はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

烏帽子形山・花倉城跡ウォーク2

2012-02-26 22:58:47 | 低山歩き
花倉城跡~藤枝駅

 分岐からわずか20分ほどで本丸跡に到着してしまった。ウーンこれでこのまま下ってしまったのでは全然物足りない。距離も此処まで13k足らずしか歩いていない。ならもう一度分岐まで戻って、当初の予定通り花沢城跡のハイキングコースを最初から歩いてみようと、またもや来た道を戻る私でした。(本当に好きだな、自分でもアホたれてしまう)

 コンクリの急な道はゆっくり歩こうとしても徐々に早足になってしまう。だがここで転んでは怪我をしてしまいそうだと、落葉が積もった山側を下った。
しかしハイキングマップに何故この道を載せないのだろう?烏帽子形山から花沢城跡に行き、その後ここに戻り温泉に行けばよい。そうしないのはこのコンクリの道が危ないからなのか?
いや違うだろう。一度花倉城跡に行ってしまうと、そのまま下ってしまい、再度ここまで戻って温泉に行くハイカーは居なくなってしまいそうだ。そうなると市営温泉の客が減る。なるほど、だから分岐に花倉城跡の新しい標識が無かったのだと、勝手な解釈で悦に入る私でした。

 分岐から北に下るハイキングコースは沢沿いの道で、周りは植林された杉や檜で薄暗い道だった。今は冬、しかも下り坂なので体が冷えて陽射しが恋しいが、夏ここを歩けば涼しい爽やか道になるだろう。
そんな道を歩きながら考えた。烏帽子形山の下りで間違えて滝沢の方向に下ってしまったが、あの道をそのまま下っていくと島田に抜ける道に通じている。それなら花倉城の抜け道になるのではないか、麓から敵に攻められたら山沿いに島田に抜けて遠州に落ち延びることができる。
だが謀反を起こし花沢城に立籠もった玄広恵探は、城の麓で自刃してしまった。そうなるとこの抜道は無かったのだろうか?
家に帰り再度花倉の乱を調べてみると、麓で自刃した恵探だが、その麓とは瀬戸谷とある。ならば滝沢と同じ谷にあるだ。
そうか恵探は花倉城を脱出して、間道を通って遠州に逃れようとしたのだ。だが同じ今川の攻撃陣は、この間道の事を知っていたので麓で待ち構えていたのだろう。それを知った恵探は「最早これまで」と自刃してしまった。アースッキリした。

 県道81号に合流。ハイキングコースはここを左に曲がり温泉に向かうが、私を右折して西方に向かう。そこから再度花倉城跡に登る予定だ。それにしても車が通らない県道だ。結局西方の信号まで約25分、1台も車に出合わなかった。
 
 道の奥に大きな観音像が見えていた。入り口には「藤枝霊園」の立看板がある。きっと商売っ気の旺盛な寺の墓地だろうと思ったが、観音さんが気になり寄ってみることにした。
墓地といえば私は新所帯なので墓を準備しなければならない。いや私個人は墓になど入らなくても散骨で充分と思っているが、妻はそうはいかない。妻は墓に入りたいだろうし、私が先に逝ったとき散骨をするなどと言えば、たとえ私の遺言があったとしても、私側の親戚に猛反発を受けるだろう。それは可哀そうだ。
そんな思いはあるが信仰心薄い私は、寺の墓地でなく集団墓地を望み、故郷の富士霊園を候補に考えていた。しかし子供たちがこちらに根を下ろし御殿場とは縁が薄くなっていいる現状を見ると、私の我儘で富士霊園にするのも気が引けてきていた。
どこか良い霊園が無いだろうかと思う気持ちもあってか、ついつい寄り道をしてしまった。
観音さんの立つ最上部まで行き墓地全体を眺めながら、こんな場所でも好いかなという思いも湧いてきた。帰りに墓地のパンフレットを貰い妻にも見せてやろう。

  
  藤枝霊園                               藤枝霊園

 霊園を出るとすぐ花倉城跡の入口の看板がある。またここから城まで登り返さなければならない。だがこのコースは初級コースなので大したことはないだろう。
農道を登りだすと下に藤枝霊園が見えてきた。何だよ、私を誘っているのか?縁起でもない。
 舗装された農道が伸びていて、その周りにはミカン畑が多い。ここにもミカンを収穫せず、そのままになった木が時折出てくる。一度味を占めてしまった私は、またもや失敬して味見をしてしまった。

 農道は城の入口まで伸びていて全て舗装道路だった。これなら確かに初級コースだろう。時間も入口から20分で着いてしまったのだから。
さっきは本丸跡に行っただけで城跡の中は歩かなかった。今度は丁寧に見てやろうと早速入り口にある看板を読んでみた。塗装がが剥げかかり見にくかったが概略はこうだった。
「花倉城は足利将軍に駿河守護職の命を受けた今川が花倉に居館を構え、その背後の山に詰城として花倉城を築いた。その後本拠を駿府に移すまでの60年間は今川の本拠地として栄えていた。
駿府に移転後も一族を花倉遍照光寺の住職にして花倉城を駿府の西の守りとした」


 私は幕府から地方の守護職を任じられれば、家臣団を引き連れ堂々と府中に進軍してきたかと思っていたが、どうも違うようだ。当時の地方には地元の豪族がいて、その豪族たちを平定なり納得させなければ守護職として認められなかったのだろう。
今川家も任命当初は駿府には入らず、ここ花倉に拠点を構え、徐々に勢力を拡大していったのだろう。そして駿府に移転後も花倉は駿府の西の守りの拠点として一族を残していった。

 だがこの説に少し疑問を感じてしまった。以前駿河一国の遍路で島田の慶寿寺を訪れたときの案内では、今川家が駿河に入って最初に今川館を築いたのは島田の大草で、その後葉梨(花倉)に移ったとあった。館跡に建った慶寿寺は中世の城郭形式を残しているともあったので、館とはいえ砦のような機能をもっていたのだろう。さらに慶寿寺には今川家2代目今川範氏の墓もあった。
それなのに花倉が駿河今川の最初の拠点??

 また看板には「駿府の西の要」ともあるが、花倉の地は東海道とは離れていて、本当に西の守りの役に立ったのだろうか? 西の守りというより、駿府が攻撃されたときの逃げ込む先の城としての役目が主ではなかったのか。

 城の入口にある細い土橋を渡る。土橋といっても城の知識のない私には、単なる細い盛り上がりとしか見えず人工的なのか自然なものなのかも判断がつかなかった。その後も「空堀」「土塁」「帯曲輪」などの表示が出てきたが同じように分からなかった。
それでも「本丸」「二の丸」は平らになっているので、ここに建物があったことは想像できた。
グルリ城跡を廻ったが、景色は空堀の先にあるコンクリの急坂を登り切った場所が一番良かった。花倉城跡を訪れた人は是非ここまで足を延ばしてください。距離? いえいえ大丈夫、空堀から10mか20mの所ですから。

 本丸跡で休憩しながら歩行ノートを見てみると、先ほど本丸から農道を下ってグルリ一周してここまで約2時間30分かかっている。だが藤枝霊園で20程度ロスしているので、それを引けば2時間程度で一周したことになる。
しかし2時間かけて歩いたが特に見るべきものも無かった。それならこのルートは「烏帽子形山・花倉城跡コース」として 藤枝駅-運動公園-清水寺-烏帽子形山-花倉城跡-藤の里トンネル-運動公園-藤枝駅 がお勧めだ。
このコースなら歩行時間は6時間で距離も9k程度は短くなる。更に車利用なら藤枝運動公園に駐車すれば、歩行時間は4時間強、距離は17k程度になる。これなら誰でも歩けるので、今川に興味のある人は歩いてみてください。

 下りは一度土橋まで戻り、更に来た農道を少し戻る。分岐になったら道を右側にとり尾根上の農道を下って行く。上りの農道は距離が短かったので急な坂道だったが、この尾根の農道は緩やかな道が続きのんびり歩ける。また西側に見える尾根は午前中に烏帽子形山に登る時歩いた尾根だが、こちら側より随分高そうだ。三角山らしきピークも見えている。

  
  西側の三角山と思える尾根(黒い竹)                  ハイキングコースの標識

 こうして見ると昔、城へ生活物資を運んだのは、きっとこの道だったと思うが一つ合点のいかない事がある。
確か城跡の入口の看板には「今川館のあった場所は花倉の遍照光寺前」と書いてあった。その遍照光寺とは現在は遍照寺で今見える西の尾根の下にある。その寺の前に今川館があったなら、城への補給路は近場の西の尾根になるだろう。となると補給路は急な尾根道を行き、烏帽子形山の中腹から城までは下ったり登ったりしなければならない。しかもその道は遠州への抜道とも考えられるので、わざわざ敵に抜道を押さえさせるようなことになってしまう。

 何を言いたいのかって? 私の妄想的歴史観だと今川館は遍照寺の前ではなく「遍照光寺前方の山裾」にあったのではないかと思うのだ。敵の襲撃から逃れるのに、城までの距離が長く、起伏も多い道を行くのだろうか?
私が軍師なら館から詰城への道は、館の裏手から伸びていなければならないし、寺には砦の意味も持たせ館の反対の山裾におけば、敵を挟み撃ちにもできる。
そうだこれからハイキングコースを外れるが花倉側に下って確認してみよう。

タイミング良く標識がありコースは左の上川方面を指しているが、手書きで右は「勝谷」と書いてある。勝谷がどこか知らないが右は花倉方面なので行ってみることにした。しばらく行くと舗装が終わった先に道をロープで遮断している。何も表示はしてないが通行止めなのだろうか?仕方ない戻ろう。
いつもなら「これは車の通行止めで歩行者は関係ない」と強引に進む私なのに、その時は素直に引返してしまった。きっと疲れていて更に先まで行って戻るのが嫌だったのだろう。そんな訳で麓に降りてからも花倉まで歩く気は起きなかった。

 帰りの清水山は、山の東側を走っている藤の里トンネルを通って、瀬戸川に抜ける車道を歩く。総合運動場からは朝歩いた道を駅まで戻ればよい。

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 後日車で妻と藤枝霊園に行ってみた。
そして帰りには墓地の永代供養を申し込んでしまった。なんとも速攻だったが何かの縁があったのだろう。
これで終の寝場所は決まった。こうして人生の終末に向けての支度は徐々に進んでいくのだろう。
これが「虫が知らせた」ことにならなければよいが。

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