文化が駿府に定着した。
氏親は歌連歌師の宗長を外交顧問として召し抱え、丸子城近くに吐月峰柴屋寺を建てて住まわした。尤も外交顧問
とは云うものの連歌会で各地を歩きながら、その国の内情を今川に伝えていたとも云われている。
京文化は義元にも影響を与え、お歯黒など公家の習慣を真似たり、桶狭間では武将でありながら馬に乗らずに輿に
乗っていたなどで、武士にあるまじき行為と侮蔑的に見られる向きもある。
義元の子の氏真は更に京文化に染まり、武将としての鍛錬はせず、もっぱら蹴鞠ばかりに熱中し、蹴鞠の師匠を
京より招いて、家来に白い目で見られていたとも云われている。
 こうしてみると京の姫君二人は氏親には良い影響を及ぼしたが、今川家にとっては軟弱な風潮を招き滅亡の元に
なったのではないか、と私は思う。

        
         範国(福王寺)                      範氏(慶寿寺)
        
                 泰範(長慶寺)                   義忠(正林寺)
 今川範国(のりくに) 駿河今川家初代当主 駿河・遠州守護職 墓所:磐田市福王寺
 今川範氏(のりうじ) 駿河今川家2代当主 墓所:島田市慶寿寺
 今川泰範(やすのり) 駿河今川家3代当主 駿河・遠州守護職 墓所:藤枝市長慶寺            
 今川義忠(よしただ) 駿河今川家6代当主 駿河守護職 子:氏親 妻:北川殿 墓所:菊川市正林寺

 参考までにウォーキングで歩いていてお詣りした今川家当主のお墓です。増善寺にある氏親の墓も含め、どれも
余り立派な墓はではありませんでした。あと氏輝と義元の墓が臨済寺にあるのですが、自由に立入りできないので
まだお詣りしていません。4代と5代の墓はウィキペディアに墓の場所の記載がないため場所が分かりません。


               増善寺観音堂                      観音堂旧跡地
イヤー!こんな調子では今回の遍路が安倍七観音ではなく、今川家探訪記になってしまう。少しは観音さんの事も
紹介しなければ。
 この増善寺には行基作の千手観音が奉納されている筈だが、山門前の案内板にはその事は触れていない。
そこで静岡市の文化財一覧を見てみたが、彫刻部門には増善寺の名は無かった。
それに増善寺の本尊は地蔵菩薩で千手観音ではない。そうなると安倍七観音の話は単なる言い伝えなのか? 
尤も私の遍路は仏像を見る事でなく、歩く事が主目的なのだから余り関係ないが。

 次の法明寺への道は本堂と観音堂の間のから続いている。標識もなく分かりずらいが、その入口には数本の
杖が準備されているの判断できる。入口から6・7分も登ると「椎之尾神社」からの道に合流する。
この辺りの地名は慈悲尾(しいのお)で、地名の謂れは増善寺の前身が慈悲寺であったためと思っていた。
では何故“慈悲”なのかは分からなかった。
だがここに椎之尾(しいのお)なる名前の神社があるという事は、これこそが昔の地名の謂れではなかったのか? 
椎之尾なら‘椎の木のある、なだらかな山裾”となり、この辺りの地形にぴったりする。
その椎之尾に寺を建てたとき、“椎之尾寺”では威厳が無い。そこで“しい”を“しひ”として“慈悲”の字を当てたのでは
ないか。そしていつしか地名も椎之尾から慈悲尾に変わっていった。
現在静岡市の斎場は、ここ慈悲尾にあり、地名がより相応しい感じになっている。

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