はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠州三山初詣ウォーク2

2013-01-07 17:52:59 | 寺社遍路
遠州三山初詣ウォーク2                   歩行月日2013/01/03

歩行時間:6時間50分 休憩時間:1時間50分 延時間:8時間40分
出発時間:7時30分 到着時間:16時10分
歩  数: 44、542歩  GPS距離:29.8km

行程表
 掛川駅 1:00> 展望台 1:30> 法多山 1:30> 久野城跡 0:30> 可睡斎 0:50>
 油山寺
 1:30> 愛野駅

 観歩記
塩の道で森町の天方城跡に行ったときに「武田信玄は久野弾正忠宗を残し天方城を守らせた。
翌年の徳川勢による天方城攻落の際、久野弾正は必死に防戦したが遂に力尽き甲斐へ逃げ
去ってしまった」
とあった。さらに弾正の事を調べると、久野弾正は元々は久野城主の一族で
久野家一族の政変の結果、天方城に行ったのも分かった。少々長くなるが引用します。

「永禄11年12月、徳川家康は武田軍に駿府を追われた今川氏真が籠っていた掛川城を一気に囲んだ。
一方久野城の久野宗能は今川の恩に報いるために、久野城に籠って徳川軍を迎え撃つことにした。
掛川城を囲む家康にとって久野城は邪魔な存在だが、兵と時間を割くことは得策ではなかった。
そこで家康は使者を宗能のもと送り説得に努めた。
この時期には今川の没落は誰の目にも明らかであいり、宗能は一族存立のため城内の異論を押え
家康に従う決意を固めた。
この頃、武田軍も駿河から遠江へ兵を進めていて、宗能は家康の命に従って武田勢と戦ったが、
対陣中の久野一族の者に武田方からしきりに誘いの手が伸びていた。と同時に掛川城の今川方
からも内通の誘いがあり、久野城内は揺れた。
今川氏真からは、家康を討ち取れば遠江一国を与えると云ってきたので、一族の久野弾正忠宗政は
掛川城の今川勢とともに家康を挟み討ちにすることを進言した。
しかし宗能はこの進言を言下に却下し家康への忠を明確にしたのであった。
弾正忠宗政らは掛川城兵を久野城内に引き入れて宗能を討ち取ることを謀ったが、この謀計は
事前に宗能らの知るところとなり、家康の加勢を得て一挙に反乱者たちを鎮圧する行動に出た。
宗能からの通報を受けた家康は直ち久野城本丸に攻め込み、反乱を鎮圧したのであった。」

この政変で久野弾正忠宗は天方城に落ち延びて武田に味方したのだった。

ここまでは天方城に行ってから調べたのだが、実際に久野城に行けば違う解説もあるかもしれない
と楽しみにしていたのだが -----

 
        久野城跡大手門                  西の丸への登り

久野城は標高34mの独立丘陵を利用して築かれた丘城で、本丸を中心に階段状に曲輪を配して
いるらしいが城音痴の私にはよく分からない。ただ本丸下は自然の崖を利用して石垣がわりにして
あり、これなら攀じ登れないだろうとは思った。ただ案内板の
「当国第一の要害にして、例え何万騎を差し向けても落べくも見えず」は少々誇張だと感じた。
その案内板なのだが、私の期待していた記述は何も書いてなかった。

次は可睡斎に向かう道だが、地図も無く事前調査もしていない。しかし多分大丈夫だ。西の丸の
高台に登り西の方角を見れば工場の高い建物が見える。あの方向に向かえば可睡斎への参道に
出るだろうから、そこを北に行けばよいだけだ。

  
       この岩は何だろう?                 これは何仏?

民家の庭に黒い大きな石をケルンのように積んだ物があった。草や木などの植物は生えていない。
一体何だろう。石を積み上げただけでセメントなどで固定もしてない。地震がくれば崩れてしまい
そうだが、何のために建てたのか? 石を買い、輸送費を払って運搬して、重機で積み上げるにも
金がかかったろうに。訳が分からなった。

可睡斎の門前の庵に二体の木像が安置してあった。私の眼には厳かで貴重な仏像に見えるが、
庵の中でなく廊下に立っているところを見ると、貴重な仏像ではないのかもしれない。
ところでこの仏像は何と言う仏さんなのだろう。向かって左の像は薬壺のような物を持っているので
薬師如来か? 右の像は同じようは容姿だが、手は何も持たず親指と人差し指をで丸を作っている。
二体の像の胸には卍が浮き彫りにされているが、これは何を表しているのだろうか。

城跡の事も仏像も、そして石仏の事も何も知らない自分が情けない。この仏像を見て○○仏と云える
ようになりたいのだが、そんな日は来ないだろう。歩くだけでは知識が付く訳がないのだから。

可睡斎については過去何回か紹介したので今日は三尺坊のお姿の天狗を紹介します。
    
      狛犬ならぬ狛天狗                      〃

総本殿前の階段脇の烏天狗の像は、一匹(?)は八手の葉の扇子を、もう一匹は剣と綱を持って
いて参拝者を睨めつけている姿は中々の迫力です。

   
左の鋭い目つきをした烏天狗と、右の金太郎に長い鼻を突けたような天狗は「奉献濃州小牧宿」
の文字が見える。濃州なら美濃の国で現在の岐阜県になる。
これを見ただけても秋葉信仰が遠州だけでなかった事が理解できる。
真ん中の天狗は異様に長い髭をたくわえ黒い顔をしている。鼻の先が曲がったり、鼻からも髭が
延びていたりしているが、何となく興味を覚える面構えだった。

     

オッ!これが天狗か? 鼻が低いと言うよりも、周りで長い鼻を見ているので鼻が無いように
感じてしまう。おまけに鼻と口の間が広いので何かノッペリした感じがしないでもない。
鼻の下が長いとは、これが助平顔か。

家康が信玄に追われて隠れた「出世六の字穴」に行こうとしたが、奥の院方面は進入禁止に
なっていて行く事が出来なかった

可睡斎から油山寺には千鳥ヶ谷池を経由して山道で行く積りだったのだが、どこで道標を見落と
してしまったのか、気が付いたら油山寺の正面に通じる道に出てしまった。今更戻る気も無く
そのまま油山寺に。これで2・3kmは少なくなってしまっただろう。

 
      油山寺山門                      工事中の油山寺本堂

掛川城の大手門を移築した油山寺の山門は、流石にどっしりとした構えをしている。でも何故か
初詣の人は少なく露店も一軒も出ていない。三山の中で一番人気が無いようだ。
1番人気の可睡斎は厄除け、2番の可睡斎は火伏、3番の油山寺は眼病予防なので初詣客が少ない
のも仕方ないのか。厄除け、火伏なら誰でも関係あるが、眼病では罹った人しか縁が無いのだから。

例年の通り奥の院にお詣りをして、次は「菅谷の横穴古墳」に寄る事にする。
場所は油山寺を背に東側の尾根にあるゴルフ場の中にあったはずだ。道は根拠は無いが太めの
道を左折して尾根に向かい、尾根に出て丁の字の交差点を右の南に向かった。

 
     ゴルフ場の扉                    大岡越前の祖父の墓?

ガク!道は当ったのだが横穴遺跡に通じる金網の門が閉まっていた。確か昨年この遺跡は事前
連絡が必要だとは聞いていたが、まさか本当に鍵が掛かっているとは。ショック
こうなれば諦めるしかない。後は帰るのみ。
永源寺の横を通り、太い道を横断して東名高速の跨線橋を渡ると水道タンクに出た。更に南に
向かう道を進んで行くと見た事のある場所に出た。そうだここは大岡越前守の母方の祖父の墓の
ある場所だ。前回来た時は集団だったので近くで見る事は出来なかったので、今日は墓の前まで
行ってみた。しかし古そうな墓はあったが、どれが大岡越前の祖父の墓か分からない。
これも残寝ながら諦めるしかなかった。

      
      あぶら山道の道標                油山道の道標

「右 あぶら山道」と刻まられた道標が立っていた。まるで散らし仮名で書いたように太い細い
ある洒落た文字で、いつ建てたのか見たが彫られていなかった。雰囲気的には新しい感じだ。
また道標が立っていて、今度は「従是油山道」と、今度は先ほどの道標とは打って変わって
太く力強い書き方だった。この道標には案内があり「文化7年(1810)油山寺道標」となっていた。
どうやら私が歩いてきた道は、掛川歩面からの油山寺の参道のようだ。

道は国道1号のバイパスに出たが、ここからどうしよう? 掛川駅に行くか、それとも近くに
ある愛野駅に向かうか。時刻は3時50分でまだ十分明るいが、掛川駅にはここから1時間以上
かかるだろう。そうなると駅到着は5時過ぎになってしまう。風は強くて寒いウーンどうしよう
少しでも弱気になると後は脆い。掛川は諦め愛野に向かう事にした。
不思議な事に、冷たい風の吹き抜ける逆川の土手を、風に向かって歩くのも何故か楽しかった。
まさか乾杯の時間が早まって嬉しいのか、いやそうではなく今日も一日無事歩けた事が嬉しく
感じたのだ。
今年一年も無事歩けますように。

          

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