はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

城ロマン:藤枝3城廻り(田中城趾)

2018-04-03 16:00:00 | ウォーキング
歩行記録                                                       H30-3-25(日)
歩行時間:5時間45分   休憩時間:1時間25分   延時間:7時間10分
出発時刻:6時30分     到着時刻:13時40分
歩  数: 29、058歩(推定距離20.05km)    GPS距離km
行程表
 西焼津駅 0:20> 田中城下屋敷 0:20> 田中城本丸跡 0:50> 青山八幡宮 0:30> 潮山登山口 0:20> 潮山 0:40>
 朝日山城趾 0:30> 新東名岡部IC 1:20> 龍勢発射場 0:05> 玉露の里 0:20> 朝比奈城趾 0:30>
 玉露の里BS
345
   
                              藤枝3城概略図

  久し振りの城址廻りは地元藤枝の城跡を訪ねてきました。
藤枝市内の城址には今回の田中城、朝日山城、朝比奈城の他に今川の跡目相続で落城した葉梨城もあるが
一度に回るのは私にはきつ過ぎるので今回は3城址廻りにしました。

その内の田中城趾は過去何度も歩いていて概要は知っていますが、余り私の興味が湧く遺構は残っていません。
しかも住宅地の中の平城ですのでウォーキングや低山歩きの楽しみもなく、ただ回るだけとなりそうです。

一方、朝日山城と朝比奈城はまだ一度も歩いたこともなく、しかも山城ですので興味津々です。
朝日山城のある潮山は志太地区では目立つ山ですので、見るたびに行かなければと思うのですが、超低山で歩く人の
少ない道は虫や蜘蛛の巣に覆われていると思うと中々行く気になりませんでした。
朝比奈城も超低山ですが、こちらは藤枝市のハイキングコースに認定されていて、その全コース紹介しようと思っている
私としては必ず歩かなければならないコースです。なので今回の城址廻りは丁度良い機会になりました。

  因みに藤枝市のハイキングコースの紹介は、全20コースの内の17コースは紹介済みです。
このハイキングコースに興味がある方は一度覗いてみてください。
利用は方法は 本ブログの 「カテゴリー」 欄の 「メニュー」 を開き、 「藤枝市認定ハイキングコース」 開いてください。

 
              西焼津駅                                    潮 山

  山が近くに無い西焼津駅に下車したのは今回が初めてです。これで静岡から浜松の間の駅でウォーキングや低山歩きで
乗り降りした事のない駅は天竜川駅だけになりました。

  前方にはこれから行く潮山が見えています。潮山の山頂には無線のアンテナがあるので、山頂部分だけ樹木を伐採して
あって、歯抜けのような形ですのですぐ見分けがつきます。
今回初めて登る潮山ですが、多分アンテナの保守用の道がしっかり付いているのではないかと思っています。

 
                田中城下屋敷                               六間川

  田中城の下屋敷前に来たが冠木門はしっかり閉じられています。それもその筈で時間はまだ7時前でした。
潔く下屋敷は諦めて次に向かいます。しかし次と云っても順路が表示されているわけではないので適当に歩くしかありません。
9時を過ぎて下屋敷が開門していれば、案内図が載っているパンフレットを貰えるようですが仕方ありません。

  下屋敷の北に流れている六間川は、水源を国道1号線の藤枝警察署横の青池に取り、瀬戸川と朝比奈川が合流する地点まで
幅6間の運河を開通させ堀と水運に利用したようです。

          
                    田中城の様子(藤枝市郷土博物館『田中城絵図』より)

  ここで少し田中城の来歴の説明をしておきます。
田中城は瀬戸川に沿った微高地上に築城されており、四重の堀に囲まれ、「亀城」「亀甲城」 とも呼ばれる直径約600mの
円形の縄張りは全国的にも類例がないそうです。
上の図を見れば亀城などの名前の意味は一目で分かりますが縄張以外にも田中城には高い建物が無く、低い城郭だった
ことから亀の甲羅のようだと亀城と呼ぶようになったと聞いた事もあります。
更にこの地域は微高地以外は湿地帯が多く、四重の堀に加え湿地帯が亀(城)を守ってくれたのでしょう。

  城は今川氏の命を受けた土地の土豪が築城したのが初めで、その後今川義元が桶狭間で敗れて今川家が衰退すると
駿河に手を伸ばしてきたのが甲斐の武田信玄です。
信玄は義元が討死し勢いを失った駿河の田中城や持舟城、丸子城、花沢城など駿河の城を次々と攻略してしまいます。
田中城は武田方が攻略後大幅に手を加えたのも東海道の要所にある事や防御に適していたからではないでしょうか。
だが一時は駿河で勢力をふるった武田勢も、信玄が病没し長篠の戦いで敗れるとその勢いを失っていきます。
遠州高天神城が家康に攻撃されても既に援軍を送る力を失った武田は、打つ手も無く高天神を見殺しにしてしまった。
これで完全に武田は駿河での力を失い、各城で敗北を繰返して甲斐に去って行きました。

  武田が去った後も徳川も田中城を重要地点と捉え、田中藩を設置して明治になるまで存続させました。
そんな田中城ですが日本史に残る事件も発生しています。
元和2年(1616)徳川家康は田中城に立ち寄った際、焼津で獲れた鯛の天ぷらを食べて死んだとされています。
そのため江戸城内ではテンプラ料理は禁止された等の話もあるようですが、家康が死亡したのは1月の夕食に食べて、
死去したのは4月だったことから食中毒ではなく胃癌が死因だったという説もあるようです。
地元の住民としてはテンプラ死亡説の方が面白いのですがね。

    
               小学校の田中城模型                           小学校の田中城模型

  田中城の本丸跡は現在は藤枝市立西益津小学校になっています。その校庭の中には田中城の模型が設置されているので
関係者ではないですが清々と開いた校門を入り写真を写させてもらいました。
堀を幾重にも廻らわせた中に天守閣が建っています。オッとこれでは田中城には高い建物が無かったことで亀城と呼んで
いた根拠が無くなってしまいます。
どちらが正しいのか調べてみると、ウイキペディアにこんなことが紹介されていました。
  「田中城には天守閣は無く、2層2階の物見櫓が建っていたが、明治時代に払い下げ移築して住居として利用されいたが、
寄贈され、史跡田中城下屋敷の整備にあわせ移築された。」

へーそうなると最初に見た下屋敷の建物が天守閣代わりの物見櫓だったのか。初めて知りました。

    
               三日月堀標識                               三日月堀

  武田流築城術の特徴というか代名詞の丸馬出と三日月堀の跡もありますが、素人の私には余り魅力を感じられません。

    
               大手二の丸跡                               三日月堀

  大手二の門跡の案内はあるがこちらも面白味を感じません。ここには堀の一部や復元された橋もあるのですがね。

 
               家老屋敷跡                                土 塁

  住宅地の中に遺跡が残っている場所も、たんなる空地や土手としか見えません。
どうやら私が好きなのは山城であって平城は理解の範囲外のようです。
その山城も歩く事が主であって、遺跡はあくまでも従の関係ですが。

    
             青山八幡宮と潮山                        須賀神社の大クスノキ                           
  そんな田中城址にはサッサと別れて次の潮山に向かいます。
道は適当に北の方角に見える潮山を目指すのですが、潮山に近づくにつれ手前の山が大きくなってきます。
この低い山は旧国道1号の所ある八幡神社だろうと見当をつけて先ずはそこに行ってみる事にします。

  旧東海道に合流し 「史跡 鐙ヶ淵」 に寄ります。
ここには何が有るというわけではないが、十返舎一九の東海道中膝栗毛のなかで
 「ここもとは鞍の鐙が淵なれば」 と詠んだことで知られています。
鐙ヶ淵とは東に流れていた葉梨川が、ここで90度近く向きを北に変えているため、その恰好が馬に乗るときの鐙に似ている
事から付いたのでしょう。
この様に川が急に向きを変えれば当然大水の時は氾濫したので、この辺りの地名は 「水守」 です。
少ない貴重の水をお守りした 水守 に対し、ここでは川から水が出ないように水を守ったなんて説は強引すぎますかね。

  淵から東海道を少し行くと須賀神社の大クスノキがある。推定樹齢500年とかで中々立派です。

  
        東海道脇の鳥居                    葉梨川                  青山八幡宮の鳥居

  須賀神社の先に鳥居が立っているが神社は見えない。ただ鳥居の先には八幡宮がある山が見えていますが、ここから
200mはあるでしょうか。途中には葉梨川があり旧国道1号も走っています。
東海道から離れているのに直線で参道をこしらえるほど由緒のある神社なのか、鳥居横の縁起書を読んでみました。

 
               青山八幡宮拝殿                               青山八幡宮本殿

  「源頼義、義家親子が奥羽征討祈願のため勧請した社で、源氏が五里毎に八幡の社を建てた五里八幡の一社という。
創立当時の神領千石との口碑があるが定かではない。豊臣秀吉公は百七十石五斗の神領を寄せ、徳川幕府も亦これにならった。
武門の守護神として田中城主の崇敬篤く、神器具その他が寄進された。」

  まず驚いたのが創建当時の神領が千石もあったとの事。のちの江戸時代でも1万石で小大名で千石でも高級旗本とか、
それが鎌倉時代ならもっと価値があっただろう。マ~ “口碑だけで定かではない” と断ってあるのでいいでしょう。

次に気になったのは今回初めて聞く 「五里八幡」 と言う言葉。鎌倉時代に一里塚のような物があったのかと調べてみると
 「源頼義が勅を奉じ、奥州の安倍一族平定の時、通行する街道筋に鎌倉の鶴岡八幡宮を起点として五里毎に石清水八幡宮を
勧請したことによる。」
とか 「鎌倉鶴岡八幡宮を起点として陸奥に向かって五里ごとに八幡を創建した。」 等が出てきた。
いずれも鎌倉を起点として陸奥に向かって八幡宮を建ててとなっていて、逆の京に向っての記述は出てこない。

疑っては悪いが本当の話なのでしょうか、今後八幡宮に寄った時は縁起書で “五里八幡” を注意したいと思います。
それは兎角、青山八幡宮は武家の信仰が厚く田中城の城主も度々参詣しているようだが、この山に登って辺りを見渡せば
田中城の物見櫓から見張るより、ここのが東・西・南が一望できることは一目瞭然な事です。
ならばここに見張台を設け、城と手旗信号なり狼煙などで連絡を取りあえるようにしなかったのでしょうか?
 (ネットに八幡山砦なる記事も載っているが真偽のほどは分かりません。)

  神社の裏は今は急な斜面で下にある小道に下っているが、少し前までは潮山からの山脈に繋がっていたという。
新幹線か東名高速の盛土に使うため掘削をしたと何かで読んだ記憶があったので、今回探したが分からなかった。
それでも若しかして道が残っているかと思い、神社裏に立ち入ってみたが踏み跡らしき物すら無かった。

            
                ウラシマソウ                       ウラシマソウの葉

  マムシグサが咲いていると何気なく下なく見ると、アレ~釣り糸がある。
慌ててしゃがみ込んで確認すると、苞の中から黒い蔓が延びている。2年ぶりのウラシマソウとの再会です。
同種のマムシグサはどの山に行っても目にするが、ウラシマソウは花沢山で一度見ただけです。
今後は葉を見ただけで判別できるように写真を写しておきました。

  青山八幡宮では思わぬ拾い物を幾つかした。これだから観歩は楽しい。

四国遍路22日目

2018-04-03 10:00:00 | 四国遍路
                  ザックが水浸し(22日目) (2003/4/3)

 宿(6;20) → 宿(14:20)             33.4km

  ホテルの部屋の中にいても分かる雨音。
今日は車道と離れるのは内子町の公園の中を歩く時だけで、後は途中に札所が無い国道を歩くのみ。

 雨の山道もトンネルも昨日でこりごりしたが、他にも雨だと煩わしい事が幾つかある。
まず雨だと札所で納経するときが煩わしい。
晴れていれば首に掛けた さんや袋から納経帳や経典を出すだけだが、雨だとさんや袋をザックから出したり、
納経帳が濡れないように神経を使う。
一方ザックの雨対策は、ザックの上部にザックカバーが付いているので、それを全体に被せるだけでザックは
濡れる心配が無い。今までの雨はそれで中身が濡れる事は無かった。

 今日明日と田舎の遍路道となるのだが懐の現金が心細い。
しかも今日は旅館を予約してあるので大洲か内子で現金を引出しておかないと宿泊代が払えなくなってしまう。
雨の日は小さいATMではザックから通帳を出し入れするとき濡れてしまうので、内子のメイン通りの銀行を
利用する事にした。

 支出を意識した分けでもないが、今日まで無駄遣いは殆どしていない。昼はコンビニ弁当が主で、飲み物も
下痢で懲りたのでペットボトルは余り買っていない。
歩きの途中で食べる間食もお接待で貰った物で足りている。この調子だと1日8千円前後で上がりそうだ。
今日下す金額は10万円。もっと少なくてもいいのだが何回もATMで下すのが面倒だ。
それにしても合羽に菅笠の今の格好は、何か事件が発生して監視カメラを調査すれば、参考人の最右翼になって
しまうに違いない。

そうそう遍路の本には、カードは郵便局の方が何処にでもあって便利とあったが、私の経験では手数料の事を
考えないなら銀行のが便利と思う。
確かに郵便局は田舎の町にもあったが、ATMの無い局(そんな郵便局があるんだ!)では、手書きで払出書を
書かなければならないと、ブツブツ言っていた遍路さん二人に会っている。

 雨の中の遍路が可哀そうと感じたのか、今日は2件のお接待を受ける。
その内の一つはなんと赤飯のお握りだった。走っていた車が止まり、わざわざ車を降りてきて
 「今日お赤飯を炊いたのでお接待させていただきます」 と女性が包みを手渡してくれた。
何回お接待を受けても、感謝の仕方が上手くならない私は、
ただ 「有難うございます」 と言うだけの対応しか出来ない。なんとも情けないことだ。

 国道56号と別れて橋を渡り国道380号に入ると、大きいスパーが有った。
そこの荷物置場の屋根の下を借りて赤飯の昼食にする。
最近は朝の出発が早いので、腹は12時まではとても持たず、10時には1回目の昼食を取り、2時頃2回目の
昼食を食べるようになっている。
今日も10時頃お接待の赤飯食べ、身支度を整えてザックカバーを再度被せて雨の中を出発をした。

 雨の勢いは弱くならず、国道のダラダラ上りは永遠に終わらないかのように続く。
それでもこの国道は交通量が非常に少ないので、トンネルを歩いても怖くない。それどころか菅笠が雨に打たれる
音もせず静かで良いくらいだ。

 そんなトンネルを越えたとき左側に 「お遍路無料宿」 と看板が出ている建物があった。
この宿の事は本にも載っていたが無料の善根宿で布団や毛布もあるらしい。
当初はこの宿に泊まってみたい気はあったのだが、昨日からの雨でそんな気持ちは無くなっていた。

何しろ昨夜はホテル泊まりで、暖房がエアコンだったので靴下も下着も乾いていない。
今晩乾かせなければ着替えが無くなってしまう。それではとてもここに停まる事はできない。
それでも中を見てみようとしたが、入口はしっかり閉まっていて開ける事ができなかった。
通りには人子一人見当たらないので諦めて歩き出す。

 この辺りは山が迫っていて、畑も人家も山の斜面にへばりつくように建っている。
見た目は長閑な山村風景だが、台風や地震のときはどうだろう。慣れていない私には怖くて眠れないのでは
ないだろうか。今日も雨が強いが泊る旅館は大丈夫かな?など余計な不安も頭をよぎる。

 また腹が空いてきた。赤飯を食べた所のスパーで買えば良かったのだが、お接待に喜んでしまい買うのを
すっかり忘れてしまった。お蔭で食べる物が何も無い。

だが今日はついていた。空腹が気になりだすとすぐに食料品屋(萬屋)が出てきた。しかも店の向かいには
真新しいバス停があり屋根もしっかりしている。入口は戸も付いているので雨も吹き込まない。
早速萬屋でお握りを買ってきて、バス停の中で2回目の昼食とった。
この時ザックは肩から下ろしただけで開けなかった。

 今日の歩行距離は昨日より9km程少ない33kmだが、やはり疲れる。
所詮毎日30km以上を歩いているのだから疲れて当たり前。疲れないのが異常だ、など思いながら歩く。

内子町を過ぎ小田町に入る。今日の宿は小田町の繁華街?を過ぎた、集落の外れにある宿を予約してある。
途中にあった繁華街の旅館も、遍路宿の一覧の中にあったが、中々立派な建物だった。
予約してある宿も旅館なので期待できるだろう。

今日のように一日雨の日は少しぐらい値段が高くても、温かいお風呂に暖かい食事。そしてフカフカの
布団が何よりだ。お金を降ろしたせいか、いつものケチケチ精神を忘れて大きい気分になる。
そうだ今日は燗酒を頼もう。2本? いや3本頼もうっと!

 繁華街から旅館まではほんの1Kか2Kのはずなのに気が弛んでしまい、最後は足を引きずるような
歩き方になってしまった。

 ウン?これが旅館? 山の斜面ではなかったがこれが旅館? 古い民家にただ 「✖✖旅館」 と看板がある
だけだ。民宿だとしても粗末なのに、これが旅館? 意気消沈して入口を開けて中に入った。
中は・・・・・・ あーもう止めよう。

 気を取り直して合羽を脱ぎザックを下ろし、ザックカバーを外そうと手を掛けると何かおかしい。
ザックカバーがブヨブヨしている。ウワー大変だ! ザックカバーの中に水が溜まっている!
それも少し溜まっているのでなく、背中側にカバーを折り返してある所まで溜まっている。
そっとカバーをザックから外すと、水はピシャピシャしていた。

アーア! 昨日の雨で下着も靴下も乾いていないのに、ザックの中まで濡れてしまったとは。
明日着るものが無い、困った。

 カバーの中の水を玄関の外にこぼし、合羽の整理をしていると宿の人が来て2階の部屋まで案内してくれた。
部屋も非常に古いが床の間付きの8畳だった。ただ何より嬉しかったのは石油ストーブが有ったことだ。
これで濡れた物を乾かせる事が出来ると、早速ザックの中身を全部取り出す。

 ザックの上側にはさんや袋。これはさんや袋自身も防水になっており、中の納経帳等は無事。
次の層には日記も含めた小物類。これらもビニール袋や小さなタッパの入れ物に入れてあったので無事。
次は衣類。勿論衣類も全てビニール袋に入れてあったので濡れてはいなかったが、下着はしっとりと湿った感じで
このままではとても着たくない。
一番底は妻から預かった写経や封筒便箋類だが、これらもビニールに入れてあったが袋の口の始末が悪かった
のか濡れている。写経は字が滲み、場所によっては判読できない状態になってしまっている。
それでも乾かせば般若心経を書いてある事は分かるだろう。

 結局一番濡れていたのは(当たり前だが)ザックだった。
手でザックの内側を触ると水が付いてくる。このままで荷を入れれば又中の物が湿ってしまう。
乾かすしかない。
タオルで何回も水分を拭取り、ストーブで乾かし始めた。
手に持ちながら焦げないように、でも少しでも早く乾くようになるべくストーブに近づける。
そうしているうちに湯気が出始めた。
最初は少なかったが、その内モクモクとザック全体から上がりだした。
ヤバイ! 火災探知機のセンサーが作動してしまう。慌てて天井を見るがそれらしき物は無い。
アー良かった! 最も湯気でセンサーが作動するかどうかは分からないが、多分作動はしないだろうなどと
など考える余裕も出てきた。
夕食を挟んでザック、衣類、写経と何とか乾かすことが出来た。写経は和紙の色が変わり醜い染みも出て
しまったが、折角妻が書いたのだから残りも納経しようと思っている。

 実は写経は私がお遍路に行きたいと妻に言った後、妻が書き出し7枚完成した。
納経するお寺は任せるというので、先ずは最初の1番と最後の88番、それにお礼参りに行く予定の
高野山奥の院には納経しようと決めてある。
後4枚は阿波、土佐、伊予、讃岐の札所に1枚づつ納経しようと思っていた。
今までに阿波では1番と21番太龍寺。土佐では足摺岬の金剛福寺に納経してきた。
これからは伊予では松山の石手寺、香川では善通寺に納経しようと思っている。

 話を元に戻そう。石油ストーブによる乾燥作戦は大成功で、火災センサーも鳴ることもなく、なんとか
全部を乾かすことができた。
今日のような状態で石油ストーブが無く、エアコンやコタツが暖房手段の宿だったらどうしただろうか。
宿の人にお願いするとなると迷惑も掛けるし、遠慮もしなければならない。本当に助かった。

今日の宿が繁華街で見た立派な旅館だったとしたら、きっと暖房設備はエアコンだっただろう。
大師様はそれを見こして石油ストーブのある、この宿を手配してくれたのだ。
これも遍路修行の賜物か、感謝しなければならないのかな。

そうそう楽しみしていた燗酒は乾かす事に熱中していたので頼むのを忘れてしまった。
と言えば格好いいが、実は夕飯のおかずが余りに少なく、酒の肴に回す物が無かったのが実情だ。
お風呂? 実は・・・・・・ 止めよう、すぐ意趣返しする大師様が恐ろしい。

でも翌日料金を聞いて安心した。
名前が旅館なので、きっとぼられると思っていたが民宿並の金額だった。
それなら宿の名前を 「✖✖旅館」 でなく 「✖✖民宿」 としておけばと、また不満が出で来る
修行不足の
私でした。(翌年この旅館から年賀状が届きました)

 大事な事を忘れていた。何故ザックカバーに水が溜まったのかだ。
これはきっとカバーの裾を、ザックの底より背中の上の方に、折り返したのが原因と思う。
カバーを底で止めておけば水が溜まる所は無いのだから。
(ザックカバーの正しいセットの仕方は分かりません)

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