はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

知多四国70番地蔵寺

2015-12-11 10:00:00 | 寺社遍路
歩行記録                                                              H27-8-31(月)
歩行時間:6時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:8時間10分
出発時刻:8時45分     到着時刻:16時55分
歩  数: 38、240歩(推定距離28.7km)    GPS距離29.2km
行程表
 常滑駅 1:00> 66番 0:15> 67番 0:10> 68番 0:05> 69番
 0:10> 70番 0:15> 71番 1:00> 72番 0:25>
  77番 0:05> 73番 0:05> 75番 0:05  74番 0:05> 76番 0:30> 78番 0:10> 79番 0:00> 開山 0:20>
  80番 0:10> 81番 0:40> 82番 0:15> 太田川駅

                               70番地蔵寺(水掛地蔵)

                
                   大草城                            大草御嶽山

 70番地蔵寺(じぞうじ)は慈雲寺から東に700mも行った所にあった。途中小高い丘の上に城のような屋根が見えていたので
気になり、畑作業をしていた女性に聞くと 「大草城です。展望台になっているのでどうぞ」 と誘ってくれた。でもパスしました。

 大草城は大野城を調べてとき 「「江」の最初の夫、佐治一成が追放された後、信長の弟の織田長益が入るが、大野城の水利の
悪さから、すぐ真向かいに大草城を築城して移り、大野城は廃城となった。」
とあった城だ。
一方大草城の方では
 「織田長益は大野城に入ったが、水利が悪いため大草城を築いた。その後長益は摂津へ所領を移され、大草城は廃城となった。
しかし廃城後も知多郡の主城として重要視され、江戸時代には尾張藩により城跡の保存が図られ土居や堀が残された。」
とあった。

 ここで気になったのが大草城と大野城の距離で 「すぐ真向かいに大草城を築城」 とあるが、実際歩いた身としては “すぐ真向い”
とはとても思えなかった。そこで距離を測ると約1kmあり、車のある現在なら “すぐ真向い” でも良いが、最速乗物が馬だった
時代ではどうだろう。さらに大野城と大草城が常滑市と知多市に分かれていたのも不思議だった。

 もう一つ気になったのが、大草城は 「幻の城」 とか 「未完の城」 と呼ばれていながら、現代まで堀等が残されていた事だ。
これは知多市のHPに
 「大草城址は本丸、二の丸と周囲の土塁、堀の大部分が残っており、このような城址は愛知県下でも数少ないと言われています。
このように保存状態がよいのは、大草の地を給地された山澄淡路守英龍が、城址の西南に屋敷を構えるなど、歴代の支配者が
保存に力を注いだためです。」
とあった。
 これらの事は全て後知恵で、歩いている時は只々先を急ぐ馬鹿な私です。アーア本当に勿体無い事をしたと、後悔先にたたずです。

 幟旗に 「大草御嶽山 宝栄講」 とあるが、受ける感じが普通の神社ではなさそうだ。新興宗教なのかな。

 
                地蔵寺石柱門                                 修行大師

 大草城跡の横を巻くように北に登って行くと地蔵寺の立派な石柱門が立っていた。
それぞれの札所に立っている石柱には 「新四国」 と刻まれているが、これは知多四国霊場が開創した当初は “新四国霊場” と
称していた名残で、今は 「知多四国霊場」 に統一されているそうです。

 大草城の隣にあるのだから当然城との関係が深いだろうと踏んだが、特にそれらしい話も無かった。これは大草城が “未完の
城” だったせいだろう。

 境内に入ると修行大師の像が目に入った。本堂の大屋根をバックにした姿が格好良く感じた。

 
              本堂ならぬ弘法堂                              弘法堂内部

 本堂かと見紛うような立派な造りの建物は大師堂だった。となるとこの寺は当然真言宗だろう。
そのお堂の横に納経所があり、そこにはノートが置いてあり自由に書けるようになっていた。今日の日付の記載は無かったが、
30日に2回、28日に1回と記載があった。私?ですか。私は字が下手なので、この様な物は書かないようにしています。

 
                 本 堂                                     千体地蔵

 本堂は一段低くなった場所の手水舎の前に建っていた。手水舎の真前に本堂は、何となく不自然に感じたが、その訳は後で
分かった。
本堂横には赤いよだれかけに風車を持った子安水子地蔵が祀られている。陶器でできたチャチな地蔵ではなく、舟型の光背を
もつ石仏で、寄進料が高いだろうなと、余計な心配をしてしまった。

        
                     手水舎                                   水掛地蔵尊

 この地蔵寺は 「大草のお地蔵さん」 と呼ばれ、地元では親しまれる寺で、本尊は井戸から上がった地蔵尊だった。
そしてお地蔵さんが上がった井戸が本堂の手水舎の中に保存されていた。
本堂の前に手水舎があるのではなく。地蔵の上がった井戸の前に本堂を建てたという事のようだ。納得。

 このお地蔵さんにはこんな話が伝わっていた。
 「江戸時代中頃、盲目の女性が、地蔵寺に七日七夜参籠した満願の日に夢のお告げがあった。「我は竹林の井戸にある
地蔵である。汝、我を助け出して井戸を改修すれば、盲眼必ず開かん」 そのお告げ通りにすると、夜明けと共に目が開いた。」


 この井戸から上がったお地蔵さんが本堂に祀られているならと、本堂を覗いたが残念ながら分からなかった。その本堂横から
裏に続く参道に誘われて行ってみると、小さな祠の中に “水掛地蔵が” 祀られていた。
よく見れば 「井戸からあがった 延命水掛地蔵尊」「眼病平癒・病気平癒 お地蔵さんに水を掛けて 自分の痛いところと同じ
場所をなでてください」
と掛札も下がっていた。
井戸から上がった水掛地蔵は、本堂の沙弥壇の上ではなく、本堂裏の祠の中に祀られていて、自由にお詣りして撫で擦る事が
出来るようになっていた。だから “大草のお地蔵さん” と地元の人達に愛されているのだろう。
水掛地蔵尊は普通の石仏と違い、小振りで黒っぽい石仏の周りを、白い石で包み込むようになっていた。その地蔵尊の頭等が
テカテカ光っているのは、参拝者が撫でた痕なのだろう。

      
                     地蔵の上がった井戸                           水掛地蔵尊
                                        おん かかかび さんまえいそわか

                                         69番慈光寺から70番地蔵寺の道

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